ファイル1「解剖実習×消えた献体」(2/5)
南達三人は、隣の解剖室から漏れ聞こえる授業の声を背に、準備室へと足を踏み入れた。
解剖準備室は、鉄製の大きな機械がたくさん並んでいる清潔な食品工場のようだった。どれもこれも大きいのは、人体が丸ごとすっぽり入る大きさが一つの単位だからだろう。奥には
遺体は雑多にむき出しであるわけでもなく、むしろその逆で、長方形の銀色の箱が引き出しのように機械的に並んでいて、その中に遺体が一体一体きちんと収められているようだった。カプセルホテルの圧縮版みたいな感じだ。この中に何体もの遺体がまだ生々しいままに眠っていると思うと、なんだか足が震えてくるので、考えないように努める。
「普通にNo.9以降の遺体を代用することはできないのか?」
室内をぐるりと歩きながら雪野が疑問を口にする。南は何か言わなきゃと思うも、自分だって知るわけがない。
「どうなんだろうねー」
それでも聞かれたのだから、協力的な姿勢はアピールしようと思い、笑顔を添えて答える。
「準備中のご遺体はまだ使えないのかもしれないね」
だが雪野は既に教学課に内線電話をかけ始めていて、南の相槌などまったく聞いていなかった。
(うう……無視)
ちょっぴり悲しい気分になりながら、南は雪野が電話を終えるのを待った。
「今、管理人がこちらに向かっているからその人に聞いてくれってさ」
雪野は受話器を置くと、何食わぬ顔でこちらにも情報を開示してくれる。
「そうなんだ、わかった。ありがとう」
さっきの無視は、たまたまタイミング悪かっただけかもしれない。情報を提供してくれたことに友好的なものを感じ、ほっとした気分で微笑んだ。
――けれど、さっきの雪野くんの質問、なんだかちょっと引っかかる。あれは単なる代案ではなくて、「最初から献体の状態に何か変なことがあるかもしれない」と思っていたような言い方だった気もする。気のせいかな。
すると、
「何突っ立ってるの?」
「え」
雪野が今度はこちらを睨んでいた。大きめの丸い眼鏡まで、つり上がっているかのように錯覚してしまう。
「俺が電話してる間、できることなかったの?」
「ご、ゴメンなさい」
ひょえ~~~~!?
怒ってるじゃん!!
え……と、ど、どうしよう。
南は慌てて何か出来ることを探す。
荒中が片っ端からロッカーを開けて中の遺体を確認していた。
「それ、僕も手伝うよ!」
探し方なんて思いつかない南は、荒中の方へと駆け寄る。
(雪野くんって、けっこう怖いなあ……)
不良っぽい荒中の方がまだとっつきやすいかもしれない。
「あーんじゃ、そっちの方よろしく頼むわ」
荒中が反対端を指さすので、南はありがたく従った。ぼうっとしてると雪野の視線を感じ、針のむしろだ。
そうして引き出しを開けようとした時、ずいぶん歳のいった男が準備室に入ってきた。
「教学課から連絡あって来たんですが、えーっと、授業で使う遺体が見つからないとか?!」
くたびれたスーツの袖をまくり、首からIDカードを下げている。この人が管理人のようだ。
「はい。昨日はちゃんとあったと思うんですけど。予備の遺体とかないんですか?」
「ないね。献体は大事に無駄なく使うよう言われているから」
にこにこと愛想のいい笑みを浮かべて雪野に説明する管理人。
「でもなくなってしまった以上、ここにある遺体を代用することはできませんか?」
「いや、それは無理だ。アルコールに漬けてホルマリンを置き換える処理が必要なんだ。最速でも一か月はかかる」
「じゃあ処理の済んでいるNo.8を探し出すしかないってことですね」
「そうだね~。いいのかい? 君たちは授業に出なくて」
管理人は心配げに隣の教室をちらりと見る。
「遺体がないから俺達は見学になったんですよ。そんなことで見学するぐらいならすぐ探し出そうって今ここにいるんです」
雪野の早口が彼をこちらに引き戻す。
「ああ、そっか、それは申し訳ない。よし早く探そうね」
雪野の眼光に面食らい、管理人は慌てたように手袋をはめると、向かい側のロッカーに取り掛かった。これで捜索の人員は四人だ。体当たり的に探すしかないのだろうか?
おっと。ぼくもぼうっとしていてはいけない。
南は止まっていた手を動かし、心の準備をする間もなく、まず一つ目をオープン。
(わー……)
そこにはしっかり物言わぬ人体が横たわっていた。死体だ。生臭くはなく、ただひたすらホルマリン臭がする。
(……って、どうやって見分けたらいいんだろ)
二つ目を開けてみても一つ目と比べて特に変わった様子はない。
どれがアルコール置換の処理前で、どれが処理後かなんて、わかるのか?
見れば荒中は、次々サクサクと進めている。
見様見真似で南も同じように開けては閉じていく。
(死体、こんなに格納されてるんだ……。でもちょっと見慣れてきたかも)
老若男女……老老老老老老老老老老老老老若男女、くらいかな。いろんな人がいるもんだ。
医学生という医者の卵にもなってない、受精卵くらいの我々は、死から学ぶというわけである。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。
感慨に耽りながら一つ一つ見ていると、しばらくして背後から、
「あのさ、それ、わかってやってる?」
雪野が半笑いで睨んでいた。
無駄に背筋が伸び、動きがピタッと止まる。
「ひぃぃっ! すみませんすみません!!」
わかってやってません!
うう……、だって、そのアルコール置換した遺体ってどんなものか見てないし、何をもって判断すればいいのかわかんないんだ。
そんな訴えの気持ちで雪野を見ると、雪野もたぶん同じような表情をしていた。
「何も考えず開いて閉じて開いて閉じて? どういうことだ、行動が意味不明だ……。謝るなら、説明するか質問して」
「は、はい……すみません……」
だ、だめだ……。
黙り込む南に、雪野はちっと舌打ち。ああ……ますますヘコむ。
(申し訳ありません許してくださいぼくが悪いです。そんなに怒らないで……)
すると、荒中が割って入ってきた。大きな手でぐわしっと雪野の賢そうな頭を掴むと、
「雪野よ、とっととおまえもやれ」
「な、なんだよ……やめろよ」
雪野は眉を顰めると、そのまま別のロッカーへと移動していった。
ほっ。
南は気持ちを切り替えて呼びかけた。
「ご、ごめん! 処理済みの遺体ってどんな感じなのかな? わかる?」
荒中は手を止めて、
「あー、黙祷の時に観察した感じだと、少し干からびたみたいな、ミイラまでいかないけど、そんな感じだ」
「わ、わかった、ありがとう!」
なるほどね。早く聞けばよかった。
黙祷の時はちゃんと目を閉じようよ、とかよりも、荒中の乱雑さに救われた気持ちになる。というか、おそらくさっきのは、助けてくれたのだろう。
(なるほど、荒中くんが慕われてるの、わかる気がする)
気性は荒いし、キレると手が付けられなくて、研修合宿のときにはグループの人でさえずいぶん気を遣っていたみたいだったけど、それでも彼を中心にまとまっているのは、おそらく恐怖政治によるものではなく、乱暴ながらも彼が助けてくれるから、かな。
でも、荒川くんって、なんというか、黙祷とかはちゃんとやるイメージだったんだけどな。
そんなことを考えながら乾燥気味の遺体を探していると、雪野と管理人の話す声が聞こえてきた。
「ここの管理ってどういう仕組みになっているんです?」
「管理?」
「QRコードのシールが貼ってありますけど、コンピュータ管理しているのですか?」
「ああ、うん。原則匿名だからね。このタブレット端末でコードを読み取ると個人情報が出てくるんだ。名前もそうだし、死亡診断書や火葬許可証とか、情報が全部見られるようになってるよ。便利な時代だねえ。昔は、紙とペンで管理してて、それはそれで楽だったけど、ごちゃごちゃになっちゃって、鑑定しないとだめな遺体がわかんなくなっちゃったりとか……」
長話を始めそうな管理人に、荒中が鋭い声を投げた。
「おい、ちょっと」
その声音に、管理人はタブレットの操作を中断して顔を上げた。
にこやかな表情を保ったまま、問い返す。
「はいはい、何かな荒中くん?」
荒中はロッカーの取っ手から手を離すと、少し眉をひそめて管理人を見た。
声の調子は穏やかだが、その目つきは明らかに詰問の色を帯びている。
「ここって普段、鍵はどうなってんだ?」
唐突な質問に、管理人は一瞬きょとんとしたものの、すぐに頷いて答えた。
「鍵は、閉まったままだよ。授業のある時間だけ、教学課が一時的に開けて、それ以外は基本、施錠してある」
荒中の目が鋭くなる。
「でもさ、さっき俺らが来たとき、鍵、開いてたぜ」
それを聞いた管理人の表情が、わずかに曇った。
「……開いてた、ね?」
自分の記憶をたどるように、管理人は小さく頷く。
疑いの余地はないとでも言うように、荒中が低く呟いた。
「おかしいじゃねーか」
その一言は、静かな室内に鈍く響いた。
管理人はしばらく黙った後で、頬をかきながら曖昧に笑った。
「……ほんとだねえ。ちょっと確認しておくよ」
やけに愛想のいい管理人の態度に、南は少しだけ違和感を覚えた。荒中のことを名前で呼んだのも気になったが、それだけじゃない。あの強面の荒中に対して、管理人はまるで昔からの恩人に接するような親しげさをにじませていた。
――たしか、荒中くんの家は医者一家だったっけ。
もしかすると、病院で何かあったのかもしれない。家族ぐるみで関係があったのなら、こうして一目置かれるのも不思議じゃない。
「まったく、おまえさんとこには昔ずいぶん世話になったからねえ。今でも忘れちゃいないよ、荒中先生のことは」
管理人はにこにこと笑ってそう呟いた。
“荒中先生”――おそらく荒中の父のことだろう。
だが、その口ぶりはまるで、恩義のような何かを感じさせた。
今度は雪野がタブレットを片手に申し出た。
「消えた遺体のQRコードを読み取ってみたいです。いいですか? 何か手掛かりになると思います」
「そうだね、たしかに」
そしてやや間があって、
「宮越大樹六十歳、死因は溺死、ですか。これが消えた遺体の情報ね……んー」
と言うのが聞こえた。
(たしかに、その情報は助かるな)
乾燥しているかどうかをよく見なくても、若者と女性は全て無視していいことになる。
「そういえば……」と管理人がぽつりと呟いた。
「今朝ここに来たら、AEDのケースが開いていてね。誰かが使った形跡があるんだけど、報告されてないんだよ。不思議だねえ」
「AED……?」南が訊ねた。
「ああ、心臓が止まった時に電気ショックを与える機械さ。中のパッドが外れていて、消耗品の使用記録も更新されてたから、たぶん誰かが昨晩か今朝使ったんだと思うけど……」
管理人は首を傾げながら、またロッカーの方へ視線を戻す。
「まあ、いたずらじゃないといいけどね……」
それから一分もしないうちに、
「あったぞ。それっぽい!」
荒中が遺体の載ったカートを押してこちらに飛んできた。見ればその遺体は、たしかに五十〜六十代の男性で、無傷且つ乾燥気味でホルマリン臭も少ない。
「やっぱりロッカーの中だったんだね」
よかった。こんなに早く見つかるとは。見学を断って探して正解だったようだ。
カートを押すのを手伝いながら、南は授業に戻ろうと急いだ。
「――俺は昨日確かに並べておいたんだけど」
だが雪野は納得いかない様子だ。
「それに、八班の遺体は、どうも変な場所にあったんだ」
「変な場所?」
「これだけ、一番奥にあった。他のは全部手前にあったのに」
「まあ、あったんだし、いいじゃねえか、戻ろうぜ。おっさん、サンキュな」
荒中は管理人に手を挙げ、隣の教室へと移動する。
遺体を乗せたカートを押して、早く戻ろうと急かす南に、雪野はじっと固まって動かない。
「あれまてよ。これじゃ台が二台になる。――No.8だけ、台が二台、QRコードも二枚だ」
ブツブツ何か言っている。
「読み取って、みよう」
雪野がタブレット端末をかざす。
「同じものが出てきた」
「じゃあ、同じコードだったんだね。もう一度印刷し直したんじゃないかな?」
雪野は真剣な様子で考え込んでいる。
そんなことより、早く、授業に戻らなくていいのだろうか。そのために急いで探したのではなかったか。
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