異類交流短編集
陽本明也
人魚の半身
新宿でも夜空に星が浮かぶことを知る。
ビルディングに囲まれた四角い空は闇色に染まり、その色を流し込んだような薄暗い雲が数片浮かんでいる。その合間で輝きを見せるのは、ぽつりと大海に浮かぶ船のような月と、決して数の多くない星である。静寂が満ちている路地と比例するように、表通りの明るい電飾の光が影を作り、夜更けだというのに人や車の音が轟いてくる。何処かのテナントに繋がっているのだろう室外機の隣で腰を下ろしながら、私は空を見上げていた。埃っぽく、コンクリートばかりのはずなのに乾いた土の匂いがする。呼吸をすれば細かい塵が喉の中に入り込み、舌がざらついた。
これは明日のニュースになるかもしれないな。
脇腹を貫いた痛みに脂汗が浮くのを感じながら、そんなことをぼんやりと思う。凶器は確か出刃包丁だった。今時古風なことだと呆れてしまう。もう一人殺すのか。恨まれた覚えもなければ、私を狙っての犯行であったのなら姉がそれを許す筈もないから、愉快犯であるのだろう。今頃は表通りを何食わぬ顔で歩いているのかもしれないし、次なる獲物を虎視眈々と探しているのかもしれない。もしかしたら、べっとりと凶器に付着した体液がすっかり無くなっていることに慄いているのかもしれない。私を刺そうなんて馬鹿な真似をする。私も姉も、とっくに死など克服しているのに。
遮光硝子のように不文律な眼差しは、姉の美しい黒い瞳によく似合う。それは上の立場に属する人間の不可侵の眼差しだ。上の姉弟とは厄介で、決して弟には弱みは見せない。血肉を分けているというのに、決して侵せぬ領分を保ち、それなのに下の姉弟の懐には恐ろしいほどの手腕を用いて、時に強引に、時に足音を忍ばせてやってくるのだから性質が悪い。姉という生き物は等しくそういう風に出来ているのか。それとも彼女だけが、そのような特殊な能力を持ち合わせているのかは、比べようがないので知るところではなかった。
しかし、私の姉という半身について述べるのならば、彼女は弟の矜持など容易く折り曲げてしまうのだ。
「臓器は大事にしなさいと、いつも言っているのに。やあね、血の一滴だって大事なのよ」と、帰宅早々に姉は顔を歪めて言った。
「何処で見ていたのですか。怖いなあ」
心配を持て余すと、ついつい感情を怒りに変換する姉にへらり、と笑ってから、私は玄関で靴を脱いだ。新宿の小さな路地で起こった殺人事件の幕切れは、被害者が不死であったことで事件にもならないだろう。他の人間を同じように刺殺していたのなら、明日のニュースに出てくるかもしれないが、そこまでは私の知ったことではない。へらへら、と笑う私に睨みを利かせる姉は、すっと私の脇腹を指出した。質問への返答のつもりであるのだろう。姉の揃えてくれた上等なスーツの上着とシャツがぱっくりと割れ、私の腹が露出していた。
相変わらず目敏い人だなあ、と私は言葉に出さず感心する。
「お使いは済んだの?」
「滞りなく。遅刻もしていませんよ」
「そう。ならいいわ。寂しくない?」
「弟が誰かの傍にずっと在れるのなら、幸せなことです。それに私には姉さんがいますから」
本心をそのまま述べると姉は釣り上げていた目尻を下げて、すぐに絆されたような顔をする。無防備な緩さを持った姉の空気が玄関に漂い始め、それは私を刺激する麻薬のように甘やかだった。胸に宿る感情は、親類の情などという美しいそれとは違っている。
世の中では、血肉を分けた半身を家族と呼ぶ。二つの血が混ざり合い遺伝子の組み合わさった後継が子であるのなら、全く同じ血肉を持つものは兄弟である。ならば、私と姉は確実に姉弟と呼ぶのが自然であるのだろう。先に世に出たのが上の立場になるのなら、彼女は姉で、私は弟になる。ただ世の中のそれと異なるのは、私には母もなく、父もなく、無数の弟がいて、その全ては他人の手に渡っていく。
姉の生まれは江戸の開幕よりも更に時代を遡り、未だ世の中にテクノロジーが存在しなかった時代である。長い時間を生きる姉の記憶はおぼろげで、遥か昔のことはあまり話してはくれない。しかし、それでも彼女が小さな村に生まれ、まだ天気を予測する機器も、予報士も、存在しなかった頃、飢饉に喘いで人魚の肉を食べたのは確かだった。それからというもの、姉は私と同様に首を落とされようとも、業火の中に放り込まれようとも、疫病が流行ろうとも、平癒と再生を繰り返し、肉体は決して老いることもない。
私は明治初期に彼女によって、血肉を分けて造られた男の一人であった。正確には彼女の肉を食った男である。流れる血潮は既に姉と同じものとなり、眼の色も、艶やかな髪質も、元の男の面影を少しばかり残したまま、彼女と同等のものを得た。戦争の後遺症を残した病を平癒させ、そうしてひとたび姉の従僕となった男である。
姉はひどく淋しがり屋で、孤独を嫌う人間だった。不死の命を持ちながら、死を恐れ、傷つくことにいつまでも慣れず、少し指を切っただけで少女のように泣きそうな顔をする。そのくせ、弟として扱う私には、「平気だから」と眉を寄せる。不可侵を強いていながらも、決して離れることを許さない。彼女はそんな女性だった。
無事に弟を受取人に手渡した私は、背を向けてリビングへと向かう姉の後ろをついていく。玄関から伸びた廊下の先にあるドアを捻ると、のったりとしたビル・エヴァンスの旋律が耳に届いてくる。長い時間を生きている姉にとって、音楽は麻薬のように手放せないものであるらしかった。
黒い髪を一つの簪でまとめあげ、決して日に焼けることのない白いうなじを見せつける姉が振り返る。
「青藤」と、挿した簪と同じ色の名前のつけられた私を呼ぶ。鈴のように美しい声は何百年と変わらずに、きっとそのまま世の中に残っていくのだろう。
促されるままに、私が姉へと近づくと彼女は細い輪郭を伴った指で、私のシャツに手をかけた。過ごす時間が長すぎて、彼女に作り替えられた筋張った肩が空気に触れても気にならない。なにせ、私たちは姉弟なのだから、今更羞恥に巻かれるなんてことはナンセンスだ。高かっただろうシャツを丁寧に脱がせてくれる姉が、そうして私の脇腹をゆるりと撫でた。
「痛かった?」と、短い言葉を吐き出しながら、白い指が上下に骨をなぞる。
「それなりには」
「この下には肝臓があるのよ。人間の大事な器官よ。代謝も解毒も担っているのに、なかなか悲鳴を上げてくれないの。沈黙の臓器って言うのよ」
「姉さん。また私がお使いに行ってる間に、一人でテレビを見ていたでしょう」
「ふふ、面白いのよ。普通に生きていたら知り得ないことが簡単に知れるの」
まるで新しい物事を覚えた子供のように姉は笑う。音楽と寄り添いながら、テレビを観て、私の帰りに合わせて料理でも作っていたのだろう。ダイニングキッチンの換気扇が静かに回って、室内の空気をかき混ぜている。
「手足や、肺や賢臓なんかは二つあるけれど、肝臓は一つしかない。不思議よね。全部二つあればいいのに」
ぐっと一番下の肋骨を持ち上げるように指を喰い込ませた姉が、ふと寂しげな顔をする。私に、弟を手放して寂しくないか、と訊ねた割に姉の方が心細くなっているのだ。口に出すと、彼女はすぐになんでもない顔をして、きっと私を拒むのだろうから、言葉にはしない。代わりに孤独感に苛まれる彼女の腰を引き寄せる。痛くないように、それでも姉の矜持を振りかざす隙間は与えずに、ぴったりと肌の感触を捧げてみせる。ほう、と小さな息遣いが指の代わりに私の胸元を撫でていく。
簪を一つ手放しただけで、それは売り物であるのだから後生大事に持っていることなんて出来るはずもないことを知りながら、姉は自身の作り出した弟達を愛でるのが趣味だった。
「昔誰か偉い人が言っていましたよ。損なわれると、特に不備の出る器官は二つあるんだって。手足や目や耳は、きっとそういう意味があるのでしょう」
気取ったように控えめに私の背に腕を回す姉に苦笑しながら、私は言った。
「そんなの不公平じゃない。頭や腸だって大事よ。心臓だって一つしかない。理不尽だわ。この下にある肝臓だって、二つあれば、もっと早くに悲鳴を上げられるかもしれないのに」
「私も、姉さんも、もう悲鳴を上げる必要なんてないでしょう?」
「それでも失いたくはないじゃない。全部対で、二つあればいいのに」
血肉を分け与えることの出来る不死の人魚がひどく悲しげに、そんなことを呟く。寂しくてたまらないのだ、と甘えているようにも思え、それでもきっと上手に甘やかしてやらなければ、彼女は片意地を張って、その華奢な肩を自身の細腕で抱くのだろう。
私は彼女の半身だ。血肉と分けた姉弟の弟である。姉は私にそれを望み、しかし言外では違う性質も求めている。時折思うのだ。暴くことの出来ない孤独に押し入ることが可能であるのが、赤の他人というのなら、私はあのまま無残に死ぬべきではなかったか。触れることの出来る身体で、彼女と同じ血と肉を持った容姿で、触れられる姉を失うことを考えるのは愚かではないか。それでも私は彼女を抱く。細い腰を抱いた腕に力を込めて、同じ名前を持つ簪を引き抜いてしまう。
対であるべきものは、限定的で良いはずだ。
艶やかな黒髪が彼女のうなじを隠すように滑り落ち、噛み付きたくなるような白い肌を余計に浮き立たせる。
「そうしたら……全てが対になったら、出来上がるのは、もうひとりの自分かもしれませんよ」
「私と同じもの」
姉と全てが同一のものはこの世に存在しない。望んでも、はじめて人魚を食らった彼女の遺伝子は他者に分け与えたところで、元の幻影を残す。まるで本当の姉と弟のように。全く同じものは生まれてこない。似ているだけの、異なる生物になる。
それは私が証明している。全てを与えても、きっと同じものなど出来はしないのだ。私たちは双子にはなれない。だから姉は矜持を保ち、私は不可侵の領域に容易く忍び込むことが出来ないのだ。
「そう。それは私で十分でしょう?」
「青藤は私の、最愛の半身だもの」
骨ばった私の手がふっくらとして滑りの良い姉の頬を撫でると、彼女はそっと目を閉じて、猫のように擦り寄うような仕草を見せた。愛おしいと語る眼差しこそが美しく艶やかで、私を絆して満たしていく。
口角が自然と釣り上げるのを自覚した。
「ええ。それに全部同じであったら、私は姉さんを上手に抱けない」
無防備に緩む口元に影を落とせば、きっと姉の機嫌は直るだろう。それが同じ血肉を分けた私と姉の不可侵を破る方法だ。
弱々しい姉を抱くことが、愛を囁く弟の唯一出来ることである。
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