愛長医科大医学部 ミステリー事件簿

友浦乙歌

ファイル1「解剖実習×消えた献体」

ファイル1「解剖実習×消えた献体」(1/5)

 愛長あいなが医科大学では一年生になってすぐに解剖実習が始まる。


 解剖、つまり死者となった人の遺体をメスで切り開き、中に詰まっている臓器を一つ一つ取り出し実際に目で見て確かめていく実習のことだ。


 医学部に入学してから一週間は、入学式や教科書販売、ガイダンスなどで慌ただしく過ぎたのだが、新入生らしい行事が一通り終わったと思うやいなや、早くも解剖実習という医者らしい授業が待ち受けていることに、新一年生であるみなみ颯太そうたは面食らいながらも、今まさに医の道を歩んでいるという実感を抱き興奮しながら解剖実習室へと向かっていた。


(ここは医学部なんだ。そうだ。僕は、本当に医者になるんだな)


 つい先月、厳しい受験をくぐり抜けたものの、やったことは国語や数学や英語といった、医学とは直接の関係のない学問だ。医者らしい技能と知識は、今まさにこれから身に付けていくのだ。


 窓の外、非日常的だった桜の木には緑の葉が増えつつある。さあ長い一年が始まる。南はくっと唇を引き結び、廊下の先を見据えた。


 解剖実習室は研究棟二号館一階の隅っこにある。なんとなく「生きている者、立ち入るべからず」なオーラを漂わせていた。普段なら絶対に近寄りたくないタイプの場所だ。墓場でも苦手なのに、遺体が安置されている部屋なんて、ブルブルと寒気がする。


 が、医者になるという意志を固めたはずの自分がビビっていてはいけないと、南は自分の隣を歩く出来たばかりの友人・神木かみき夕利ゆうりにも、弱音をこぼしたりはしなかった。


 それにしても……なんだか不穏な、嫌な感じがする。たしかに、これから死者を骨の髄まで切り刻む解剖をする……けれど、それでも後ろめたいことなど何も無い。悪いことをするわけじゃないのだ――。だけど――、深夜でも早朝でも夕方でもない、このまったりとした昼下がりの極めて無害な時間帯に、正当な理由を持して、それでもやることといえば、解剖なのだ。


 足元にひやりとした何か――いや、自分のふくらはぎを手で掴まれるはっきりとした感触がある。


 あ……あ……足元に、なんかいる。


 自覚した直後、冷や汗が噴出した。


「ひゃっ……!!」


 南は驚いて飛びのき、そのまま横の神木に抱き着いてしまった。


「おいおい、大丈夫かよ南?」


「あああ足を……!」


 口をパクパクさせ、こわごわ足元を見る。


 まさか、本当に


 病院に怪談話はつきものだし、やっぱ、あるのか。


 ――そこには、這いつくばった白衣の男が自分の脚を掴んでいた。


 いっ……


 ん? 白衣……?


 それは自分が着ているものと同じもので。


 顔を上げたギョロ目の男――クラスメイトの佐々木は、ビビった南の顔を見て、おかしそうに笑う。


 それから後方、「うひゃひゃひゃひゃ」とけたたましく笑う集団に、南はため息をつく。


 大学生になってまで、くだらないちょっかいをかけてくる輩がいるらしい。


「やめてよ! ふざけないでよ」


 彼らは、一番後ろを歩く恰幅のいい荒中あらなか仁志ひとしをはじめとしたグループで、先週あった研修合宿でも事あるごとに南にさんざんチャチャを入れてきた連中だ。


 入学初日から舐められ続けているのはたぶん、この童顔と低身長と天然パーマと女の子のようなアルト声のせいだと南は自分でも思う。ちやほやされるか、悪ふざけの標的にされるか、今までの人生いつもどっちかだ。


 南は無視して歩き続けるが、これからの大学生活が平穏に過ぎたらいいと祈らずにはいられない。


「はは。ま、気にすんな」


 神木はからっと明るく笑い飛ばしてくれる。


 研修合宿で仲良くなったナイスガイな神木――百八十を超えるすらりと背の高い彼の隣にいると、より自分が子供のように思えてくる。けど、彼はそれを鼻にかけたりもしない、中身も大人な同級生だった。


「ありがとう」

「いんや、大変だねぇ、モテ男は」

「それ、君が言う?」


 神木の冗談に、南はやれやれと苦笑した。

 

 神木は髪を金に染めていて、さらに容姿もその髪色に負けぬほどぱっと華やかで、どこかの国の王子様みたいだ。そして性格もいいときたら、女子にモテないはずがない。荒中の連中が神木には一切手を出してこないのも、彼があまりに美形すぎてきまりが悪いからだろう。


「ここか」


 解剖実習室というプレートの下、扉には「許可なき入室を禁ずる」という重々しい張り紙がある。南と神木は気分を切り替え、気を引き締めて実習室へと足を踏み入れた。


 そこはドラマで見る手術室のような大部屋だった。先ほど荒中の一味にふざけて脅かされた分、自分は医者になるということ以外考えないぞと踏ん切りがついた気がする。これから、医学・医療の発展のために、厚意で提供していただいたご遺体――献体を扱うというのに、くだらない俗事に構っていられない。


 僕は、医者になるんだ!


 白衣の上から防護服のようなものを着込んだ先生に、早く来た者から自分の班の献体を運び入れるのを手伝うように言われた。


 いよいよ解剖実習が始まる。


 南はホワイトボードの指示通りに担当の持ち場に用具を置くと、ビニール製のエプロンと手袋を装着して、そわそわした気持ちのまま準備室に献体を受け取りに行く。


 道中、先に引き取られていったカートをちらちらと見てみれば、白いカバー越しにの字に固まったままのご遺体が透視できるかのように見えてしまって生々しかった。これから行うことを想像して、ちょっぴり胃がむかむかしてくる。昼に食べた弁当の中身を吐いたりしたら、また荒中グループにからかわれるだろう。いや、彼らのことなんて今は関係ないと頭から振り払いながら、南は別のことを考えようと深呼吸して、辺り一面に漂う薬品の匂いを盛大に吸い込み、むせた。


 う……落ち着け、落ち着け。


 自分の番がきて、南は心して一歩進み出た。自分は八班です、と告げると、講師は名簿にチェックを書き入れながら、「あれ?」と首を傾げた。


「八班? もう渡してないかな? ご遺体はもう全部出たけど」


 先に来ていた班員と入れ違いになってしまっただろうか。

 南はぺこりと頭を下げ、慌てて自分の持ち場に戻ることになった。


 もう準備を整えて待機している班もちらほら出てきているのを見て小走りになる。


 医学部という学部は、入学するのも進級するのも卒業するのも、とにかく厳しい。単位をひとつでも落とせば問答無用で留年。人の命を預かる医師を育成する機関なのだからそれが普通かもしれない。

 どんくさい自覚のある南は、献体を取りに行くといったこうした一つ一つの行動で躓いていると後に取り返しのつかないほど余裕がなくなることを今までの経験で知っていた。


 焦った気持ちのまま、既に献体を前にして準備を進めているであろう八班メンバーを探す。


(あれ?)


 一つだけ、真ん中にぽっかり穴の空いたような人だかりがある。位置的に、彼らが八班だ。


 やっぱご遺体、ないよ?


 班員は南と同じく「あれ??」という顔をしてこちらを見ている。おまえが取りに行ったんだろ、という無言の問いかけを感じる。


 すると背後から、


「おい南、献体は?」


 聞き覚えのあるその重低音ボイスに反射的に嫌~な気持ちになりながら南は振り返る。


「あ、荒中くん。同じ班なんだね……」

「おう」


 荒中仁志――ラグビーでもやっていたのか、クマのようにがっしりした肩幅に、量の多い黒髪と細目で鬼のような風格の顔立ち、いかにも腕力に自信ありますといった見た目にもかかわらず意外と白衣が似合って見えるのは、五、六人がつるむ荒中グループの中でダントツの入試点数だと騒がれていたのを聞いたことがあるからだろうか。または、ここの医大にも親戚の医者が多い医者一家だと自慢していたからかもしれない。あまり睨まれたくない相手である。


「っなーにやってんだよ、さっさと運べや!」


 さっそく吠えられ、びくっとする。


「ご、ごめん、でも」


 つい反射的に謝ってしまったが、悪いのは自分ではない。南は班員に向けて慌てて事情を説明した。


「え、先生のとこにもうご遺体はないの?」

「他の班に二体回ってるんじゃない?」

「ちょっと見てこようか?」


 班員は矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。みんな焦っているのだ。だよね、まずいまずい。南は「いや、僕が先生に聞いてみるね!」と踵を返し、教壇へ急ぐ。


 だが解剖学の木村先生はのんびりした調子で首を傾げ、「おーい、牧、それから雪野、昨日準備したときには足りてたよな?」と七班と八班に向かって訊ねてくる。


「はい」


 同じ班の雪野映は、はっきりと頷いた。


 愛長医科大学は私立大学だが学費が安いことで人気だ。そのせいか、持ち回りで授業前の準備など結構頻繁に手伝わなければならず、南はまだやったことがないものの、昨日は雪野の番だったようだ。


「じゃあなんでないんだ?」

「知りません」

「これじゃ今日の授業ができんぞ。っと、あれ? 台はある……な」


 先生の背中越しに覗き込んでみると、準備室に取り残された台が一台だけあった。


 他のものと同じく管理用のQRコードが貼り付けられているその台は、そのままむき出しに放っておかれていた。さっきまでそこに遺体が横たわっていましたが、気が変わったので歩いてどこかへ行っちゃいました、みたいな雰囲気で。


 木村先生は困ったように、白髪交じりの眉をハの字にし、教学課に内線電話を掛け始めた。


 手持無沙汰な生徒たちが、自分達の担当する遺体をカバー越しにまじまじとのぞき込んだり、意外と生臭くはないんだなーなどと神妙に感想を言い合っている中、南は八班の場所に戻る。


 それにしても献体をなくすなんてことがあるのだろうか。


「ほら生き返って、どっか歩いてるぜ」

「やめようよ、そういうの……」


 まだ怖がらせようとしてくる荒中を流しながら、南も疑問に思う。本当に……どこへ?


 電話が済んだ木村先生は頭を掻きながら言った。


「仕方ない、とりあえず八班は今日は見学していてくれ。補講はやるから」


 ええ……!?


 八班の間に不安が広がり始めた。


 今日だけで最低三時間は解剖実習ですよね!? 


 その分早く帰らせてもらえるとかでもないらしい。

 まさか、三時間まるまる見学・三時間追加補講……じゃない、よね……?


 他の班は一様に、自分の班でなくてよかったとほっとした表情を浮かべていた。


 木村先生は気にした風もなく、献体してくださった方や遺族への感謝や医学においての解剖の心得などを朗々と説き始める。そしてついに各班に白のカバーを取り外させると、遺体が出てきたぞ、どれどれとゆっくり見ている間もなく、


「まず解剖の前に黙祷を捧げる」


 その合図に全員目を閉じ、あたりはまたしんと静まり返った。


 捧げる相手が不在の八班も、一応、黙祷を行う。


(僕達のご遺体、どこ……行っちゃったのかな)


 目を閉じている間、南はぼんやりと考えた。


 横たえられた遺体。その中から、一体だけどこかに行ってしまった。


 そんなことがありえるだろうか?


 遺体はホルマリン漬けにして防腐処理がなされている。血管の中を隅々まで薬品で浸していくのだ。生き返るなんてことはありえない。

 数え間違いとか、搬入の間違いだろうか。でも雪野が言うには、前日準備は問題なさそうだったけど。

 じゃあ昨夜、誰かが運び出したのだろうか。誰が、何のために?


 それから授業は始まったが、貧乏くじを引いた八班は壁際に立って邪魔にならないように見ているだけだ。


 見学+補講と二回講義を受けたら学習は深まりもするが、解剖学の他にも一年生の内から勉強しなければならないことは山ほどある。毎週月曜日には小テストが行われ、進級に関わってくると聞いている。しかも小テストとは名ばかりで、実際には高校の中間テスト並の出題範囲だそうだ。そんなの、平日は授業の復習、土日は試験対策に充てないとパスできない。貴重な時間を、大学側の手違いのせいで補講に充てないといけなくなるなんて大迷惑だ。


 見学している時、南の隣に立っていた雪野が、


「昨日の時点ではあったんだ」


 ぼそりと呟く。


 知性的な学者を思わせるような端正な顔、憂いた瞳が眼鏡のレンズ越しに静かに覗いている。白衣がまるで体の一部であるかのように似合っている。


 そして指導中の講師の方を向くと、話を遮って言った。


「先生、見学はいいので遺体を探してきていいですか?」


 蛍光灯に当たるだけで茶に透ける柔らかな髪を揺らし、彼は軽く挙手して前に進み出る。


「あ? ああ、じゃあ、よろしく頼む……」


 雪野は準備担当として失敗の責任を感じているのだろう。


「雪野くん、僕も行くよ」


 ちょっと気の毒に思った南はおせっかいを発動した。


 自分だっていつか準備担当してミスすることはあるだろう。その時は助け合いの精神だ。


 だが、


「昨日あった遺体が消えるわけがないんだよ。ったく、そんなことで補講はごめんだ。俺はバイトがあるんでね」


 心底くだらないと馬鹿にしたように吐き捨てる雪野。


 バイト……。


 想像していたのとやや違うリアクションだった。どうやら雪野に自責の念は一切ないらしい。どころか、この状況に明らかにイラついている。自分で遺体を即座に見つけて戻ってくるという自信満々のようだ。


 ……う、うん、そっか! おかしいね、どこかにあるよね、手伝う手伝う! 二人で手分けして探したらきっともっと早くなるよ!


 南は内心で動機を「ミスをして落ち込んでいる可哀想なクラスメートを励ましたい」から「遺体捜索へのボランティア精神」に無理やり書き換え、解剖準備室へと後に続いた。


 準備室に置かれたステンレスの装置に大きな熊のような人物が反射していた。南が振り返ると、

「俺も探す」

 そこには荒中がいた。意外なことに、彼も協力してくれるらしい。


 他の班員は大人しく見学することを選んだらしく、ついてこなかった。

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