ファイル1「解剖実習×消えた献体」(4/5)

 雪野は廊下に出ると、解剖準備室の引き戸を開け中に入る。

 南と神木はその後をついていく。

「雪野くん、ど、どこ行くの?」

「犯人の行動をシミュレートしてみる!」

「犯人って……」

 まるで探偵ドラマのような状況に、眩暈がする。神木は楽しそうだ。


「鍵がかかっている中に入れるのは、鍵を持っている管理人か、管理人と通じている荒中だろう。鍵を盗んだりしていなければ」

 雪野は言いながら、首をかしげる。

「でも、遺体を運び入れたあと、鍵はかけなかった……んだな」


「開いてたって言ってたよね」

 まあ、そういうこともあるだろう。急いでいたとか、気が動転してうっかり忘れていたとか。と、スルーしかけて「あれ?」と南は記憶を辿る。

「たしか、鍵が開いてるのを不審に思っていたのは、荒中くんだったよね?」

 自分の手抜かりを訝しんだのだとしても、わざわざあの場で言うだろうか? それとも管理人の不始末を責めたとか? それにしても、わざわざ言う?


「妙だな。意図的に開けられた可能性も考えておこう」

 雪野はそう言うと、ホルマリン固定液作成装置やら遺体防腐処理装置の水槽やらをチェックし始めた。


「あんまり触ると怒られるよ……」

 南は遠巻きに見守る。神木は面白そうに近づいて、「何探してるのー?」と質問をぶつけている。


「殺人遺体だよ。って言っても、処理されているなら、もうわかんないけど……」

 その言葉に、ふいに何かをひらめいたらしく、神木はぱっと部屋を飛び出した。

「おっ、おーい神木! 待ってよどこ行くの!?」

 南は慌ててその後を追いかける。雪野もついてきた。


 神木は鬼気迫る表情で走りながら、


「お、俺、授業終わって、廊下を歩いてたらさ、組織実習室って部屋があって面白そうだなーと思ってふらっと入ってみたんだよ」と。

 何してんだよ神木。

「南を待つつもりだったし、時間潰しに壁に貼ってあるポスターとかいろいろ見てたんだけど、そこにさ、なーんか、妙なモンが置いてあったんだよ」


「妙なモン、って、何……?」

 言っている間に、その部屋に来てしまった。


 組織実習室――理科室のような無機質な空間。電気は点いておらず、窓のブラインドも閉じられていて、午後の日差しはわずかに天井の隙間から斜めに漏れているだけだ。


 そんな部屋の奥、床に……何かが、ある。


「……あれのこと……?」


 南が指差したその先、視界の中に異物のような違和感が浮かんでいる。

 人間大の塊。白く、ぶよっとした布が何重にも巻かれ、ぐるぐると縛られている。

 それは、まるで――


「これ、献体にかぶせてあった白カバーじゃないか?」


 神木が呟いた。

 ぞわりと全身に寒気が走る。


「……え、ちょっと待って。これって、まさか――」


 言葉に出すのが怖い。

 でも、口にしなければ現実になってしまう気がする。

 南は目を見開いたまま固まる。

 カバーの膨らみは、どう見ても人の形をしていた。四肢がある。頭もある。

 それがただ「置かれている」こと自体が、異常だった。


「う……うわあ……」


 神木が一歩、後ずさる。


 ありえない。ここに、こんなものがあるはずがない。

 何かの間違いであってほしい。でも――


「高校生の遺体が……入ってるんじゃないか?」


 雪野の声は、低く沈んでいた。

 その言葉に背筋が凍る。


 誰も、動けない。

 ただ、その異物から目を逸らせなかった。

 まるで、こちらの視線に応じて“中身”が動き出すのではないかと錯覚するほどの緊張感が張り詰める。


「……開けるぞ」


 静寂の中で、雪野が言った。


「え……開けるの……?」


 誰の声かもわからなかった。自分かもしれない。

 誰かが止めてくれることを、誰もが願っていたのに、誰も止められなかった。


 雪野が慎重な手つきで、白いビニールカバーの端に手をかける。

 その瞬間、南は本能的に息を呑んだ。


 カバーが、めくられる。


 そこには白い顔をしたぴちぴちの若人が横たわっていた。今までに見た遺体と比べて、より生々しい。

 げんなりした空気が漂い始める。警察が探している高校生とはきっとこの人だ。ここは遺体遺棄現場ということになるのだろうか。


「待てよ、一旦状況を整理しよう」

 雪野は邪魔するなとばかりに目を閉じて、ブツブツ言い始める。南はパニック状態のまま、神木の肩にしがみついて待った。


「……待て」


 雪野は小さく息をついて、薄暗い部屋の中央で立ち止まり、目を伏せる。

 それからゆっくりと目を開き、低く静かに言葉を紡ぎ始めた。


「一度、情報を整理する。――順を追って考えよう」


 部屋の温度が下がるような沈黙の中、雪野の声だけが落ち着いて響く。


「まず、今朝の時点で、八班の献体が一体“消えていた”。それがNo.8。俺が昨日、前日準備で並べたときには、たしかに揃っていた。だが今朝、八班の担当献体がどこにも見当たらず、授業が始められなかった」


 静かに右手の指を折っていく。


「次に、予備の遺体は使えない。防腐処理がまだ済んでいないからだ。そして授業後、No.8と同じQRコードが付けられた遺体が“二つ”見つかった。つまり、コードが複製されている。情報管理上、これは重大な不正の痕跡だ」


 雪野は一拍置く。視線は、今も白いカバーに覆われた遺体に向けられている。


「No.8の死因は“溺死”。そして、今、警察が捜索している失踪者――北高の三年生も、溺死の疑いがある。彼の衣服は濡れた状態でこの施設周辺に遺棄されていた」


「この状況を前提に仮説を立てるなら、こうなる」


 雪野は淡々と、まるで講義のように言う。


「何者かがこの高校生の遺体を、実習で使用する献体群に“紛れ込ませようとした”。目的は遺体の隠蔽。匿名で保管される解剖献体の山に埋もれさせれば、発見される可能性は著しく下がる」


 それを聞いて、神木が小声で言う。「つまり……死因が一致するNo.8のQRコードを複製して、貼ったってことか」


 雪野は頷く。


「そう。だが問題が起きた。――テレコだ」


「テレコ?」


 南が眉をひそめる。


「QRコードをコピーして貼る際、元のNo.8と“偽のNo.8”が入れ替わった。つまり、今日の朝、授業に出すべきだったNo.8の遺体が消え、代わりに“偽のNo.8”、つまり本来なら隠すはずの遺体が、授業用として台の上に並べられそうになっていた」


 雪野は遺体に視線を落とし、眉を寄せる。


「犯人は授業開始直前、その手違いに気づいた。そして“慌てて”実習室からこの部屋に遺体を運び、カバーに巻いて隠した。だがそのせいで、No.8の献体が一体消えたことになり、騒ぎになった」


 南は背筋が冷たくなった気がした。まるで演劇の脚本のように、出来事のすべてが、ぴたりと嵌っていく。


「犯人にとっては、No.8の遺体を“隠す”必要はなかった。隠したかったのは、“もう一体のほう”――この白い布の中身だった」


 静寂。


「……そして、その遺体が、今、ここにある」


 言葉が途切れたその場に、重苦しい沈黙が落ちた。


 まるで、この空間だけ時間が止まったかのような感覚。

 白い布の中からは、今にも息遣いが聞こえてくるのではないかと錯覚しそうなほど、生々しい気配があった。


「……犯人、って。じゃあ、誰が……」


 沈黙を破ったのは、南だった。

 だが、声は自分でも驚くほど弱々しかった。論理の組み立ては理解できた。でも、誰がそんなことをしたのか――その先を考えるのが怖かった。


「……普通に考えれば、荒中しかいないよな。これが推理小説だったらさ」


 神木が顔を引きつらせながらも、名探偵じみた口調で言った。


「管理人と繋がってて、鍵が開いてたのを“気にした”のも荒中。遺体の捜索を“自分から”手伝った。No.8の情報を知ってたのも、時間的に彼だけだったかもしれない」


 整理された事実の列挙。


「しかも、さっき言ってたよね。昨日、No.8を並べた時、“変な場所にあった”って。――じゃあ、誰がその“変な場所”に置いたんだよって話になる」


 この状況のスリルを味わうように、雪野が何も言わずに頷く。


 南は、血の気が引くのを感じながら、荒中の顔を思い出す。

 がっしりした体、鋭い眼光。時折見せる、何を考えているのか分からない無表情。


 ――本当に、あの人が? 


 でも、もし違ったら? 違ったのなら、この状況の中に、どこかに、何か――。


「でも……荒中くん、自分から手伝ってくれたし、探してた時も本気だったように見えたよ。あんな風に探す必要、あったのかな……?」


 問いかけに近い南の呟きは、かろうじて音になった。


 だが雪野は、それを否定もしなければ肯定もしなかった。


「……演技だったとすれば、それも筋が通る。でも、そうじゃない可能性も捨てきれない」


 そして、彼は白カバーの中の顔――まだ見開かれていない目元をじっと見つめながら言った。


「この人物が、何かを語ってくれれば、一気に話は変わるんだがな」


 それはまるで――


 その“遺体”が、生きてさえいれば、というような言い回しだった。


 その時、足音が聞こえたと思って振り向くと、そこには噂の荒中が立っていた。

 神木に引けを取らない長身と、力の強そうな筋肉と、キレる頭。そして医者一家育ち――


「荒中くん、どうしてここに?」

 雪野が尋ねる。殺人犯かもしれない暴君荒中を前に、南は怖くて言葉が出てこない。


「どうしてって、そりゃおまえらが……あっ」

 荒中の細い目が開かれ、驚きに満ちた顔で立ち止まる。

 高校生の遺体を見ているのだろう。


「君がここまで運んできたのか?」

 続く雪野の質問に、荒中は「ちがう」とぶっきらぼうに放つ。

「ならなんで高校生の遺体がここにあるんだ。警察が追っている行方不明者だろう?」

「そんなの俺だって知りたいね。おまえらが運んだんじゃないのか?」

 シラを切るように、半笑いで肩をすくめる。


「自首した方がいいよ」

 雪野は平然と言ってのけた。

「荒中くん、後輩を殺害して隠蔽工作を企てたんだろう?」


 張り詰めたような沈黙が訪れる。

 荒中は微動だにせず、浮かべた笑いの残滓を噛み潰したまま、こっちを見ている。

 

(雪野くんって、ちょ、直球だなあ……)

 ヒヤヒヤする。

 荒中が殴りかかってきたりしないだろうか。


「俺が授業用の献体とこの遺体をテレコにしたことで授業で露見する前に、ここへ君か管理人が隠したんだろう?」

 

 雪野の追及に荒中は僅かに身じろぎをすると、

「知るかよ。俺は今日ずっと講義受けてただろうが」

 と静かに言って、ポケットから取り出したタバコに火をつけた。

「休み時間に動かしたんだろ」

「だから知るかよ」

 くわえ、ゆっくり、煙を吐き出す。

「どの道、警察が取り調べればわかることだよ。……なんで殺したんだ。君の後輩だろう? あとここ、禁煙」


「……ふん」

 荒中はもう目も合わせようとしない。


 雪野は詰め寄って、吐き捨てるように言う。「それでも医者志望かよ」

 その瞬間、荒中はギロリと睨み返した。


 あれ。

 なんだろう。


 南は荒中のその表情にどこか引っかかるものを感じた。

 その理由を雪野のように論理的に語ることはできないが、けれど彼の目には「俺は殺していない」という本心が滲んでいるように思えたのだ。


 だからといって、ここまでの状況を否定するだけの論拠なんて何一つない。

「ゆ、雪野くん!」

「何?」

 それでも南は割って入った。


「あのさ、荒中くんが殺したわけじゃ……ない、んじゃない、かな?」

 この違和感を見過ごしたまま、彼を有罪と断定して扱うのは、なんだか胸に痛みが走る。


「なぜ?」

「うーん……」

 どうにか無理やり言葉を並べようとして、けれど何も出てこない。

「なんとなくだけど」

「ただの思い込みなら、やめてくれる?」

「えっと……」

 雪野の鋭い視線に身をすくませる。彼のようにくるくると頭が回らないのが悔しい。けど、ぼくたちは本当に、なにか見落としていないだろうか。


 すると今度は神木が一歩進み出て、朗らかな笑顔でバシッと言った。

「まあまてよ雪野。おまえだっておまえの思い込みかもしれないだろ?」

「思い込み?」

 雪野は今度は神木に視線を向ける。

「ここまで全て状況証拠だ。推測に過ぎない。荒中がやったという確たる証拠は何一つないんだ。そうだろ」

「……偶然にしては、整いすぎてると思わない?」

「さっきの荒中のリアクションも変だったろ。雪野の言うとおり自分でここに隠したっていうなら、なぜ驚いた? 演技か? ん?」


 そうだ。

 そこも違和感だった。

 ここに来た時、荒中は遺体の姿を見て息をのみ驚いていた。しかも、荒中がここに来たのも、わざわざ来たというよりは、人だかりを見てふらっと立ち寄ったような、そんな感じがしたのだ。


 雪野もそれには反論が出ないようで、「まあ……それについては状況証拠が、ちょっと崩れたけど」と肯定する。

「でも、だったらなんで、ここに遺体があるんだ?」

 雪野は誰にともなく尋ね、遺体を指さす。


 当然答えは返ってこない。


 ――その、はず、だった。


 遺体の顔が、かすかに動いた気がした。


 と、次の瞬間――


 バチンッ!


 まるで電気が走ったかのように、両目がいきなりカッと見開かれた。


 無音の部屋に、何かが“覚醒”するような空気の裂け目が生まれる。

 黒目がぬるりと動き、真っ直ぐこちらを見た。


「う、うあああああ!!」


 南の声が裏返り、へなへなと腰が抜ける。

 神木は壁に背をぶつけ、雪野も一歩、身を引いた。


 死んだはずの遺体が――こちらを見ている。


 亡霊を見るかのように怯える三人に先立ち、はっとしたように荒中は動いた。


「だっ、大丈夫か!? 山田!!」


「先……輩……、ちっす。うっ。気持ち悪い、吐きそう……」

「おい! もういいおまえら先生呼んでこい! 急げ!」


 ――何が起きた?

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