第2話 望郷、それは過去への巡礼

 夜勤明けに朝の街を歩いていると、横顔から見るに若い好青年の新聞配達員が、ボロボロの自転車を必死に濃いで横を通り抜けた。きっと新入りなんだろう。

 しわひとつない制服に着られ、大きく息を荒げながら白い排気ガスを出している姿からも、容易に想像できた。

 ただ、あまりに必死なものだから、後ろに縛り付けていた大事な商売道具が一部、僕の足元へと零れ落ちてきた。


「きみ!新聞配達のきみ!僕は購読者じゃないぞ!」


 私の呼びかけにも気付かず、彼は2ブロック先の角を曲がり、姿を消してしまった。


「こんなことされても、僕は購読しないからな」


 そのままにしておくのももったいないので、僕は6ブロック先の自宅までこいつと歩くことに決めた。

 快挙・西方大陸踏破。

 一面を飾っていたのは、うちの国の探検家がここから西にある大陸を一周したという記事だった。

 記事の横には探検家とその仲間達だろうか。10人、いや、15人以上居るであろう仲間達に囲まれている彼の写真が添えられていた。

 いいなぁ。僕と違って、こんなにもたくさんの仲間に囲まれて。

 僕にはおよそ仲間、と呼べるような仲の人間はいない。知り合った人たちは皆、その場その日限りで終わってしまうような関係でしかなかった。友達はいるけど、親友はいない。そんな感じ。

 いや、もしかしたらこの関係は友達と呼ぶに値するものですらないのかもしれない。だから私は、彼が大陸を1周したことよりも、彼がたくさんの仲間に囲まれている事実の方に目が向いた。薄雲かかる寒空の下、今日限りの関係である新聞と一緒に身を寄せ合いながら歩みを進めていく。

 この記事の最後には、探検家へのインタビューが掲載されていた。

 この旅の中で一番の苦難はどんなことでしたか?

 旅に出て丁度7日目、山賊に襲われたときですかね。なにせその時はひとりで旅をしていた頃でしたから、まともに抵抗できるはずがなかったんです。

 現金も食料も、身ぐるみ全部剥がされてしまいましたから、堪えました。

 まるで今の僕みたいだな。と、他人事ながらそう感じた。

 時間というものは独りの僕からたくさんのものを奪っていった。若さ、体力、笑顔、仕事。

 山賊よりタチが悪い。心の内で小さく舌打ちをした。

 ひとりから始まったこの旅ですが、今や15人を超える大所帯となりました。こうなることはご自身、想定されていたのですか?

 全く想定していませんでしたね。旅の計画も初めは大したものではなく、「とりあえず一人で行けるところまで行こう」という気分でいたのです。けれど、道すがらの酒場で彼らと出会い、熱く夢を語り合った夜が明けたときにはもう、同じ釜のメシを食う仲になっていたんです。

 この旅は私に抱えきれないほどの名声や達成感を与えてくれました。しかし、私がこの旅で手にした一番の財産は、仲間だったのかもしれません。

 この記事を読み終えると、僕は走り出していた。

 先程の新聞配達員のように息を荒げながら帰宅すると、暖かい洋服を四着ばかりとクローゼットに隠したへそくりをまとめて鞄に詰め込んで、すぐさま駅の窓口に駆け込んだ。


「に、2等席1枚。一番早い時間の奴で、終点まで」

「他のお客様と相席となってしまう場合がございますが」

「ひとり旅の醍醐味だ。構わないよ」


 生まれてこの方、この街から出たことすらないけれど。


「良い旅を」


 くしゃくしゃによれた紙幣を2枚、叩きつけるように差し出し代わりに傷ひとつない切符を受け取る。

 ホームには今か今かと発車を待ちわびる、黒鉄の国鉄があった。

 独りぼっちの彼だって、両手でも数えきれないくらいの仲間を旅で見つけたんだ。同じ独りぼっちの僕が旅に出て、仲間を作れないわけがない。

 時間が僕からすべてを奪っていくのなら、こんな小さな希望すら奪っていくのなら、追ってこられないくらい早く逃げてやる。

 発射の汽笛は僕にとってのファンファーレだった。終点までの3日間、走りっぱなしの小さな旅が始まった。



 独りぼっちの冴えない男が、ふとしたことをきっかけに旅に出る話。良くも悪くも、物語としてはありきたりな始まり方だった。

 そんな中に彼、彼......女?……「あの人」はどんな思いを込めたというのだろうか。その輪郭すら捉えられないでいる。

 心配する母のことも忘れて私は次へ次へと、その文字と彼の行方を追ってた。

 道中で男は多くの人と出会った。

 はじめは商人。自己紹介をすると、彼は男が歩んできた人生に興味を持った。

 話が弾んだところで「夢」を打ち明けるも、彼には守るべき家族が居て、背負っているのは自分の人生だけではないからと言い、次の駅で降りてしまった。

 次にやってきたのは若い夫婦だった。また自己紹介をすると、2人は男の口から出てくる言葉に興味を持った。挙式するときはぜひともスピーチの台本を書いて欲しいくらいだと。

「夢」を打ち明け、一番ふたりに似合う式場を探しに行こうと誘ったが、これもまた断られた。彼女はつい先月、授かったらしい。これからの大事な時期に彼女を見知らぬ土地につれていくことはできないと、3人は次の駅で降りていった。

 それからも男は多彩な人間たちと出会い、語らい、その度旅に誘うのだが、誰一人として着いてくるものはおらず、そのまま終点へ流れ着いた。

 帰りは船で戻るらしい。

 ゆりかごの如くゆらゆらと揺れる方舟に、自分を受け入れてくれる場所を求めてきたのだろう。


「失礼、お隣大丈夫かい?」

「えぇ」


 先程の商人や夫婦とは違い、相席の人に関する情報は何ひとつなかった。それだけ男は必死だったのかもしれない。これが最後のチャンスだと、どんな相手でも良かったとは言わない。選択の余地などどうに無くしているのだから。

 相手はたいそう男を気に入ったらしい。ここまでは今までの人々と同じだ。けれど、明らかに他の2組との違いがそこにあった。

 決断を下さないのだ。いや、それは少し表現としてはおかしいのかもしれない。正確には、決断を下す前に手記は途切れてしまっているのだ。


「君の話を聞かせてくれ」


 56ページ19行目。男は相手の素性について尋ねる。

 56ページ20行目。始まりのカギ括弧だけが記されたところで、この物語は途切れている。

 まだポストに取り忘れた続きの原稿があるのかも、落とした時に、拾いそびれたものがあったのかも。携帯のライトでいくら照らせども、そこにはまばらに草の生えた地面と錆びたアルミと……鉛筆が置かれていた。

 あの子はここでこれを書いていて……そのまま置き忘れていったのだろうか? でも、机も何もないここでどうして?

 そんなにもここがお気に入りだったのだろうか、とも思ったけれど、言葉を反芻していくうちに、別の可能性も姿を表したのだ。

 誰も来るはずのないバス停、使われなくなった郵便受け。ここは思い出の棄き場なのかもしれない。

 彼女はここに思い出を棄てにきたのかもしれない。書きかけの原稿と、文字通り筆を置いたのは

 あの子は文字通り筆を置いたのだ。棄てきれないなにもかもを錆びたアルミに託して、いつか来る自然消滅を望んだ……のだと思う。それを私は暴いてしまったのだ。

 どうしたものか、と鉛筆をくるくる回しながら思案した。

 ――捨てに捨てきれなかった私の想い

 用紙の裏に、小さく書かれていた文字を思い返す。捨てたくないのであれば、捨てなければ良い。あの子の事情を知らない私だからこそ言えることだ。伝えたところで、部外者がなにを、なんて思われるかもしれない。そもそもまたここにくるなんていう保証はどこにもなくて、無駄骨になるかもしれない。けれど、これを受け取った私には、伝える権利があるはずだ。伝えたい。どうしてかはわからない。ただ、そうしたくなったのだ。

 かばんに原稿用紙と鉛筆を仕舞い、帰り道とは逆方向に歩きだす。

 文房具屋さん、まだやっているかしら。

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