道端の賛美歌
星野 驟雨
道端の賛美歌
口笛に似た響きが街路樹の枯れ葉を揺らしていく、張り詰め乾いた秋の宵。
広い歩道を多くの人が行き交う駅前、啾々たる喧噪がイヤホン越しに聞こえる。
明日は大学行って、明後日は休みだからバイト。
真新しさのない習慣で空っぽな頭を埋めていく。それ自体に意味はない。
指先の感覚が無くならないように外套のポケットに腕を突っ込んで歩く。
足早に疎らな人の合間をかき分けていく。
ふと、左前方にギターを背負い準備する女性の姿が見えた。
帰路の途中――時刻にして20時――俺は彼女から少し離れた場所に立ち止まる。
さも駅前で待ち合わせをしているような様相でスマホをいじる。
音量を下げ、彼女のギターの声が遠巻きに聞こえるようにしておく。
俺は音楽が好きだ。インディーズやまだ聞いたこともない曲を探すのが好きだ。
その可能性が集う場所の一つがここだった。
仄暗い道端に立つ彼女は、準備を終えると一つ深呼吸をした。
伏せた目が真っ直ぐ見据えられる。スポットライトなどない路上だからかもしれないが、炯々とした瞳がケモノのように見えた。
遠巻きに眺めれば、彼女は外灯を背負い、輪郭に淡い光を纏っている。その姿からどうしてか目を離せないでいた。
とうとう演奏が始まるようだ。路上のライブは最高の贅沢の一つだと思う。
それはこの場所が混沌としていて、立ち止まる人間の方が少ないからだ。誰も気にとめない場所でこそ味わえるものだってある。
イヤホンを外し、目を閉じる。
イントロ。明るいようでどこか悲しげな色が辺りに霧散する。群青にも似た響きは静かにその食指を伸ばし、夜を浸食していく。
彼女の声が響いてくる。人々の歩く音の底からたしかに聞こえる。憂いを帯びながら、それでも力強い声で、叙情的な歌詞を丁寧に歌い上げる。群青の中に一つ淡い黄色が落とされる。撹拌され内から外へ、檸檬、新緑、群青となぞる。
素人目にしても、自分の武器をとても理解している。そして、人を引き込む力があると思った。
たった一曲で魅せられてしまった。彼女の音楽に恋をしたのかもしれない。
稀に名曲しか作れないような天才がいるが、彼女はその部類かもしれない。
そう考えてしまうほど、恋は盲目だ。
だが、安易に声をかけることはしない。彼女のテンポがあって、その邪魔はしたくない。
彼女の周りに立ち止まる人間はおらず、代わりに人の波が二人の間に流れていた。
どれほど時間が経っただろう。ずっと歌い続けている。
彼女を見れば、息が上がっている。それでも歌うことをやめない。
歌っている時間だけが自由なものだとでも言うように。
その音楽は、冷え切った身体に隠された感傷を見抜いて、沁みていく。
恐らく次で幕引きだろう。もう少し聞いていたい気持ちもあった。
だが、今までのすべてが次の曲に飲み込まれてしまった。
ある意味では、悟りにも似たような感覚だった。
聴き馴染んだフレーズが聞こえてくる。
――『hallelujah』
彼女だけに耳を澄ませる。ジェフ・バックリィのカバーらしかった。
この曲の間だけは彼女を見ていようと思った。
道端の賛美歌にはこの曲がふさわしい。
侘しい秋の帳に微かな音色が解けて消える。
終始目を閉じて歌う彼女は、とても美しかった。
以前ここに君はいなかったというのに、ここから始まっていた事はわかる。
月の光を呼び寄せるかのように、時の流れを感じる。
――もう知り合うこともないだろう。
悲しいことではなくて、それが希望に満ちているものだと信じて。
その世界が静かに閉じていくのを見届けて、彼女の元に向かう。
言葉など交わさずに、すべきことをして立ち去った。
貯金も電子マネーもあるから何の問題も無いだろう。
イヤホンを耳に挿し、レナード・コーエンの『hallelujah』を流す。
どれだけ時間がかかろうとも、この歌を歌った人がいたことを忘れはしない。
そう、人々のよく知るバージョンに割愛された、最後の1バースを歌う君だから。
道端の賛美歌 星野 驟雨 @Tetsu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます