透明少女

戸松秋茄子

本編

 あたしがいなくなったって騒ぎになったのは、梅雨時のある夕方のことだった。


 夕方の六時過ぎだったかな。弟が帰ってきて、お母さんに「お姉ちゃんは」って訊いたの。少しぼんやりしたところのあるお母さんはそのときになってはじめてあたしの姿が見えないことに気づいた。


「あら、遅いわね」


 そう言ったときのお母さんはまだ事態をそこまで深刻に受け止めていなかったと思う。てんぷらを鍋から拾う手も休めずに応答していたもの。けれど、それから十分、二十分と経ってもわたしが返ってこないとなるとだんだん不安になってきた。お母さんはそこでようやく鍋の火を止めて、あたしの同級生の家に電話をかけはじめた。本格的に騒ぎになるのはお父さんが帰ってきてから。


「万一のこともある。警察に通報しよう」


 あんな頼もしいお父さんを見るのははじめてだった。でも、おかしな話だよね。あたしはずっと家にいて、「ここにいるよー」ってアピールしてたのに。


 本当に、どうしてああなっちゃったんだろ。


 お父さんがとうとう一一〇番をプッシュし終えたとき、あたしはこれが事実なんだと受け止めた。いたずらでもなんでもない。あたしは透明人間になっちゃったんだって。



 あたしね、雨のせいだと思うんだ。社会科の授業で習ったから知ってるよ。酸性雨って銅像を溶かしちゃうんでしょ。それに、ほら、中国から化学物質が飛んでくるのも問題になってるし。そういうのが交じり合って、化学反応を起こしたんだと思う。それであたしの体を透明にしちゃったんだ。


 まずいなあとは思ったんだよね。うちのお母さん、健康にうるさい方だから雨なんて絶対に浴びるな、にわか雨に打たれたら、雨宿りして雨が止むのを待てなんて言うの。あたしはそれを思いっきり破っちゃったってわけ。でも、あの状況ならしょうがないと思うんだよね。夕立は本当に急だったし、すごい勢いだったんだもん。一瞬で体中が濡れちゃった。そうなるともうやけっぱちよね。友達のサワちゃんと一緒になって大笑いしながら雨の中を歩いた。あたしが透明になったのはその翌日のこと。


 他に何かなかったか? そう言われても雨に打たれた以外、特別なことがあったわけじゃないんだよね。あの日、あたしは小学五年生で、いつもどおり学校に行って、いつもどおり漢字のテストで満点を取って、いつもどおりうさぎの世話をした。いつもと違ったことがあったとすれば、サワちゃんが学校をお休みしてたことくらいかな。ちょっととろくてどんくさいとこがあるけど、あたしの大親友。家も近くで、学校への登下校はいつも一緒だった。


 その日、いつもどおりサワちゃんの家に迎えに行ったんだけど、おばさんに風邪で休むから先生によろしくって言われちゃった。すぐにあちゃーと思ったよ。さっきも言ったけど、あたしとサワちゃんは夕立に打たれてずぶ濡れになってたから。風邪引いたらどうする? なんてお互いに話したとこだった。それがあたし一人だけ元気ぴんぴんだっていうんだから申し訳なかったよ。まあ、でもサワちゃんも漢字のテストは嫌がってたし、これでいいのかな。


 なにせ八年も前の話だからあたしもよく覚えてないの。学校からは一人で帰ったはずだけど、その間のことはまったく記憶に残ってない。どこかに寄り道したのか、それともまっすぐ家に帰ったのか。その頃、あたしは夕方からはじまるちょっとむかしのドラマに夢中になってたから、寄り道したとしてもそう長い時間はかけなかったはずなんだけど。精々、サワちゃんの家にお見舞いに行くくらいかな。


 でも、変だよね。あたしはけっきょくドラマを見なかった。その前の話で喧嘩別れした男女がけっきょく元鞘に戻ったのかどうかもわからない。もしかしたら、その頃になってようやく風邪の症状が出てきたのかもね。ほら、年をとると筋肉痛も時間差を置いて出てくるって言うでしょ。あたしはサワちゃんより半年も生まれるのが早かったから、その分、発症が遅れたのかななんて考えたんだ。もっとも、あたしを襲った症状は風邪なんてかわいいもんじゃなかったわけだけど。


 最初に異変を感じたのは、お母さんが夕食の準備をしはじめてから。さっきも言ったけど、友達の家から帰って来た弟が「お姉ちゃんは?」って尋ねたの。天ぷらを揚げてたお母さんは「そういえば遅いわね」って。いや、何のコントよって思ったよ。あたし、思わず「ここ、ここ」って自分を指差してさ、だけど、お母さんも弟もまるで気づかないの。無視されてるのかと思ってあたし頭にきちゃって、弟の頭を軽くチョップしたの。だけど、まあ、あいつときたら全然気にした風じゃないのね。ふだん、あたしがそんなことをしたら「姉ちゃんが暴力振るった」って大騒ぎしてお母さんに泣きつくくせに。そこまで徹底して姉を無視するのかという呆れると同時に、役者として腕を上げたもんねという感嘆したな。あたし、それでおもしろくなって弟の頭を太鼓みたいにぽこぽこしちゃった。だけど、やっぱりノーリアクション。こうなるとさすがのあたしも焦るよね。


「もしもーし」


 そう呼びかけたところでお母さんも弟もまるで反応しない。手を振って、踊って、これをやったら爆笑必至という変顔も披露したんだけどまるで甲斐なし。暖簾に腕押し、糠に釘ってやつ? あたしもだんだん疲れてきて、「もういい」と部屋に引っ込むことにした。この時点では、自分が透明になったなんて思いもしなかった。だってそうでしょ。透明人間が実在するなんて考えるよりは、二人が申し合わせてあたしを無視してるんだって考える方がよっぽどたやすいもの。


 あたしはお父さんが帰ってくるのを待った。家長としてのお父さんを頼りにしたわけじゃないよ? むしろ、うちのお父さんは髪が薄くなるにつれて存在感までもが薄くなっちゃった人だから。じゃあ、何をアテにしたかって言うと、お父さんの不器用さね。お母さんと弟の連携がいくら強力でもお父さんを抱きこんでまで維持できるとは思わなかった。


 それがどう? お父さんときたら帰って来てもあたしの方を見向きもしない。お母さんたちの話を聞いて心配そうにするだけ。いつの間にあんなに演技が上手になったんだろう。あたしはそう思った。


「悪ふざけもいい加減にしてよ」


 あたし、言ったけど、両親はとうとう警察に電話することを検討しはじめてね。そこまでやるかってびっくりしたけど、それを聞いて、ああ、これでこのいたずらも終わるんだとも思った。だって、そうでしょ? 「あたしがまだ帰ってない」という演技を続けるんだとしたら、いずれ警察に通報するポーズが必要なのは当然だけれど、それを実行に移すとは思えない。警察に通報しなければ逆に不自然だし、実行に移せば後々警察の人に怒られるだろうし、あの三人はにっちもさっちも行かない状況に立たされたってわけ。


「ほらほら、通報してごらんよ」


 挑発するように言ったっけ。だってさ、実際に両親がそんなことすると思わなかったもの。


 お父さん、ダイヤルをプッシュする指が震えてたっけ。おお、迫真の演技だってあたし感心したね。さあ、一、一、と押してそこで止めるんでしょ。こっちを振り向いて、みんなで笑うんでしょって。けれど、お父さんの指は止まらなかった。〇のボタンが押されたとき、あたしはとうとう自分が本当の透明人間になってしまったのかも知れないという可能性を検討しはじめた。



 その後に起こったことを、あたしは呆然と眺めていることしかできなかった。


 お父さんはガレージで眠ってたスクーターを引っ張り出して、夜の街に繰り出して行った。あたしの立ち寄りそうな場所でスクーターを止めては、あたしの名前を呼んで回った。お母さんは思いつくかぎりの番号に電話をかけ、あたしを見ていないか、見かけたら電話を入れてくれってお願いしてた。


「あたしはここだよ」


 そう言ったところで誰も気に留めてくれなかった。



 あれからもう八年が経ったんだ。あれはいったいなんだったんだろう。ねえ、お兄さん。お兄さんにはなんであたしの姿が見えるんだろう。どうしてお兄さんは泣いているの? え、わからないよ。お兄さんが何を言ってるのか全然わからない。お兄さんがあたしを殺した? 馬鹿言っちゃいけないよ。あたしは透明になっただけ。いつかきっと元に戻って家族のところに帰るの。そうだよ。きっとそう。だからあたし、家族が引っ越してからもずっとこの家で待ち続けてるの。


 だから嘘って言ってよ。お兄さん。

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