嬰児殺し

三津凛

第1話

冨吉は母を待っていた。

だが一向に母は戻ってこなかった。どこもかしこも平らになって、寂しいかぎりであった。冨吉に兄弟はいない。父は海で死んだ。父の小さな写真を、母は一等大切にしていた。その写真を家に取りに帰ったまま、母とはそれきりだった。

そのうちひどい臭いがするようになった。防火水槽には大きな炭が2つ、ごろんと収まっていた。それが死んだ人だと気付いたのは、あちこちで鉄くずを集めているおじさんに会ってからだ。

冨吉はくうくう鳴る腹を押さえて、蟻のように歩くおじさんの後を珍しくついて行った。おじさんは鼻に火傷をしていた。そこだけ皮がめくれて、妙に綺麗な鮮やかな色になっている。

「おう、坊も手伝うか。駄賃くらいはやるぞ」

「ほんとう?」

冨吉はよく意味も分からず頷いた。それは街中にある瓦礫の中から、鉄くずだけを集める仕事だった。

「こいつを売れば金になるぞ」

おじさんは鉄を見ればなんでも剥ぎ取った。溶けた線路の欠けらなんかもしまいにはリヤカーに積んでしまう。冨吉は面白くて一日中鉄くずを集めた。陽が落ちる頃にはリヤカーには鉄の山ができた。

それで、冨吉はしつこく駄賃を迫った。爪は割れて、両手は血だらけになった。足も棒のように疲れてもう歩けない。

「ふざけたことをぬかすな、この孤児が」

落ちてゆく陽を背にして、おじさんはただの真っ黒な存在になった。冨吉がなおもしつこく腕に縋ると、げんこを打たれた。

「あんまりしつこいと、こいつで頭を割るぞ!」

おじさんは冨吉の拾った鉄棒を構える。冨吉は奇声をあげて鉄棒を奪おうとした。おじさんは躊躇うことなく、冨吉の頭にそれを振り下ろした。

冨吉はたちまちぺしゃんこになって、うずくまった。おじさんは飯さえ食べさせずに、絞るだけ絞って鉄を独り占めにした。

うまいことやられたと冨吉が気づいた頃には、もうあたりは真っ暗だった。

あたりにはもう誰もいない。野良犬さえいなかった。



しだいに街は復旧して、あの鉄くずもあらかた回収された。郵便局の自転車が走るようになって、線路も段々直されていった。まだ電車は走ってない。

冨吉は待っていた。だが母は一向に戻ってこない。冨吉はたまに下痢をして、その度にズボンを駄目にした。近所の子どもに「ひどい臭いがする」と罵られた。冨吉はズボンが駄目になると、その子どもの干してある服を盗んだ。ちょうど畑のある家である。ずんずん畑に押し入って、まだ痩せた芋なんか掘ってそのまま齧った。

待てども暮らせども、冨吉を迎えに来る人はいなかった。



そのうち冨吉は復興された駅で寝泊まりするようになった。駅は意外なほど温かいし、たまに駅員が味噌汁などくれることがあった。それに、冨吉と同じように親を待つ子どもが何人か住み着いていた。

冨吉はしだいに行き交う人々の中に母を探すようになった。それらしい人はいるけれど、どの人も決め手にかける。


母ちゃんはもう少し痩せていた。

あぁ、あんなに小さくはない。

惜しいが、母ちゃんにあんな色の濃ゆくて大きな黒子はなかったはずだ。

髪が少し長過ぎる!

今度は短過ぎだ!


それにも絶望すると今度は行き交う電車に期待をかけた。

あの上り電車にこそ母ちゃんが乗っていて、迎えに来るに違いない。

あの下り電車こそ絶対だ。

そんな風に冨吉は来る日も来る日も人々や電車を眺めていた。

だが一向に、母ちゃんはやって来なかった。



冨吉はある日ふらりとかつて家のあったところへ寄ってみた。

そこは平らでなんにもなかった。瓦礫と土塊がならして置いてあるだけだった。冨吉は急に怖くなって駆け出した。まるで物言わぬ墓場に来てしまったような、恐ろしさだった。

それから冨吉は来る日も来る日も、今度はかつて家が建っていた場所に通った。他のことはなんにもしない。頭には10円禿ができて、みっともなかった。おまけに垢と瘡蓋(かさぶた)だらけで、冨吉は駅員たちから特に憐れまれた。それが他の子は気に入らないらしい。よく殴られて蹴られた。駅の階段を上り下りする大人たちは見て見ぬ振りをする。そればかりが、邪険そうに何人かは転がった冨吉を踏んで行く。

駅は段々居心地が悪くなって来た。腹の減った時だけ、駅員室の前に座っていようと冨吉は決めた。こうして家の敷地で待っていた方が、母ちゃんも見つけやすいかもしれない。

だがしばらく経ったある日、平らなはずの敷地に柱が建てられていた。冨吉は忙しそうに動く職人に「そこは俺の家だ」と怒鳴った。

浅黒くて毛深い彼は負けないくらい太い声で怒鳴り返して来た。

「俺の家もヘチマもあるか!ここら一体は持ち主が全員死んでどうしようもないんだ!このまま新しく家を建てなきゃ広島は死んだままだ」

「でも母ちゃんが帰って来るときに家がないんじゃあ、泣くじゃないかこの野郎」

すると職人は少し柔らかい顔になった。

「母ちゃんとはいつ別れたんだ?父ちゃんはいるのか?」

「父ちゃんは海で死んだ」

「海軍か?」

「海軍だ。帽子を被った写真が仏壇にあった。母ちゃんはそれを空襲の時に取りに帰ったんだ。今度の空襲は普通じゃねえから、家ごと吹っ飛ばされるかもしれないって」

「そらから母ちゃんは知らないのか」

「知らねえ」

職人は黙って釘を打った。

「坊はもう帰んな。ここに母ちゃんは来ねえ」

「母ちゃんに会ったのか」

「会っちゃあいねえが」

職人は面倒そうに冨吉を見た。

それがまんま、あの駅の階段で自分を踏んでいく人々の顔で冨吉は爆発した。揃えられた釘を全部ぶちまけて、駆け出した。背中から熊のような恐ろしい怒鳴り声が聞こえてきた。



ついには家の敷地からも追い出されて、冨吉は闇市近くの空き地で暮らすようになった。冨吉と同じような子どもがわんさかいる。大人も子どもも貧しくて痩せていた。

もう母ちゃんのことは諦めていた。冨吉はそばを流れるどぶ川に足を浸してぼんやりとしていた。色々なものが流れて来る。缶に空瓶、布切れに糞尿。そのただなかを、何か違うものが漂っていた。

冨吉は目を見開いて立ち上がった。どぶ川はごく浅い。それでもガラス片で足裏を少し切ってしまった。

まだ臍の緒がついた赤子が腹を天に向けてぷかぷかと浮きながら流れている。冨吉はなにかすごい発見をした気持ちでどぶ川をかき分けて、赤子を拾った。

警官だ警官だ。警官殿はどこだ。

冨吉は自分でも可笑しなくらい興奮して駆け回った。



「警官殿!」

冨吉は誇らしげに臍の緒をぶら下げた赤子を警官の前に掲げた。それはまるで、見えない神に捧げものをするような恭しささえ、あった。

だが警官の言葉は冨吉を打ちのめすものであった。

「今年でもう15人目だ」

彼は半分うんざりして、冨吉を睨んだ。酷い臭いのする肉塊である。赤子は半分泥に塗れて、後の半分はすでに腐っていた。警官はずだ袋に赤子をそのまま放り込んで、冨吉を見た。

「身元はわからないだろうよ、母親も名乗り出るまい」

それだけ言うと、自分の仕事は終わったとばかりに彼は踵を返した。赤子はこのまま埋められるのだろうか。

冨吉はまだ腐った臭いのする両手を嗅いだ。吐き気がした。だが急に泣きたくなって、大声で泣いた。

だが、誰も来なかった。後ろの方でなにか怒鳴る声がする。でも気にならなかった。もっと余計に泣けと言われているような気さえした。

だから冨吉は余計に泣いた。

臍の緒がついたままの赤子。鼻も喉も詰まったまま、汚水の中に突っ込まれただろう。泣くこともできずに。


母親は鬼だ畜生だ。


冨吉は家に父ちゃんの写真を取りに帰ったまま、行方知れずになった母ちゃんのことを思い出した。


母ちゃんは鬼だ畜生だ。


泣き続けながら、冨吉は考えた。

赤子が可哀想だ。

俺も可哀想だ。

赤子を入れたずだ袋だけが、小さく膨らんでそこにあった。冨吉は泣けなかった赤子の代わりに、いつまでもいつまでも泣き続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

嬰児殺し 三津凛 @mitsurin12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る