見送る烏

 すっとぼけた奴が空から落ちてきた。

 そう思った時には、もう遅く、古い杉の枝から俺もろとも転がり落ちて地面に尻餅をついていた。桜の舞う季節だ。毛玉も人間も、大抵の奴は「春麗らかに」なんてことを合言葉にしながら浮かれ調子で踊り狂う季節である。かの鴨川デルタでは、連日連夜の如く阿呆学生が騒ぎたて、どこもかしこも花見祭りを開催し、例年と同じく観光客が京都駅からどっとなだれ込んでくる。それに比べて、俺の一本杉は静かだ。芽を出し始めた新緑が、ふらふらと小風に舞いながら、ゴミ収集日には飛び立つ烏共がしんと枝に羽を休めている。麗らかとは、こういうことを言うのだ。しかし、そんな俺も、流石に突如何者かに腹にのしかかられてしまえば、素っ頓狂な声を上げて、転がり落ちることもある。

 どこぞの滑空下手な鳥共が腹に突き刺さったかと思い、顔を上げてみれば、それはよく知る同じ領分に属する白鳥だった。人の姿を模していながら、背中に大きな白い翼を携えている。白鳥であるのか、人間であるのか、はたまた違う何かであるのか。何度か説明を受けているものの釈然とせず、とにかくまあ古い馴染みが空から落ちてきた。

 ともなれば、彼の目当ては俺だろう。鞍馬山の参道から、更に奥深く足を踏み入れ、雑木林の中に隠れるように立っている一本杉が、俺の昼寝場所であることを知っている奴は少ない。

「また、お前はひょんな所から降ってきやがる」と、俺が一つ悪態を吐くと、ようやく俺を下敷きにしている白鳥もどきが目を丸くさせた。

「やあ、キイチ君! いくら私が美しいからといって、そんなに見つめられては困ってしまうよ!!」

「久々に落ちてきたかと思えば、相変わらずだな。今日はどうした?」

 謝罪もなく自然な動作であべこべな事を言いながら、コウカが腰を持ち上げる。ついでに髪を風に靡かせて顎を引き、どうだと言わんばかりに胸を張った。釈明を求めたところで、ほとんど会話が成立しないことは学習済だ。コウカの部下らしき奴によれば、こいつのコレはもうほとんど病気の域らしい。確か、数ヶ月前にも落っこちてきて、南の方へ旅に行くのだ、と息巻いていた。渡り鳥はあちこちに出向かなきゃならないのか忙しそうだ。

「おお! そうだった。キイチ君にお土産を買ってきたんだ。貰ってくれたまえ!」

 何故か自慢気に差し出されたのはちんすこうだった。どうやら馴染みの白鳥は沖縄に行っていたらしい。暑くないのだろうか。気候的に。しかも、一本杉から地面に激突した衝撃で、箱の角がひしゃげている。もはや土産と呼ぶべきだろうか。

「……どうも」

 俺と同じく一本杉で休んでいた烏達が何やら騒いでいる。耳を澄ませば、突然の来客に驚いているのが一割、面白がっているのが六割、残った三割は「またコウカがきた」と、呆れているようだ。昼時の鞍馬山が、いつもよりも賑やかしい中で、コウカは気に留めることもなく、再びまた白い翼を広げている。

「では、私はもう行かねば! 北へ向かう途中でね。また京都上空に来た時は立ち寄ろう!!」

「おう、気をつけてな。次はもうちょい滑空の練習しろ」

 俺がちんすこうの礼を言う前に、コウカは飛び立って行った。珍客を見送ってから、黒い烏の羽に混じる白い羽をなんとなく見上げる。人から離れたこの場所に、客が来ることはそうない。コウカは騒がしい奴ではあるが、同じ鳥の領分を持つ奴だ。人間共は俺を鬼一法眼だの、天狗様だのと呼んだりするが、奴はただの突風に過ぎないのだから、苛立つこともない。

 人間は嫌いだ。

 短い生の持ち合わせる癖に、奴らときたらいつも阿呆なことばかりする。


◇◇◇


 平安遷都から約千年――造っては街を焼くのが好きな人間達が、どうしてだか、ここ京都を焼かず、やれ都だの、やれ古都だのと言っている間に、この街は随分と賑やかになった。人が住み着くようになってからというもの、山は削られ、線路が通り、碁盤のような区画が造られたが、人の営みは概ね平穏と言えるだろう。都の取り合いをしていた人間は、大きな車輪でも回すようにゴロゴロと転がり続け、いつの間にかこの街は観光スポットなるものに変化した。かつては牛若なるガキんちょが俺の袂までやってきたこともあったが、今では麓の寺やら神社やらに観光客や異国人が訪れている。目立つ社寺のおかげで、山に入る人間は少なくなり、小路すらも敷かれていない俺の昼寝場所は、昔よりは静かになったと言えるだろう。

 俺たちのような領分の違うものは、時に鬼と罵られ、時に天狗ブームで有頂天となり、時に人に混じる者もいる。しかし、今も昔も変わらずに、この古都の上空は俺のものである。時々激高した龍神が天に昇り雨を降らせたり、偏西風に乗ってきた雷獣が雷を落とそうとも、この街の風と空は俺の領分だ。天狗は等しく傲慢であり、鼻っ柱を突き立ててこそ天狗なのだから、生の短い人間共は地べたを這いずり回り、街でもなんでもこさえて、毎年同じように咲き誇る桜に惑わされて踊り狂っていればいい。時期がくれば俺たち天狗が、突風を舞い起こし、その浮かれた気分を台無しにしてやろう。

 いつもと変わらずそんなことを思いながらも、俺は積まれたちんすこうの箱を眺めて、どうしたものか、と考える。同じ領分の馴染みが持ってきた土産は、大盤振る舞いの十箱である。一箱なら、まあ赤玉ポートワインのつまみにでもなるだろうが、十箱も食い散らかすとなると、俺の口内は水分という水分を失って、ぱさぱさになるに違いない。烏達に分けてやっても、奴らは肉や油を好むもので、途中で飽きてそっぽを向くのが目に見えている。沖縄土産など早々手に入る代物でもなく、このまま放り投げるのも忍びない。俺は人間は嫌いだが、同じ領分に座する馴染みへの礼儀は弁えている天狗である。

 さて、どうしたものか。市中を彷徨く二本尾の毛玉やら、癇癪持ちの龍神やら、スカした狐神に分けてやっても良いが、どうせ奴らのことだから地面に頭を擦りつけて感謝をすることもないだろう。この古都に根付くような、俺と領分を同じとする者は、どいつもこいつもふざけた奴ばかりだ。分け前を貰って当然のような顔をされるのは、傲慢不遜な天狗として如何なものだろうか。しかし、あまり不遜な態度で箱を投げつけては、京都が雨三昧になる。例えば、龍の逆鱗に触れると雨が降る。癇癪を起こされては、俺が突風で散らすはずの桜を、情緒もなく雨粒で落としてしまうだろう。そうなっては、天狗の威厳というものが無くなってしまう。春麗らかに浮かれた人間共の楽しみを奪ってやることが、我ら天狗の傲慢さを際立たせるのだ。ついでに俺の美しい濡れ羽がびしょ濡れになるのは御免である。

 どうすれば俺の満足のいく形になるだろうか。頭を回していると、他の烏に混じるように一羽の三足烏が飛んでくる。どうやら今朝方ゴミ漁りでもしていたのか、随分と足の汚い三足烏だ。上手い滑空を見せながら、まるで我が家にでも帰ってきたような顔をして、そいつは俺の肩に止まった。

「おいこら。俺の服が汚れるだろうが。なんてことをしやがる」

 パーカーにゴミが付くだろうと付け加えると、目を丸々とさせた三足烏はカアカアと阿呆のように鳴いた。どうやら急いでいるようで、忙しなく三本足で肩を踏みつける。

 三足烏は京都市中の病院に行ってきたらしい。今日はゴミ収集日であるのだから、烏共は朝からバサバサと羽を忙しなく動かして飛び回り、ゴミの中に潜む肉やマヨネーズを荒らす旅をする。三足烏もそんなふうに朝から京都中のゴミを荒らしてきたのだろう。近頃は人間共も知恵をつけて、ゴミの上にネットを被せたり、青バケツの蓋をしっかりとしめたりするものだから、烏と人間は現代においての源平合戦ならぬゴミ合戦を繰り広げている。巨大施設のゴミ置き場は、入り込むのも容易くゴミの量も多いから、烏達の格好の的でもあった。俺の服にゴミをつけるのは許しがたいが、奴らも短い生を生き抜こうと必死なのだ。その意気はひとまず買っておこう。ゴミ収集の愚痴でも聞いてやろうと思いながら、頭を撫でてやる。

 しかし、三足烏はそんなことはどうでもいいのだ、と鳴き続けた。カアカア、カアカアと羽をばたつかせる三足烏は、焦れたというに俺の頬をつつき、そうしてようやく本題を切り出す。

「……そうか。トヨが死んだか」

 春麗らかな日常で、一羽のそれが持ってきたのは、それなりに馴染みのある人間の訃報であった。


 トヨという娘がいた。いや、娘であったのは、もう七十年ばかり前のことで、今や立派な老婆である。昭和の始まりあたりに生まれた娘は、人間には珍しくよくよくと、この鞍馬の山に足を運ぶ娘であった。出会ったのは、トヨが十六歳の頃、鞍馬山に参詣した春だ。その頃の俺は、今と変わらず山深い中にある一本杉で昼寝をし、桜共と話し合い、その花弁と散らす時期を虎視眈々と狙っていた。桜共は自身が美しいことを自負していて、その花弁を地面に落とすのは、最も美しい時でなくてはならないという決め事を持っている。なので、俺たち天狗は京都中の桜を突風に乗せて落とす日を、桜が「もういいのだ」と言うまで待っていなくてはならなかった。

 この鞍馬山でも人間共が桜の開花に乗じて祭りを行う。花見は人間の心を浮つかせ、トヨもまた暖かくなった空気に絆されて、のこのこと花見にやってきていたのだった。ただ、トヨは大変な方向音痴で、学友達と一緒に山を登ったものの、あっという間にはぐれてしまい、薄桃なんてどこにもなく、枝を伸ばしきった背の高い木々の立ち並ぶ山の中へと迷い込んだ。それでもめげずに足を動かして、薄暗い俺の一本杉の昼寝場所へとたどり着いたのだった。

 俺は人間が嫌いだから、滅多に人間に会うことはない。それが天狗の威厳であり、簡単に姿を晒してしまうなど畏怖たる権化の風上にもおけないものであろう。しかし、いくら偉大な俺であったとしても、昼寝の最中を狙われては隠れようがない。トヨは俺が京都中の屋根という屋根を突風で吹き飛ばす心地よい夢を眺めている間に、半べそになりながら杉の木の袂に立っていたのである。俺が目を覚まして、杉の木の袂に顔を出した時、トヨは大袈裟なほどに驚いていた。

「……なんだ娘。こんな山奥でなにをしてやがる」と、俺は嫌そうに顔を顰めた。顔を見られて悲鳴を上げられたのが随分と癪であったのだ。

 ひっ、と小さな悲鳴を更に上げて、涙目になりながらも、トヨはよろよろと俺を見上げ「も、もしかして、天狗様?」と小さく呟く。その頃の京都では、縦横無尽に突風を吹かせる天狗伝説が噂のように駆け回り、人間共の小さなブームとなっていた。昔から鬼一法眼だの、僧正坊だの、と人間共は俺を畏れ敬うのだから、それも仕方のないことだ。

「あ? そうだが、それがどうしたってんだ。ここは俺の昼寝場所だ。お前みたいなちんけな小娘が来て良いところじゃない」

「ひっ、み、道に迷ってしまったんです。友人とお花見に来ていて……」

「ならとっとと山を下ればいいだろうが。なんでこんな高いとこまで来たんだ?」

 枝の上から去れと手を振ってやると、水樽のように目に涙を溜めながら、トヨは鼠のように震える。天狗が喋るたびに震え上がるとは、なかなか弁えている娘である。しかし、それでもトヨははっきりと言葉を口にした。

「……く、下っているつもりなのです」

「はあ?」

「山を下っているつもりなのですが、どうしてだがどんどんと高く登ってしまうのです! ど、どうかお助けを……!!」

 まるで慈悲でも求めるようにトヨが大きな声で叫んだ。どうやら様子を見る限り、山道から外れ、迷子の子供のように彷徨っていたのか、トヨの髪には新緑の葉がくっついていて、靴も泥だらけになっていた。

「……お前、阿呆だな」

 俺は溜息しか出ないような顔をしながら、仕方なくゆっくりと枝から舞い降りて、トヨを人のいる社寺の手前まで送ってやったのだ。 

 それからというもの、トヨはよく俺の袂までやってくるようになった。時に瑞々しい桃や蜜柑や、京菓子を持って、息を切らせながら鞍馬山を登ってくるようになったのだ。天狗ブームに煽られて、顔を合わせたことにより、俺への畏怖を忘れてしまったのかのようだった。しかし、俺は天狗である。人間共と仲良しこよしなんてことは、大天狗の名が落ちぶれてしまう。烏共が「トヨがきたぞ」と騒ぎ始めると、俺は決まって京都上空まで舞い上がり、そうして一本杉や山道途中の天狗岩や社寺に供え物を置いていくトヨを眺めていた。トヨが山を下るのを眺めてから、そうして他の天狗や烏達に土産を奪われないように取りに行った。

 俺が姿を見せずとも、トヨは鞍馬山に通っては、何かと喋っていくのだった。誰も聞いていないはずなのに、おそらく俺に語りかけていた。聞いていたのは俺ではなく烏達であったのを、トヨは知らない。女学校を卒業した日、成人の祝いの日、旦那となるタケオとの逢瀬、純情可憐な乙女と初心な好青年が一本杉の下で、もじもじしているのが、なんとなく苛立たしく感じた日もあった。今日のような春の麗らかな頃合に、下山する二人を見かねて桜を散らし、突風でトヨの帽子を飛ばしてやったこともある。浅知恵ばかりの人間が、無用に知恵を絞るのは無意味である。大慌てで帽子を追いかけるタケオに、トヨが惚れ惚れしてしまったのは、言うまでもないことだ。

 そうして暫く来ない日が続いたと思ったら、今度は小さな赤子を連れて「子供が出来た」と、ふにゃふにゃとした顔をしながら、誰もいない一本杉を見上げていることもあった。その隣には常にタケオの姿があり、トヨを取り巻く人間の数は次第に増えていった。まだ小娘で涙目だったトヨが、月日を追うごとに穏やかな光を眼に灯し、ハリのあった肌が皺まみれになり、ふくよかな身体が小さく萎んで、娘が母になり祖母になり、人間として相応に年老いていく。それでもトヨは何かあれば、タケオと手を取り、俺の元へとやってきた。

 しかしながら、人は老いる。俺とは領分が異なるのである。何度も手を繋いで、俺の袂とへとやってきたタケオがトヨを置いて世を去ったのは、十年程前のことである。タケオの手を失ったトヨは、今度は娘や孫に手を引かれて、飽きることなく鞍馬山に通ってきた。夫を亡くしたにも関わらず、トヨの眼は一層に穏やかになり、タケオの代わりに両手を孫と繋いでいた。

 それはトヨにとっての穏やかな日常であったのだろう。だが、誰しもに平等に、人間には死が歩み寄る。もしかすると、人間の方が死へと歩み寄っているのかもしれない。

 トヨが歩けなくなったのは三年前だ。病に何度も伏せるようになり、京都にゴミ漁りに出ていた烏達が洛中の総合病院の中にトヨの姿を見つけるようになった。俺への土産はなくなり、俺を訪ねてやってくる人間は、いつもそうして消えていく。これも領分が異なるからだ。人間は老いるが、天狗は風である。老いなどはなく、命もなく、だからこそ天狗は偉いのだ。

 だから俺は人間が嫌いなのだ。


◇◇◇


 二条には、小さな京造りの家を根城にしている狸がある。以前は亀岡を根城にしていたらしいのだが、ここ百年程で人間の真似をしてバーを経営するようになった。タケキリと名乗る狸は、何事も人間を真似るのが好きな、所謂モノ好きな狸である。俺からすれば、四足歩行の狸や猫だろうが、二足歩行の人間だろうが、等しく愚かにも地べたを駆け回る存在である。奴らと俺たちの違いは、天高く舞い上がり自在に飛行出来るかどうかだ。だがしかし、タケキリという狸に至っては、呆れたことに人間から知恵となる経営学とやらを学び、そのままに真似る手腕があった。それに月の意味を持つ狸のバーには、赤玉ポートワインが置いてある。その名に相応しくビロードのような酒であり、近頃名前を変えたらしいのだが、美味いものには敬意を持つのが獣であり、鳥であり、俺の美学の一つである。

 俺は酒をあまり好まないが、赤玉ポートワインだけは、ちろちろと舐めるのが好ましい。歴史を転がす人間共の浅知恵で造られた酒は、まさにその英知の結晶であろう。

 筆舌尽くしがたい美酒にホロホロと酔うために、俺は鞍馬山を飛び出して、二条に通うのが日課である。それにコウカの置いていったちんすこうでも食わせれば狸は喜ぶに違いない。天狗が狸風情の機嫌を取るなど言語道断だが、代わりに赤玉ポートワインが出てくるのなら、やぶさかではないのである。

 雨も降らず丸い月の出る晩だった。手中に収められそうな白い月を眺めながら、俺は二条の小さな路地の前に舞い降りる。烏たらしめる羽は広げなくとも自由自在に飛行可能であるのだが、羽ばたいた方が幾分か速度が増す。大袈裟に開いた翼をしまいながら、俺は路地にぽつり、と浮かぶ<bar.moon>の看板を横目に路地へと足を進めた。どうせ、生ある者には見えもしないのだというのに、狸は形にこだわるらしく、いつも看板に明かりを灯している。人間がそうするからだと、洒落た口調で真似ることに胸を張る狸の姿を思い出し、半ば呆れてしまう。それは狸の美学であるらしかった。

 街灯の少ない路地を奥へ奥へと進むと少しばかり開けた更地の上に、ぽつりと浮かぶバーがある。毎夜明かりを灯す店の引き戸に躊躇なく手をかけると、「よう、おこしやす」という胡散臭い京都弁が投げかけられた。人間の姿を真似した毛玉が、カウンターの向こうでグラスを拭いている。この一丁前にマスター気取りの狸がタケキリである。

「キイチはん。お待ちしておりましたよ」と、恭しい態度でタケキリが言った。

 店内には、カウンターの端の席に見慣れた常連の狐神が煙草を吸いながらウイスキーを飲んでいて、テーブル席には市中をうろちょろとしている猫が数匹手下を連れてテーブルを占領していた。

「阿呆言うな。気色悪い」

「今日は来ると思うてましたから」

 意味ありげな言葉を投げかけてくる狸に腹が立つのは、俺の方が偉いからである。狸風情に行動を読まれてなるものか。ギリリ、と歯噛みしながら引き戸を閉める。そうしてカウンターの向こうに八箱のちんすこうを投げつけてやった。タケキリは慣れた手つきでグラスを置いてから、バラバラと降ってくる土産の箱の上手くキャッチする。

「コウカからの土産だ。食いきれないから、お前が配れよ」

「こりゃあ沢山やなあ。有難うございます。お客さんも喜ばれるでしょう」

「代わりに赤玉ポートワイン出せよ」

「ええ、そりゃ勿論」

 赤玉ポートワインは瓶ごとチロチロと舐めるのが良い。俺はグラスなんてものは使わない。カウンターに近づいて、とにかく寄越せとタケキリを睨むと、狸はすぐにしゃがみこんだ。そうしてまるで用意していたのかと思わせるほどの素早さで、俺の前に赤玉ポートワインとグラスの二つ乗ったお盆を差し出したのだ。

「んあ? なんだよ」

 俺はそんな飲み方はしないのは、タケキリも知っているはずだ。怪訝な顔をしてみせると、タケキリはまた恭しい態度で頭を下げた。

「今日は地下にキイチはんのお客さんがお見えですよ」

「……知ってたのか」

「まあまあ、七十年ぶりの再会やないですか。一度ぐらい酒を酌み交わしても、ええやないですか」

「お前は、本当に、性根が悪いな」

「そんなこと言わず。ここはそういう店ですから。旦那はんも奥にいらっしゃってますよ」

 さあさあ、と俺を促すようにタケキリは店内にある地下への階段へと目配せする。

 俺は溜息を吐き出しながら、タケキリの差し出してくるお盆を手に取った。狸の言うことを聞くのは癪であるが、確かにもうここでなければ機会は得られないのだろう。俺に慈悲なんて言葉はないが、多少なりの情けという奴は持ち合わせている。

「なんも怖がることはないと、教えてあげてくださいね」

「うるせえよ!」

 階段を降りる背にかかる声に吠えてみせると、狐神や猫が盛大に笑っているのが聞こえた。


「お久しぶりでございます、天狗様」

 俺がよう、と声を掛ける前に、まるで待ち構えていたような顔をしてトヨが小さく会釈をする。<moom>の地下は、地上とそう変わらない広さの空間に幾つかのテーブルが備えてあるだけの簡素な造りになっている。ただ地上と違うのは、店の奥が空洞になっており、ちょうど一階のカウンターの下あたりからは剥き出しの岩肌が顔を見せているということだろう。冷たい空気が流れ込み、まるで大きな虚のように明かりもなにもなく、どこまで続いているのかも分からない。先の見えない長いトンネルがあるのだ。

 そのトンネルの一歩手前のテーブルにトヨはいた。タケキリに案内されたのか、おしぼりと水の入ったグラスが置いてあり、昔の小娘の顔なんてどこにもなく、穏やかに笑う老婆がぽつりと誰もいない地下に座っている。にこやかに笑みを携えるトヨに鼻を鳴らしてから、俺は仕方なく向かい側の席に腰を下ろす。

「七十年ぶりだな。随分と年老いた」

「ええ、天狗様はお変わり無いようで」

「天狗には命がないもんでな。ついにお前も死んだか」

「はい、昼間体調を崩してそのまま……まあ、自分で言うのもなんですが、長生きした方だと自負しております」

「そうか。よくこの店に来たな。まあ、飲め」

「まあ、天狗様とお酒を飲める日がくるなんて」

 お盆に乗ったグラスを差し出して、赤玉ポートワインの栓を開けると、昔はあんなに怯えていたのに、トヨはまるで少女のようにしわくちゃの顔を綻ばせた。手を添えるようにしてグラスを持ち上げて、俺に注げと促してくる。たった七十年で人は変わる。見慣れていたはずであるのに、何度目の当たりにしても、この光景だけは慣れるものではなかった。

 トヨのグラスにビードロ色の酒の注ぎ、ワイン瓶を取り上げようとするのを断ってから、俺のグラスにも注ぐ。本来ならば、チロチロと舐めるのが好ましいのだが、今日という日には無粋だろう。乾杯はしない。これは祝い酒ではないのである。互いに口をつけて少しばかり喉を潤してから、また俺とトヨは向かい合った。

「無念はないか?」

 今までもそうしてきたように、俺は決まり事のような言葉を述べる。トヨはどこまでも穏やかな顔のまま、酒の入ったグラスを見つめている。

「はい。子供に囲まれた最期でございましたから。娘がいて、その夫がいて、孫がいて、ああ、そうだ。曾孫の顔も見れたのです。タケオさんの大きな手から、沢山の小さな手に引かれて歩いて参りました。一生懸命生きることも出来ました。多幸でございましたから」

 思い出を懐かしむように、ふふ、とトヨは上品に笑って見せた。人間が最期の時になにを思うのか。最期の訪れない俺には分からないが、とにかくそういうことらしい。

「そうか」

「ええ……あ、でも、最後に鞍馬山の大天狗様にお会い出来なかったことが心残りでございました。体中が痛くて、もう動かなかったのです。今はどうしてだか身体は軽くて、あの山道も軽々と登れそうで」

「そりゃそうだろう。なにせ、もう体がない」

「そうでした。そうでした。だからこうしてお会い出来て、悔いという悔いは、もう残っておりません」

 ご配慮に感謝致します、とトヨは小さく頭を下げた。俺を見て泣きべそをかいていた小娘はどこにもいないのだが、その顔は妙に俺を懐かしませる。そこには一本杉を見上げながら、ふにゃふにゃと笑うトヨがある。べそをかく顔は妙ちくりんな娘だったが、幸福そうな笑みは随分と愛らしいものだった。

 ぐい、と赤玉ポートワインを飲み込むと、喉が焼けるように熱くなる。やはり酒というものは、じっくりと味わうのが好ましい。自分のグラスへと足してから、トヨのグラスの減った分も足してやる。すると「有難うございます」と、平伏してみせるように笑みを浮かべる。こういう穏やかな奴は久しぶりだ。この店にやってくる人間は、大抵死にそうな顔をしているか、死んだ顔をしているのだ。俺たちは意気揚々と呑んだくれているのを、邪魔するように青白い顔が地下へと横切っていくこともある。それに比べれば、トヨは随分と和やかで、言葉通りの後悔を持ってはいないようだった。

 しかし、それでも人は畏れを抱くものである。

 トヨはじっくりと舌で転がすように酒を飲み、ささやかに頬を高揚させながらも、チラチラと先へと続くトンネルを気にしているようだった。

「私は、逝かねばならぬのですね」と、グラスをテーブルの上に置きながら、トヨは小さく言う。

「ああ、そうだな。アレは隧道だ。タケオも通っていった道だ」

「主人も、ですか?」

「生き物が死ねばいずれは誰もが通る道だ。怖がることはねえよ。こちらからは暗がりに見えるが、入ってみればそうでもないらしい」

 まあ、俺は通ることがないから分からないのだが、トンネルの中から戻る者もいなければ、どこぞのホラー映画のように悲鳴が聞こえてくるなんてこともない。このトンネルは常に静かに佇んでいるばかりのものである。おそらくタケキリあたりが先に説明をしていただろう。それでもトヨは、怖がったように先の見えないトンネルを眺めている。

「いけませんね。人生色々ありましたけれど、まだ怖いものがあるだなんて」

「人間とはそういう生き物だろ。それにお前は方向音痴だからな」

「そうですね。あんなに真っ暗で、迷子になってしまったらどうしましょう」

 暗い道が怖い。迷子が怖い。まるで幼い子供みたいにトヨは小さく怯えている。死んだのだから、体が傷つく心配もないはずなのだが、人間というのは厄介である。浄土だの、地獄だの、と人間は死ぬまでに多くの知恵をつけるから、余計に厄介なのだ。一歩店の外に出てみれば、街灯のない暗い道など、未だにいくらでもあるというのに、人間はそれも怖いという。

 まあ、そんなトヨであるのだから、タケオはいつも手を引いていたのだろう。帽子を手に取ったあの日から、迷子にならないように、とトヨの手を引くのは、俺ではなくタケオの役目である。

 ぼんやりと暗がりを見つめたままのトヨを置いて、俺は立ち上がる。怖くないことを教えてやれ、とタケキリにも言われているのだ。狸の言葉などクソくらえだが、一理あるのは確かである。

 俺は店の地下とトンネルの境目まで歩いていく。この先に俺は決して進むことが出来ないが、これからトヨが行かなければならない道だ。じっくりと奥を眺めてから、「おい、トヨ」と、俺は娘の名前を呼んだ。それもきっとはじめて呼んだのだが、そんなことを気にせずにトヨは肩を揺らして立ち上がる。テーブルに置かれたままの赤玉ポートワインは、半分ほど残っているが、そろそろ潮時であるだろう。恐る恐ると近づいてくるトヨに手招きをする。

「いいか、トヨ。お前は迷子にならないし、暗がりを怖がる必要はない」

「……はい」

「この先をまっすぐ行け。すればすぐにタケオに会える」

 トンネルの奥を指差すと、トヨは驚いたように目を見開いた。

「夫が、来ているのですか?」

「お前は天寿を全うしたんだろう。そういう奴には迎えが来る。因みにタケオには、あいつの兄が来たぞ」

「本当に?」

「ああ。仏ってのは天狗と違って慈悲が深いもんだ。だが、俺がここを通れないように、タケオもこちらには来られない。だから、しっかりとした足取りで、まっすぐに行けばいい」

 狸は旦那がいると言った。この店はあの狸のものであるのだから、本当なのだろう。タケキリは曲者狸に違いなかったが、あれは死人が好きで好きでたまらないのだ。そういう嘘を吐いたことがない。

 最初に出会った日のように、俺はトヨを送ってはやれない。この境界線は生と死を分けている。そのどちらの領分にも含まれない天狗が足を伸ばしたところで、道は続かないのである。自分の足で行くんだぞ、と言い含めると、トヨは胸の前でしっかりと手を丸めながら、小さくこくりと頷いた。夫の名前はさぞかし度胸に繋がったのだろう。トヨの顔に穏やかさが舞い戻ってくる。見送ってやる、と俺が鼻を鳴らすと、すっとトヨの皺だらけの手が、俺の片手に触れた。

「天狗様、もう一つだけ私の想いを聞いてくださいますか?」

「いいぞ。言ってみろ」

 トヨの両手にしっかりと包み込まれる。まるで子供をあやす母の手のようだ。

「幼いあの日から、私は天狗様をお慕いしていました。どうかそのことだけは忘れないで下さい。人間の命は天狗様よりは短くありますが、私や夫のような人間がいたことを、どうか」

 まるで神に何かを乞うように、トヨは慎ましい口調で言った。それが妙に腹立たしく思えた。地べたを這い回る人間が、どうにも天狗である俺を一度は哀れんだようにすら聞こえたからだ。だが、トヨの眼には変わらないままの穏やかな光が灯っている。俺が見送る奴は、そういう眼をするのだ。そうして、トヨのように「忘れるな」と無茶を言う。太く、短く、そうしてしぶとく生きる人間と違って、こちらは長い時を京都で過ごしているというのに、自身を残せだと無茶を言うのだ。

 俺は天狗であって、神でもなければ仏でもない。それでも何故か人間はいつも同じ願いを最後に残していく。

 だから俺は、癇癪に苛まれながらトヨの手を振り払い、その背を押してやった。

「忘れるかもしれないし、忘れないかもしれない。そんなことは考えず、まっすぐ進めよ」

「はい、天狗様。長い間、どうも有難うございました」

 とんとん、と二歩ほど進んでから、トヨは振り返り、今度は大きく腰を折る。俺が小さく手を振ってやると、やがて体をシャンと伸ばし、まっすぐ前を見据えて歩き出した。トンネルの暗がりがトヨを呑み込んでいく。先にはタケオがいるのだから、方向音痴のトヨでも大丈夫だろう。

「――俺は、お前が嫌いじゃなかったぞ」

 ぼう、としたトヨの背が消えるまで、俺はじっと境界線の前で、その背を眺めていた。



 地下からお盆を持って一階へ上がると、テーブルを占領していた猫の集団は消えており、相変わらずカウンターの端に腰を下ろしている狐神が残っている。猫の親玉がカウンターに移動していて、今度は日本酒を片手にしていた。猫の親玉と狐神は、俺同様に酒を求めて、この店にやってくる常連客である。カウンターの向こうにはタケキリが変わらずにグラスを拭いている。一階は地下の冷え込みが嘘のように暖かく、外を吹き抜けていく春の風が大きな音を立てて、引き戸を揺らしていた。

 俺は無遠慮にカウンターを腰を下ろし、そうして残った赤玉ポートワインをチロチロと舐める。ビードロの甘いワインが、ようやく体に染み渡り、ホロホロと良い心地がやってきた。すると、隣に座る狐神が口元をにやつかせて、俺の肩を叩く。

「そんなに感傷的になるなら、見送りなどしなければいいだろうに」

「うるせえよ」

「キイチは優しいのよねえ」

 にやにや、と厭らしい笑みを浮かべながら、狐神は煙草をふかし、猫の親玉がごろごろ、と喉を鳴らす。あまりの鬱陶しさに毛を毟ってやりたくなるが、酒の中に毛が入るのも好ましくない。

「まあでも、分からなくはないわね。私のこの間、二丁目のマロンを見送ったもの」

「私達と違って、生きてるものは死ぬ行くもんですからねえ」

 それもまた領分が違えてからこそです、とタケキリがなんでも分かったような顔をして、肴のつもりであるのか、皿に乗せたちんすこうをカウンターの向こうから差し出してきた。確かに、俺は配れと言ったが、誰もつまみに出せとは言っていない。狸はやはり阿呆らしかった。

「マロンはお前の傘下の猫だろう? ならまあ、分からなくはない」と、ぷかぷかと煙草の煙を吐き出しながら「だが、キイチのソレは烏共だろう。人間じゃあない」狐神はよく分からないという顔をして俺を見る。

「あ? お前もそれなりに、生きてる者と話したりするんじゃないのか?」

「さあ。俺はそこまで生に興味がないからなあ。アレは通り過ぎるだけのものだろうに」

「まあ、俺にもよく分からん。たまたま話をしただけの小娘だ」

 つい先ほど、トンネルに消えていったトヨの背を思い出しながら、ワインを舐める。七十年程前に、一度話したきりの人間だ。一本杉に通ってきただけの人間だ。だが、一度出会ったのならば、見送りぐらいはしてやってもかまわないと、俺は思うのだ。それは天の狗である俺の少ない情である。地べたを這い回るだけの人間が、時々顔に見せにくるだけのことだ。

「そんなに寂しいのなら、いっそのこと自分のものにしてしまえば良いだろうに」

「そうまでして欲しくはねえし、寂しくもねえよ」

「領分が異なる者を愛でるのは難しいものよねえ」

「誰も愛でてねえから!」

 くすくす、と肩を揺らして常連客が笑う。

 俺たちは風を起こし、尾を分けて、雨を降らす。そういう領分に在るのだ。タケキリは人を見送り、決してあの先には立ち行かない。いっそ俺たちのように永遠とそれだけをして時を流すことが出来るとするのなら、人間はどのような顛末を迎えるのだろうか。考えるだけで薄ら寒いことこの上ない。やはり人間共は短い生に浅知恵を行使しながら、地べたを這い回るのが良いのだろう。そうであれば、俺には関係がない。京都上空は俺のもののままであり、天狗たらしめることが出来る。

 だが時々、ああして俺に声をかけてくる人間がいるのも事実である。

「ああ、そや。皆さん、もう一杯どないですか? 今日はご馳走しますよ」

「なら頂こう」

「あら、私も」

「赤玉ポートワイン寄越しやがれ」

 思い出したようなタケキリの言葉に頷いておく。いつものように、慣れた空間に、穏やかのようで、領分を違えたもののけの殺伐とした香りが立ち込める。

 気づけばトヨのことも過ぎ去ってしまった春の雨のようであった。トヨにとっての七十年は、俺にとっては二度の会話と、人間が転がす歴史というやつの一瞬でしかないのである。美しく咲き誇り、そうしてもういいと散っていく桜そのものにすら似ているのかもしれない。

 阿呆のように人間は地べたで踊る。

 それを天高くから眺めて、せせら笑うのが天狗である。

 だから、俺は人間は嫌いなのだ。



  ※柊ちゃんのところをのコウカさんをお借りしました。ありがとうございます!

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