ファイル1「解剖実習×消えた献体」(3/5)


 解剖実習の授業が再開した。他の班はくびの解剖を進めている最中のようだ。献体を見つけたことで他の八班メンバーにはかなり感謝され、見学していた間に学んだことを丁寧に教えてもらった。メスやピンセットの扱い方やかつの入れ方など、改めて講師が回ってきて説明する前に一通り頭に入れることができた。


 気を取り直し、まずは切れ込みを入れた真皮皮膚をめくり始める――皮はぎという作業から始まった。

 生きてたら痛そうだな、とか、思いっきり引っ張ったら破れちゃわないかな、などと始めはこわごわやっていたが、「剥がせたら次は広頸筋だけ取り除いて」「斜めに走る太い筋肉見えたかー?」と次々飛んでくる講師の指示に従って急いで動くうちに、ご遺体への同情心や気持ち悪さといったものを感じている余裕などなくなった。そして案外力のいる肉体労働だとわかってくると次第に大胆になっていった。


(これが、人間の体の中なのか……)


 こうして人体の神秘に向き合うと、心が小宇宙に揺蕩うかのように鎮まっていく。そして結合組織の中に埋もれた血管や神経をピンセットで掘り出すのは、宝探しのようなわくわく感があった。


「胸鎖乳突筋を上に引き上げたか?」

「はい」

「そこに見える太いのが総頸動脈と内頸静脈。頭に血液を送る動脈と静脈だ」


 首にある太い血管――。

 南は自分の首に少し意識を向けてみた。どくんどくんと大きく脈打っている。こうして実際に見ると、ホースのように大きい血管だと思う。


 いつしか人体に夢中になり、時を忘れていた。


 目がチカチカしょぼしょぼし、ピンセットを持つ親指の付け根が悲鳴を上げる頃、


「荒中、おまえ……北高出身だったな?」

「え、そうですが」


 講師が荒中に耳打ちするのが聞こえて、南は凝った肩を回しながら顔を上げた。


「その作業が終わったら、ちょっと来い。片付けもしなくていいから」

「うぃっす」


 三十分程だが出遅れた八班は、その分だけ本日居残りをするよう命じられていた。荒中は一人先に抜けるようだ。


 細かい作業に疲弊した目を休ませようと南が窓の外を見ると、なにやら人通り多く騒がしい。日もだいぶ陰った中、警察官の恰好をした男も歩いている。あ、パトカーも停まっているじゃないか。


(なんで、警察が……?)


 雪野も気付いてこちらを見てきた。


 ……なんだ? いったい。


「ね、ねえ、雪野くん。警察が来てるって」


 後片付けに入り、雪野に声を掛けてみる。


「荒中くんが連れていかれたけど、もしかして、警察のところに行ったのかな?」


 すると、先に授業が終わった班の話す声が廊下から聞こえてきた。


「俺も俺も! 警察会った! 北高出身は全員事情聴取だって!」

「なんか、北高の三年生が、おとといから一人行方不明らしくて」

「んで、そいつの服が、このへんで見つかったらしいよ」

「うぇ、服が? なんで?」

「さあ? しかも、濡れてたんだって。だから、溺死じゃないかって」

「でも、溺死って、遺体は?」

「見つかってないらしい。だから事件だって言ってる」

「意味わかんねえな~」


 器具を数えていた雪野の手が止まる。「溺死?」

「雪野くん?」

「いや……。この遺体の死因も溺死だった。ただの偶然?」

 モップをかける南の手も止まった。

「えっ?」

 そういえば、遺体を探しているときに読み取った情報の中に死因が溺死って書いてあったけど……。


 それがどうしたというんだ?


 ガラガラと引き戸の開く音がしたと思ったら、のっぽの華やか金髪が鼻歌まじりに入室してきた。

「終っわったー? 南ー?」

 神木だ。居残りの南を待っていてくれたらしい。

「ごめんごめん、もうちょっと待ってね」

「おーう」

 片付けを手伝ってはくれないようで、空いている椅子に腰かけて肘をついてこちらを眺めている。


「なあ」雪野が、何か考え事をしながら南にまた問いかける。「北高っていったら、まあまあわりと頭いいとこだよな」

「うん。荒中くん入試の成績もよかったみたいだし」

「そこの在学生が行方不明、か……」

「なになに? 何の話?」

 神木は椅子の背もたれを抱えながら、興味深そうにこっちへ近づいてくる。

「いや、さっき警察がいてさ」

「警察ぅ!?」

 わかりやすくテンションが上がる神木に苦笑し、南は続ける。

「北高の在学生が一人行方不明なんだって。しかも、ずぶ濡れの服がこのへんで発見されたって」

「うわ~。こわ~」

「それで、北高出身者が事情聴取を受けてるみたい。荒中くんが呼ばれてったんだ。荒中くんって、ああ見えて優秀なんだねー」

「ああ、荒中慎司先生の息子だもんな。そりゃな~」

「えっ、知ってるの?」

 神木の反応に驚いて南は聞き返す。雪野も振り向いた。

「うん。あいつの父親はここの整形外科整形にいるよ」

「へぇっ、なんで知ってるの?」

「そりゃおれんとこも医者一家だし」

 なんでもないように言うイケメン神木。ああそりゃイメージ通りだなあとため息が出る。医者一家かあ。容姿・性格・コミュ力・家柄……天は二物を与えないどころか三つも四つも与えている気がする。


 医者一家と聞いて雪野がまた割って入ってきた。


「医者一家ってのは、それだけで病院内に顔が利くものなのか?」

「あー」

 神木はうんうん頷いて言う。

「まーそりゃ医者以外の従事者ともいろいろあるからねー」

「いろいろって?」

 初対面に近い雪野にも、神木は人の良い笑顔ではきはき答える。

「働いていたら普通に……ってのもあるけど、医者には何かと媚びを打った方がいいってね」

「媚びを売る?」

「たとえばさー、もう電子カルテになったけど、前は紙カルテだったんだよ。俺らの親の世代なんて」

「うん」

「で、たまーに、カルテ紛失騒動とかあるんだなこれが。そうなると事務員は大量の紙カルテの山から全探しするらしいんだけど、まあー、誰がどこやったかなんてわかんないからね。事務員がうっかり間違えて変な場所にしまったか、医者が持っていってそのままどこかに置き忘れたか、どちらにせよ、ないものはない」

「それって、いいのか?」

「よくないけど、ないものはないからさ」

「その時は、どうなる?」

「大ごとになるもならないも、医者次第なんだよ」

 南は二人のやりとりを眺めながら、耳を傾ける。


「なくても何とかやっていく医者もいれば、病院ひっくり返してでも探せって命じる医者もいる。状況とか、相手とか、機嫌にもよるけど」

 機嫌って……。でも、たしかにそうかもしれない。病院は医師を頂点にしたピラミッド型構造だ。


「だから、お医者様とはなるべく仲良くしておくに越したことないって、看護師も薬剤師も事務員も、その他スタッフも、みんな思ってるよ」


「ふーん……」

 雪野は自分の未来像でも思い浮かべているのか、興味深げに頷いている。

「そういうこと、ねえ。そういうこと……」

 ボソボソと繰り返しながら。

 そして再び遺体に視線を戻し、

「この遺体も溺死だったって言ったよな」


「う、うん」

 本日分の解剖を終え、頸以外は無傷のままに横たえられている献体を、南もちらっと見る。


 まさか、雪野は、この遺体が警察の探している高校生だって、そう言うつもり……なのだろうか?

 でも、どう見ても五十、六十歳くらいで、とても高校生には見えない。死んで処理されたら急にしわしわになる、とかでなければだが……。


「この人……さすがに高校生では、ないよ。たまたま同じだけじゃないかなあ?」


 行方不明になった人が、さっきまで解剖していたこの人……なんて、そんなこと、ありえない。


 眼鏡が蛍光灯を反射して光って怖い。


「はは、まさかな」


 雪野は一笑に付して、眼鏡の位置を直すと続ける。


「その見た目もそうだけど、行方不明になったのがおとといなら、そもそもないな。管理人の話では、アルコール置換の処理をするまでに最短でも一か月かかる。てことは、その前に、ホルマリンに漬けないといけないから、もっとかかる。おととい死んだとしても、すぐにここに運ばれて、解剖実習に使われるなんて、絶対にない」


「そうだよね」


 ほっ。

 さすがにそんなバカげたことを言うつもりはないらしい。

 でも、ついおとといに死んだ人をそうとは知らず献体だと思い込んで解剖してたなんてなったら、ちょっと気味が悪い。まだ魂がそこら辺で見ていて、コラーって祟られそうだ。


「なんでそんなこと言い出すのさ?」

「単純に、思ったんだよ」


 雪野は少し笑いながら打ち明ける。


「人を殺したとして、その遺体を隠そうと思ったら、人体解剖用の献体の中に紛れ込ませられないかな、って」


 ――人を殺して、遺体を……隠すとしたら?


 殺した遺体を隠すために、解剖実習を、利用する。


 医者や医学生や、関係者なら?


「あの管理人、荒中のことを知っていた。誰も口にしていないはずの荒中の名前を呼んでいた」

「え?」

「あれっ? ってその時思ったんだ俺。それで今の神木くんの話を聞いて、もしかしたら、って。荒中はあの管理人と知り合いなんじゃないか?」


 まさか。


 医者一家の息子で、管理人とも知り合いだとしたら?

 同じく医者一家の神木の話では医者と医療従事者との癒着も普通にありそうだ。


「で、でも……」


 恐ろしい仮説に、顔が引きつっているのが自分で分かる。

 献体の安置室が殺人遺体の隠し場所になっているだなんてそんなこと、……あってはならない。


「でも、あ、ほら、匿名管理って言っても、QRコードを読み取れば本名その他情報が出てきたよね」

 南はうんうんと自分で自分に頷きながら、補強しようとする。

 そうだよ。QRコードにだって、名前と六十歳という年齢が表示されていた。

「だったら、ごまかしようもないよね。現実的に、ムリ、ムリムリ」


 雪野はまたしても固まる。


「いや、でもそれが……今日、同じものが二枚あったんだよな」


「う」

 そういえば、同じQRコードが二枚あったのには違和感があった。


「俺は昨日間違いなく全員分の献体を番号順に準備したんだ。それなのに今日午後になってひとつ消えてた。そして、QRコードが二枚出てきた」


「う、うん……」


「可能性として考えられるのは、その行方不明になった人の遺体が、QRコードを偽装してあの中に紛れ込まされているってことだ」


「た、たしかに」

 だから、同じQRコードが二枚あった?


 固まる南の横で、よくわからないはずの神木も固唾を飲んで様子をみていた。


 管理人が駆け付けてきたとき、鍵は開いていたという。

 誰かが侵入して、遺体を隠したとは考えられないだろうか。

 偽のQRコードを貼り付けて、匿名処理されてしまえばもうわからない。


「こ、こんなことはあんまり言いたくないんだけどさ、あの荒中くんが、ご遺体探しを手伝ってくれるのはちょっと意外だったよね」


 ああ、言っていて寒気がしてくる。


 静まりかえる。


「ちょっと見にいってみよう」

 雪野が走り出す。南は首を横に振った。

「ええ……なんか、いやだな、関わりたくないよ」

 だが、どんっと背中を押す奴がいる。

「な、なんかおもしれー。行こうぜ南!」

「いやだよ関わりたくないよ!!」

 神木はそのままパワフルな力で肩を抱え、押してくる。

「署までご同行願います! ははっ! 名探偵~! 相棒!」

「いやだよおおおお関わりたくないよおおお!!」

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