水路の小舟
水路の上に小さな白球が光る。
「あれはなあに」
「蛍だろうなあ。何処かにそういう奴がいるのだろう」
まるで水墨画のように、視野のぼやけた風景が靄に包まれて水路の両端に広がっている。一隻の小舟が通れるほどの幅に流れのない穏やかな水に満たされている。女は自身が何に囲まれているのかが理解出来ないでいた。分厚いコンクリートの壁であるのか、それとも奥深く続く木々が生えているのか。そのどちらのような気もしたし、どちらでもないような気がした。
波一つない水面を勝手に進む小舟の上に腰を下ろしながら、小舟の立てる波だけが揺れる水の中に指先を浸けると、僅かな冷たさを孕んでいた。
女はぼんやりと声をかける。水中の夫へと伸びる朱い帯を辿るように呟くと、水中から声が反響する。不思議と夫は、女の声を聞き逃すことはないようだ。小舟の下の水中を這うように、夫である大きな白い大蛇がズルズルと長く太い体を引き摺っていた。
「いつみても、あなたのせかいは、たいくつねえ」
「そう言うな。あまり外を知らないんだ」
「いまはどのあたりなの?」
「もうすぐ関西に入るだろう。そうすればすぐに京都に着く」
水が振動するように、まるで泡沫が弾けるように、何かに反響して夫の声が耳に届く。夫の作り出す世界は、広大のようでいて曖昧だ。きっと表道では、女も夫も知らないような景色が広がっているのだろう。これから向かう京都のように、賑やかであるのだろう。
女の皮膚は陶器のように白く滑らかで、退屈そうに細められた双眼は朱々と丸く、流れるように整えられた細く艶のある黒髪が、遊ぶように小舟の上に垂れている。淡い濃紺の生地に白い牡丹が咲き乱れた着物は、現代で言うのなら旅行に出るために夫が誂えたものだった。朱い帯がよく似合うだろう、夫は慣れない口でそう言った。腰に巻きつく大蛇のように長い帯は、夫と婚姻してからは外された試しがない。
「きょうとには、だれがいるの?」
「私の友人が住んでいる」
「どうしてあいにいくの?」
「お前に会わせたいからだ」
「あたしは、いま、たいくつなのだけれど」
靄に包まれた世界は酷く退屈で、お喋りぐらいしかやることがない。女は気だるげに小舟に身を寄せながら、水面に指を滑らせていく。
何十年か前に婚姻を結んでから、夫は時々こうして女を外へ連れ出すようになった。普段は夫そのものである川の岸辺に座り込み、流れる川を眺めたり、帯を伸ばして歩くだけの毎日だ。時代が変わり、人々の話す言葉が変わり、山下にある家屋の風景が変わっても、夫の在る山だけは昔と変わらずそこにある。夫の川は、人間の社会では、山深い木々の奥にある神社の持ち物であるらしい。年に一度、夫のための祭りがあり、時々不埒な輩がやってくると川が水嵩を増す。その姿を、女はただぼんやりと眺めているしかなかった。夫に出会う前は、女郎と呼ばれていた女は、心中をするために夫の山へと入ったが、指を結んだ男に先立たれ、泣き喚いているうちに、夫の妻と成り果てていた。今は、白い肌に幾つかの鱗が増え、自慢だった黒い瞳の色が赤く染まっている。じわじわと、まるで成長をするように、女は夫の姿に似てきていた。
ぼやぼや、と言葉を交わしていると、大きな蛇の頭が水面に現れる。大きく波が立ち、女の乗っている小舟が揺れると、夫の朱いつぶらな瞳が女を見ている。
「蛍がいたじゃないか」と、蛇は大きな牙を見せるように言った。
「あなたのかわにもいるでしょう」
「旅行は楽しくないのか」
「……たのしいわ」
ぼんやりとした女の瞳が、わずかに細まると夫はほう、と小さく息を吐き出した。哀れさが見ていられなかったのか、それとも自身の腹の中で、女が死んでしまうのが嫌だったのか、夫は既に分からなくなってしまっていた。人間という、自身の佇む領分よりも、ずっと遠い所で生きていただろう娘が、力なく岸辺に座り込み、死を望みながらも泣き喚く姿が、惜しかったような気もする。それに女は、人間にしておくには、どうにも美しかった。籠の中で飼われるように生涯を歩み、愛する男と死を共にするという自由を目の前で奪われて、まるで泥沼のような悲しみの外側にあるだろう景色を何一つ知らない女が、夫にとっては酷いほどに美しかった。
泥沼の底しか知らない女に、外の景色を見せてやろうと妻にしてみたが、結局は自身に縛り付けることとなってしまった。これは大変な誤算だった。これから赴く京都を住処としている友人達のように、人間との交流のなかった夫は、人が領分を超えるということが、どういうことかも分かってはいなかった。だから、こうして旅行に赴くようになった。まるで女郎だったのが嘘のように、女は口数を減らしていたが、その分だけ最近は本音が聞けるようになったとも思う。
女の言葉を耳しながら、水面ににょきりと出した頭で、女が「退屈だ」と言った自身の世界を眺める。人間の社会とは領分の異なる大蛇の作り出した裏道は、その人格を表すように何一つ無駄のない潔癖さで、美しい水路を作り上げている。確かに、眺めるには退屈だ。これがもうすぐ顔を合わせるだろう友人達であるのなら、現代らしい建物や石段を映し出していたかもしれないし、互いの道を繋いでへんてこな街を、そのまま作り上げているのかもしれない。
ううん、と夫が唸る。小さな嘆息のつもりが大蛇であるからか、そこそこ反響して、水面に波紋を作り上げる。
「なあに、へんなこえ」
「お前は、今を勉強しているだろう?」
「じがかけないと、こまるのよ」
色々変わってしまったから、と女の唇が小さく動く。
年号が変わり、時代の呼び名が変わり、言葉の意味が変わっていく。人々の暮らしと文化が、女が生きていた頃よりも随分と様変わりすると、山に入ってくる人も増えてきた。数十年の間は、誰にも会わなかった女は、近頃年に何度か夫の川を眺めるための参拝者に出会うようになっていた。言葉がなくては困ることも多く、帯を結んだまま、女は現代について少しずつ学んでいる最中だ。
「私も、もう少し歩み寄ってみるか……」
ううん、とまた夫が唸ると水路に小さな波が立ち、小舟を揺らす。
「あら、どうしたの?」
「私は、もうずっと長い間こうであったが、お前は違う。人のようにとはいかないし、お前を離してはやれないが、楽しみはあったほうがいい」
「はなしてくれないの?」
「離せないだろう。今更だ」
それが情であったのか、それとも気まぐれであったのか。夫にも、女にもわからない。
女は、自身の命を奪って救った夫を酷く疎ましく恨んでいたし、夫もまた変わった拾い物をしたようなものだった。元より領分の異なる夫と女は、決して相容れず、立ち位置が交わることなどないと思っていた。
それなのに、夫にとっては瞬きのような短かさで、女にとっては長い月日の間に、なくてはならないものになっている。不思議だった。まるで人間のようで、まるで人間に戻ってしまったかのようだった。
水面を滑っていた女の指が、大蛇へと伸ばされる。濃紺の袖から伸びる白い手首は、数片の鱗がチカチカと光っていた。冷たさを孕む大きな鱗状の皮膚に触れると、瞼もなく、表情の変わらないはずの夫の朱い瞳に色が灯ったような気がする。指先だけで触れると、強請るように手のひらに擦り寄ってくる。見た目よりも、滑らかで潔白な白い皮が心地良かった。
「あたし、あなたのせかいすきよ」
「そうなのか?」
「しずかで、あなたらしいもの」
長い睫毛の朱い瞳が細められると、夫はまるで恥じ入るように水路の下へと潜っていった。
異類交流短編集 陽本明也 @832box
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