赤い契
その男女は貴船の水神の客なのだ、とまるで寝物語を語るような口調でネコは言った。
耳を傾けているのは、ウイスキーのグラスを片手に煙草を吸う狐面の男と、赤玉ポートワインを瓶ごと店主から掻っ攫いチロチロと舐めるように飲んでいる風貌の若い天狗である。京都二条にある〈bar.moon〉のマスターは、そんな三人の客を眺めながらも、面白そうな顔をする。
町家造りの店内の、今日の客入りは静かなものだった。ここは平日も休日も関係なく、人の営みに左右されないバーであったが、それでも客の入りにはバラつきがある。死人の少ない良い夜だ、と漏らしたのは天狗であり、それはそれで面白味に欠ける、と唇で弧を描いたのは狐である。ならば、と口火を切ったのは麗しい女の格好をしたネコだった。
「明日この古都にやってくる、赤い帯で結ばれた男女のお話でもしましょうか。宵闇の肴には打ってつけの面白可笑しい阿呆の話よ」
日本酒の注がれた小さな杯の縁を細い指でなぞりながら、にんまりとネコが笑う。
「人の時世で言うならば、もう随分と昔の話でねえ。とある山中の川の縁に女が一人立っていた。冬の冷たい風の吹く日で、夜も遅い。流れる水はきっと触れたら肌が痛むような塩梅だったでしょうね」
ネコはまるで思い出話を語るような口調だ。聞いていた天狗や狐は、ここから西の小さな山を思い浮かべる。現代が平成と呼ばれる前の時代を思い出し、そうして瀬戸内の向こう側に点在する緑の山野を思い出す。どれもあまり残ってはいないが、彼らにとって、それは遠い昔というわけでもない。人の回した車輪のように、ごろごろと転がる歴史を辿りながら、どの時代のことであろうか、と思案した。
「まだケーブルカーもないような時代のことよ。女は女郎でねえ、男と一緒に逃げてきたってえのに、夜の山に足を取られて、男のが先にぽっくり逝ってしまったの。女は悲鳴を上げて泣き喚いて、それでも男を置いて山中を彷徨った。骸なんか持って行っても仕方がないから、きっと自分の死に場所を探していたのねえ。そうしてようやく底の深い川にたどり着いた」
「なんだ、心中話か」
ネコの意気揚々とした言葉を遮って、天狗の退屈そうな声が店内に漏れる。見れば、彼は赤玉ポートワインを注いだグラスをチロチロと舐めながら、不快そうに眉をしかめている。
「そんなもんは幾らでも今世に溢れてるだろ。時代が時代なら女郎の心中は華の事件だったしな。面白くねえぞ」
「あらあら、天狗は気が急いていけないわねえ。誰が心中話だと言ったかしら? そもそも人の子の魂が、水神様のお客になどなれるはずがないでしょうに」
馬鹿ねえ、と付け加えながら、ネコは悪態を吐き出した天狗を嘲笑う。すると店内に、一陣の風がどこからともなく吹き抜けた。ぐるぐると店内を巻き上がる空気の中心には、天狗が座していて、狐の吐き出した煙を天井へと押し上げていた。
「やめなはなれ。折角の宵の晩やのに、無粋な喧嘩なら外でやっておくれやす」
ごう、と音がするような風を割くように厳しい声音が店内に届いた。切れ味の鋭い包丁のような声を出したのは、カウンターの向こう側で粛々と酒を作っていた店主である。間延びした京弁で睨み合うネコと天狗を諌めると、マスターは小皿に盛ったちらし寿司を差し出した。
「まあ、これでもつまみにして続きを聞きましょう。うちは楽しく聞かせてもらってますさかい、キイチはんも水を差したらあきまへん」
「……分かったよ。麗しい同族愛だな」
錦糸卵や、干し椎茸の煮付けや、レンコンの酢漬けの盛り付けられた色とりどりのちらし寿司を横目にしながら、天狗は小さく嘆息する。ぐるぐる、と喉を鳴らして笑うネコや狐が随分と癪に障った。風を起こす代わりに睨んでやっても、同じ店の常連客であるからか、彼らには何の効き目もないようで、すでに天狗のことなど目をくれず、目の前のちらし寿司を手を叩きそうなほどに喜んでいる。サービスの質が良い、と噂立つマスターも満足そうに笑みを浮かべていた。
箸を割って、口に運んでから、煙を吐き出してばかりの狐がネコに促すように口を開く。
「それで、心中でないのなら、どういった話だと言うんだ? 俺には、その女郎と水神の関係がよく分からないんだが。あれは雨を降らす者だろうに」
「まださわりだもの。そもそも、その女郎はまだ死んじゃいないのよねえ」
ちらし寿司を咀嚼しながら、ネコはどうだ、と胸を張る。ほう、と一つ興味深げな息を吐き出して、狐は面白がるように笑っている。この店の客にとって、退屈は敵であるらしかった。まるで寄席にでもやってきた客のように、彼らはまたネコの声音に耳を澄ませる。
冷たい夜のことだった。月のない晩で、山中を歩くには心持たない。元より、夜更けに山を登る者などそういない。だからもしも、女に誰かが出会っていたら、十中八九訳ありなのだと気づいただろう。
静かな夜の山の中で、杉林の小道を抜けて、女がたどり着いたのは底深い川の岸辺だった。空を見上げても黒々とした重苦しい雲しか見えずにいて、よく目を凝らさなければ川と陸の境目すらも見分けがつかないような夜だ。冬であるからか虫の囁きもなく、鳥の羽音もなく、大気を揺らしていく小風と、凍えるような川のせせらぎだけが女の耳に届いていた。女の手には、赤い紐が結ばれている。山から落ちた男の手首に繋がれていた紐だ。山中ではぐれないようにと結んだものだったが、それも男が足を滑らせた時に破けてしまった。まだ温かい骸は物を言わず、ちぎれた紐の先を眺めるたびに女の胸は痛くなる。いっそのこと泣き叫びたいような衝動にも駆られたが、歩き続けて身体は痛み、泣き喚き続けて喉は枯れている。手首に巻いた紐を一つ撫でてから、女はゆっくりと川へと足を進め始めた。
焼けるような痛みを孕んだ水の冷たさすら、女には感じられない。水を吸った着物が重く肩にのし掛かり、川岸に捨てた草履のおかげで小石が足の裏に突き刺さる。女は虚ろな眼のまま川中を突き進み、そうしていつしかすっぽりと頭まで姿を消した。耐えるように空気を求める肺を叱責して、つかなくなった底を探してもがく足を押し留めて、浮かぼうとする身体を沈める努力をする。川の流れに逆らうように水草を掴んでいると、不意のその手が叩かれた。閉じていた瞼を水中で押し開くと、夜闇の色をそのまま写したかのような水底に大きな白い蛇が女をしげしげと見つめていた。
女は驚いて、閉じていた口を開く。酸素がぼこぼこと流れ出て、あっという間に体内に大量の水が入り込んでくる。死ぬつもりであったのだから、それが正しくあったはずだが、女は苦しさに耐え切れず、水草を掴んでいた手を離してしまった。すると、目の前の白蛇が長く太い尾で女の身体を放り投げた。
「……はっ、はあっ」と苦しさを訴える肺が求めるままに、女が冬の大気を吸い上げたのは、川岸に身体をぶつけた後だった。背骨を岩に打ち付けて、身体は麻痺して上手く力が入らない。唐突な衝撃に女が瞼を押し開くと、自身の脱いだ草履が真横に置かれていて、空を見上げると一人の男が袂に立っていた。
「俺の腹の中で勝手に死のうとするな」
まるで低い唸り声のような声音だった。
「しなせておくれ、しなせておくれ」
力の入らない手で何かを掻き毟るように女は声を絞り出した。
「お前のような者で俺の腹を穢すな。俺にだって腹におさめるものを選ぶ権利がある」
「しなせておくれよ」
まるで諌めるような男の声を無視して、女は懇願するように泣いた。濡れた重い着物のまとわりつく腕で顔を覆い、次第にわんわんと泣き始める。男は女を見下ろしたまま、大きな溜息を吐き出した。
「なんだ、死に損ないの話か」と天狗は相変わらず赤玉ポートワインを舐めながら、先ほどとは変わって楽しげに呟く。どうやら心中話よりも興が乗っているようだった。
「ええ、だから気が急いていると言ったのよ。せっかちな男は嫌よねえ」
「なんだと。お前が遠まわしな話し方をするのが悪いんだろうが」
「まあまあ、二人共やめておけ。また狸に叱られてしまうぞ」
空になった小皿をカウンターの向こうに返しながら狐が笑うと、マスターは小競り合いをはじめそうな二人を眺めながら、薄い笑みを浮かべている。どうやらこのバーの店主にとっても、彼女の話は興味深いらしい。口は多くを語らないが、その瞳は先を促している。
「しかし、なるほど。心中する男女の話ではなく、川の神と女郎か。これは確かに面白い。水神殿のお客人たるのも納得だ」
「さすが狐は察しが良いわねえ。蛇の男は偏食がちな川の神なのよ。呑み込むものを選り好みする変わり者で有名なの」
「ああ、それで女を吐き出したのか。まあ、死体を流してやるこたぁないな」
「腹におさめる者など意にも介さない神がいるというのに、神経質なものだ」
狐が可笑しそうに肩を揺らしながら、マスターから差し出されたグラスを手に取る。飴色の酒を喉に流し込みながら、再び狐が「それで?」と問いかけると、話していることにも趣を感じているのか、ネコは滑りの良い舌を転がした。
夜はまだ明けず、静けさばかりの残る川岸で、男に無理矢理に身体を起こされた女は泣いてばかりいたという。めそめそと涙を流しては、濡れそぼった着物で頬を拭う。男は腰を折って、女を目線を合わせてやりながら、夜更けにこんなところまでやってきた女の経緯に耳を澄ませていた。
女は女郎であった。水を垂らし乱れた髪は黒く艶やかで、水の冷たさと冬の温度に体温を奪われた青白い肌も、元から陶器のような白さを保っていたのだろう。ふっくらとした乳房が透けて見え、足も腰も随分と細い。女の齢は若くあったが、金看板の太夫であったらしい。山中に捨て置かれた男は、帝国大学の学徒であり、親は名の知れた華族だった。悪友に誘われて上がった遊郭で、男は女に出会った。二人は相惚れとなったのだという。しかし、いくら華族の出とはいえ、学生が遊郭に通うには小遣いが足りず、身分の差もあって、それは徒事にしかならない恋路だった。そこでいっそのこと、二人は足抜けをして逃げることにした。金銭が続くまで汽車に乗り、そうしてこの山の袂の駅で降りたのだという。逃げて、逃げて、あとは死ぬだけだった。来世で会う約束を何度も囁きながら、心中をしにやってきたのだ。
しかし、男だけが先に逝ってしまった。離れてしまわないように結んだ赤い紐は当に切れてしまい、男の骸は今頃山中で冷たくなっていることだろう。だから、後は追わねばならない、と「しなせておくれ」と女が、切れ切れになりながら繰り返す。
「同じくして死せねば、同じところに逝けるとも分からないだろうに」と、女の言葉に耳を傾けていた男はにべもなく告げる。その声は爬虫類のように冷たさを孕んでいて、まさに冬の川のようだった。
「そんなこたあない。あのひとはまっててくれる。じごくにおちてもかまいやしない」
「俺はこの川の神だ。その男がどんな奴かは知らないが、罪の多さで地獄は行き先が変わる。お前と男の罪は同等か?」
死神が問いかけるように、男は言った。その言葉に女は目を見開いてしまう。
「お前は畜生を殺したか? 女郎ならば多くの嘘を吐いただろう。地獄の沙汰は尺度に厳しい。自ら命を絶つ罪が同じでも、お前たちが同等に生きてきたか?」
「そんなの、そんなのしりゃあしないよ。かぞくさまのつみだなんて……」
「だろう。ならばお前が後と追ったところで、男のいる場所に逝けるかどうかも分からんぞ」
「そんな、あんまりじゃないかい。ならさきにいったあのひとはどうなるんだい」
「こんな夜に山に入ったのが悪いんだろう。お前がその時一緒に逝かなかったのが悪いんだろう。そもそも死なんてものを、自分で選ぼうとするのが傲慢だ」
出来るわけないだろう、と小馬鹿にしたように目の前の男に笑われた。その言葉は女の一生に随分と突き刺さる。訪れる死は平等だと思っていたのだ。今世で平等に生きることが出来ないから、一緒になろうと誓ったのだ。それしか男を愛する手立てがなかった。知らぬ男に股を開くことでしか、生きることの出来ない女にそれ以上のことは出来るわけもなかった。
ぐぐもった声が山中に轟いて、枯れたはずの涙がわんわんと漏れてくる。ならどうしたら良かったのか、人を愛してしまったのに報われずに終われば良かったのか、私たちはどうしたら幸せになれたのか。まるで子供のような喚きが男の耳を劈いて、世の中を呪う声だけが響いていく。男は女を見下ろしたまま、冷たい眼でそれを眺め続けた。
そうして、なんて哀れな女なのだろう、と思った。
冷たい風の吹き荒ぶ冬の山奥までやってきて、何一つ報われずに泣き喚く女が哀れだった。神仏の末端である白蛇の慈悲だったのかもしれなかった。髪を振り乱して泣き続ける女を腹に呑み込んでしまうのは、やはり嫌悪したが、それでも涙が出なくなるまでは傍にいてやってもかまわかなかった。
結局、女は三日三晩泣き続け、涙も声をまた枯れ果てた頃、ようやく立ち上がった。山を降りて男の両親に連絡をし、それから男の骸を華族が迎えにくるのをひっそりと白蛇の男と共に見守った。そうして、女はまた川岸でぼんやりと立っていた。女郎であったから帰る場所もないのだという。他の生き方も知らないのだという。
「あんたがのみこんでくれなきゃあ、わたしはここでしぬしかない。やまにのまれるか、かわにのまれるかのちがいだよ」
ぼそぼそと呟く女は次第にやせ細っていったが、それでも川岸から動かなかった。流れ続ける川だけが女を冷たくしていき、冬を越えることは出来そうにない。山を降りてしまえば生きる方法など幾らでもありそうだったが、その意欲は消え失せている。これには白蛇の方が参ってしまった。生気の抜けた女を放っておけるほどに、彼は冷たくは出来ていなかったのだ。
「……俺はお前を呑み込まない」
「じゃあほうっておいておくれよ。じきにおっちぬさ。あのひとにあえなくても、じごくへいくんだ」
「お前は裁かれたいのか」
「さばかれたいさ。あのひとをほうって、やくそくをはたせなかったんだから」
地獄の業火に焼かれてしまうんだ、と女は決意を固めたように呟く。死をいう決別を経て、女が見出したのは己の罪でしかなかった。生きる気力など女はとうに捨てている。白蛇は高潔な川の神だ。人の呑み込むのも、目の前で死なれるのも目覚めが悪い。他の神にはよく笑われたが、そういう性分だった。男は困ったように溜息を吐き出す。
「……分かった。なら、俺がお前を裁いてやろう」
巻きつくような声に女が顔を上げる。
「俺の嫁になりゃあいい。川が枯れるまで生き延びて、お前はずっと懺悔しろ。思い出して苦しんで、そうした罰を受けりゃいい」
諦めたような言い草に、川のせせらぎが笑ったような気がした。女は頷くことなくきょとんとした顔で男を見上げ、そうして今度は何度も逃げ出そうとしたのだという。それでも男に捕まって、仕方なく今世の生を享受しているらしかった。未だによく泣くのだ、と男はよくよく水神に零したが、諦めた顔がよく似合う。
「――結局諦めて、女は白蛇様の嫁になったのよ。奇妙な縁でしょう?」
「また変わった神だな。明日はこの古都にくるのだったか?」
間接照明が浮かぶバーの中で、寝物語を肴にしていた客たちが興味深くネコを眺めた。
「ええ、面白いわよ。あの二人、いつも赤い帯で互いを括ってるのだから」
「なんでそんなことしてんだ?」
「その女がすぐにふらふらどこに行ってしまうのよ。白蛇様はどうやら女にご執心でねえ。知らぬ間に死なぬように女を繋いでいるのよ」
だから、女は一生死なない。そもそも神に嫁いでしまったら、死などとうに超えている。ネコが言えば、彼らはああと頷く。
聞き耳を立てていたマスターは、頼まれた酒を作りながら常連しか客のいない店内を眺めていた。
「そりゃあ、随分な話やなあ。明日、うちに来てくれへんやろうか」
宵闇が明けて、酒の肴になった二人が古都を訪れるのは、もう暫く先のことだった。
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