人権国家の黄昏

勇今砂英

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 この国は異常だ。異常だと断言できるのはそれに対して正常な感覚と感性が私という人格の中に存在して初めて断じることができるのであるが、しかし私は今まで知っていた正常が、実はそうではなかったのだということを知ることで、初めてこの国が異常であると認識するに至ったのだ。

 私の仕事はまさにこの国の秩序を司る職業だ。国民を常に監視し、この国で起きてはいけないことを未然に防ぎ、また起こってしまったことについては後処理を行わなければならない。正常な国家では警察という概念が一番近いかも知れないが、私の国ではこの概念を均衡機関と呼ぶ。

 私がこの国家=星の秩序がいかに異常であるかを知るに至った経緯だが、それについては話を今から少し前のある冬の朝まで巻き戻さねばならない。その日私はいつものように集合住宅の自室で朝起きると鏡の前で歯を磨き、メディアモニタから流れるニュースに耳を傾けながら朝食の準備をしていると内耳スピーカーに通信が入った。45番街で殺人が起こったらしい。

 人が殺害されるなどという事件は私の記憶に照らしても十数年に一度あるかないかの緊急事態であった。可及的速やかに事件に対処しなくてはならない為、私は急いで身支度を整え、相棒のジニーに連絡を入れると現場に急行した。

 その日はまだ辺りは薄暗く、45番街はいつものその時刻の風景よりはまだ幾分静まり返っていた。古めかしい茶色の同じ形をしたビルが延々と立ち並んだ通りの一角、洋服店の前の石畳に均衡官たちの人だかりができていた。

 私が到着した時には既に遺体は処理された後だった。同じく私より早くついていたジニーは私に洋服店の隣のカフェで買ってきたコーヒーを勧めてくれたので二人でコーヒーをすすりながら事件の状況について尋ねた。

「被害者は?」

「被害者は32歳。ここから2ブロック先の集合住宅D437の住人のようだ。推定死亡時刻は午前3時。腹部を鋭利な刃物でひと刺し。現場に凶器と見られるものは残っってなかった。」

「そうか。それで目撃者は?」

「なにせ真夜中だ。おそらく犯行現場を目撃した者はいないだろうよ。」

「そうか。それでジニー。この事件だが連続性はあると思うか?」

「そこがなんとも言えないな。学習ケース24に似ているとは思うんだが、そうなれば衝動的犯行で連続性は無いと見て良いはずだが、しかしケース405にも類似性が認められる。計画的犯行の可能性だ。そうなれば少し後処理が厄介になるな。」

「そうか。どちらにせよ修正放送が入るのは間違いなさそうだな。」

「ああ。時間的に考えて半径200キロ規模の修正放送だろう。」


 そのような会話をジニーとした後、我々は清掃班に現場処理を任せ、捜査に移った。通常の手続きの場合、修正放送は申請された日の夜8時に一斉に配信される。それは全国放送の時間に合わせて行われる為だ。この国の国民は平日の夜8時には必ず自宅のメディアモニタで全国放送を受信しなければならない。外出は原則禁止。外出先での受信の場合は予め申請を通信した上で自宅のメディアモニタから全国放送を遠隔受信しなければならないと行った具合に厳重な規制が敷かれている。よって修正放送は指定範囲の住民にあまねく配信されることとなるのだが、我々はその夜8時までに捜査を終了しなければならない。時計を見ると朝の8時をすぎた所であったので残された時間は12時間だ。


 先に結論から言ってしまえば捜査と言っても犯人を特定する行為では無い。なぜならこの事件は修正放送が入ればその存在自体が無かったことになるからだ。犯人も犯行の記憶を無くすし、殺害された被害者の家族や友人も、彼は突然死した、などの修正シナリオに記憶を書き換えられる。つまり修正脚本がなるべく修正対象の記憶に矛盾を生まないようにする為の情報収集をするのがこの捜査の主たる目的だ。修正放送さえ流れてしまえば我々の仕事は終了だ。


 私とジニーは手分けして聞き込みを開始した。現場の洋服店やその上にある住宅にはジニーが、被害者の住居であるD437集合住宅には私が向かった。D区画の大通りから路地に入り裏道をしばらく歩くと437集合住宅にたどり着く。もう日も明けた筈だがこの辺りは未だに薄暗く湿った冷たい空気が漂っている。私はまず被害者の居室の周辺住民から聞き込みを始めることにした。


 被害者の居室は12階建ての集合住宅の8階にある。同階の住民からは情報は得られず、9階の住民も、留守か、特に思い当たるような出来事は無いと言われるばかりであった。私はここではあまり有力な情報は得られないだろうと考えたが、念のために被害者の居室の真下の住人に当たってみることにした。

 7階の通路は向かいの集合住宅の影になっており輪をかけて薄暗かった。私は715と書かれた居室のドアをノックした。

「すいません。均衡局の者です。どなたかいらっしゃいませんか?」

すると、奥から甲高い声が聞こえた。

「はぁい。均衡官の方がどういった御用なの?」

「はい。実は昨夜この真上の部屋の住人がとある事件に巻き込まれまして。」

すると住人は目を丸くした。

「事件?」

「ええ。その事で何か心当たりがあればお伺いしたいのですが。」

そう言うと住人は少し考えてから私の方を見てこう言った。

「立ち話もなんですから、中へどうぞ。コーヒーをお入れします。」

私はあまり長居したくもなかったが、何か思い当たる節がありそうに感じたので促されるまま居室に入る事にした。


中は生活感をあまり感じさせない殺風景な部屋だった。案内されたテーブルの席につくと、あまり使われてなさそうな真新しい機械でコーヒーを淹れている住人に私は尋ねた。

「お話の前に、あなたのお名前を聞かせてもらえますか。」

「リズといいます。」

「いえ、できれば本名でお願いします。書類上必要でして。」

そう告げると少し私の方を見て顔をしかめたが渋々答えた。この国では本名は初対面の人に語るものではない。

「『LZG1086-473=KATE』です。」

私は持参した用紙にその名前を記載した。

「ご協力ありがとうございます。それで、昨日のことについて何かご存知ですか?」

そう聞くとリズはコーヒーカップをテーブルに二つ並べながら質問に答えた。

「はい。昨日の深夜2時ぐらいだったかしら。上の階から大きな声が聞こえて。喧嘩しているような声でした。でも一人分の声しか聞こえませんでしたからきっと音声通話だったんじゃないかと思います。」

私は紙の余白にペンを走らせながら喋った。

「それは有力な情報ですね。それから?」

「はい。その後しばらくして声は聞こえなくなりました。寝たのだと思いましたけど何かに巻き込まれたんですよね?それじゃあその後出かけたのかしら。」

「そうなりますね。」私はペンをさらに走らせる。

「それじゃあ」とリズが口を開くと意外なことを口走った。

「その事件、修正されちゃうのかしら。」

私はぎょっとした。本来一般市民は修正放送の事など知る由もない秘匿事項だ。

「今なんと仰いました?」

リズはにんまりして言った。

「修正放送。あなたたち役人だけがなんでも知ってると思ったら大間違いよ。」

私が未だ戸惑っているとリズはこう続けた。

「この国は一見平和な理想国家、ということになってるけれどもそんなのは全て嘘っぱち。その実全ての国民に機械を埋め込んで記憶を管理してる。どんな事件が起こってもそれも夕飯の時間になれば綺麗さっぱりもみ消されちゃう。これじゃあ国民が哀れでしょうがないわ。」

私はこのリズという住人がなぜ修正放送の事実を知っているのかわからなかったが、これはこのまま放置できない事態であると認識した。名前は既に抑えてあるので、この事を上に報告さえすればこの住人の知り得る情報も修正可能だ。とにかくこの住人からできるだけ多くの情報を聞き出さなければならないと思った。

「おい、お前、なぜそんな事を知っている?」私はわざと語気を強めた。

「あら、怖いのね。そんなに怒るんだから図星なのね。」

私はさらに苛立ったがリズはさらに続けた。

「私、本当は知ってるのよ。わざと乗っかってあげてるの。」

「なんだと?何が言いたい?」

「この事件、殺人事件でしょ。上の人があの後どこに行ったのか。C区画の45番街

でしょ。」

「何?何がどうなってる?もしかして、お前が犯人なのか!?」

そう言うとリズは大声で笑い始めた。

「あははは。滑稽ね。あなた、本当に滑稽だわ。」

あまりに無礼な態度は私は腹を立てた。

「なんだ貴様!」私が叫ぶとリズはこう言った。

「あなたね、均衡官の記憶は修正されないと思っているでしょ?それがまず大間違い。」

「そんな訳ないだろう!私たちは特権として修正されないようになっている。そもそも修正の事実自体が国民には秘匿されているはずだ!何が間違っている!」

そう喚くとリズは腹を抱えて笑い続けた。

「あはは。はあはあ。あなた、滑稽を通り越して哀れだわ。あなた、上に遊ばれてるのよ。いいわ教えてあげる。あなたは均衡官でもなんでもない。なんなら正義の味方でもなんでもない。ただの人殺しよ。」

「何を訳のわからない事を。これ以上の侮辱は許さんぞ。」

「だからね、あなたなのよ。この事件の犯人。あなた修正されちゃったのよ。」

急に真顔に戻ったリズが冷たくそう言い放った。私はその言葉の意味を解釈するのに10秒ほど沈黙してしまった。

「なんだって?それは、そんな筈はない。」

私の顔から急速に血が引いていくのを感じた。しかし私の中に渦巻いていた怒りは冷める事がなく、私の両方の拳は今まで生きてきた中で経験した事がないほど強く固く握り締められ顔面とは対照的に大量の血液が滾っていた。

 そしてリズが私の今にも爆発しそうな感情に火をつける一言を放った。

「あなた、何も知らないのね。」

信じられないくらい冷たい瞳だった。その瞬間私は激情を止める全ての手段を失った。


 全身の力が両方の手のひらに込められている。リズが私の手の甲を引っ掻いているが何も感じない。うめき声も耳には届かない。リズの体は宙に浮き、足は虚しく私の足を蹴飛ばしている。ふざけた事を言いやがって。これは報いだ。私を侮辱した報いだ。何も知らないはずなどない。私は均衡官だぞ。それを一国民が馬鹿にしやがって。後悔するがいい。私はなお一層の力を込めてリズの首を絞め続けた。やがてリズは動かなくなった。


 リズを床に放り投げたあと私は荒げた呼吸を懸命に整えた。そして椅子に座りなおし一呼吸置いてから残ったコーヒーを飲み干した。それからもう一度床に転がったリズの死体に目をやると私は次第に冷静さを取り戻し自分のしでかしてしまった事に動揺し始めた。

 それから1時間ほどが過ぎ、少し冷静さを取り戻した私はジニーに連絡を入れた。するとジニーは10分ほどで私のいるリズの部屋へとやってきてくれた。

「おい、何があったんだ?・・・うっこりゃあ酷いな。」

ジニーは思わず自分の口を手で覆った。

「なあジニー。おれ人殺しなのか?」

「何を言ってるんだ?お前が殺したんだろう?そう言ってたじゃないか。」

「ああ。これのことじゃなくて。こいつが言っていたんだよ。今朝の事件も俺がやったんだって。」

「おいおい。頭を冷やせよ相棒。おまえが現場に来た時にはもう死体も回収されていたじゃないか。まあいい。まずは事の顛末を上に報告するぞ。それから、これは一応形式だから気にするな。」

そう言うとジニーは私の腕に手錠をかけた。私はおとなしく従って自分の職場へと連行された。


 茶色い建物ばかりが立ち並ぶ街並みの中でひとつだけ真っ白な外壁に覆われた均衡局の建物は、普段通い慣れたはずの建物であるが、この時ばかりはなぜか異様に大きく、そしてひたすら冷え切った空気を放っているように感じられた。

 ジニーに促されるまま私は取調室の椅子に座った。机を挟んで向かいの席にジニーが座る。するとさっきまで温和な表情だったジニーの表情が一変し私を鋭い目で睨みつけた。

「お前、均衡官が記憶の修正を受けないという法律はもちろん知っているだろう?そのリズとかいうのにどんなことを唆されたか知らないが、均衡官が人を殺めるなど前代未聞のあるまじき行為だぞ。」

「ああ、わかっている。自分でもどうかしていたよ。ただ、あの時は私の事を何も知らないと嘲られた事で異常な程興奮してしまったんだ。今は反省している。」

するとジニーはため息をついた。

「そういう問題じゃあない。お前、さっきここに来る途中、この出来事も修正できないかと聞いて来たな。それは法律違反だ。それこそ少なくとも俺とお前、二人の記憶を修正することになるだろう?」

「いや、しかし今まで私たちは数々の事件の顛末を知りながらそれが修正されても胸の内にしまってきたじゃないか。それと同じで今回も私とお前はこの私がしてしまった事を黙っていればいい。そしてあの集合住宅の誰かが事件に気づいた時、捜査をしてその通報者らを修正すればいつも通りだ。」

自分でも恐ろしい事を言っていると思ったが自分の考えを喋り続ける口を止める事は出来なかった。ジニーは私を憐れむような目になっていた。

「俺たちの仕事は修正が効かないからこそ、自らが犯罪を犯す事など許されない。当たり前のことだ。悪いが、お前は裁かれる事になる。」

 私はまたしても気が動転した。こいつは何を言っている?私を独房に放り込むと言うのか。信用していた相棒が私を裏切ろうとしている。これは許されざる事だ。私の中に再び激しい怒りが渦巻き始めていた。どうする?ここでこいつを始末するのか?さすがにこの建物の中ではまずい。なんとかして二人で外に出なければ。しかし、そう思い始めたところで私ははっとした。「また殺すのか?」そう心の中で声が聞こえた気がした。その瞬間自分はなんという事を考えていたのかと身が震えだした。と、その時また心の中で声が聞こえた。


『どうだ?恐ろしかろう?』


 気がつくと私はベッドの上で寝かされていた。頭には何やらヘルメットのようなものが被せられている。触ってみるとそのヘルメットからは無数の電線が伸びているようだった。部屋が急に明るくなり、私は辺りを見回した。真っ白な部屋だった。天地がわからなくなるほど眩しかった。天井も、床も、壁もベッドも私に着せられていた服も全てが真っ白だった。

「目覚めはどうかね?」

先ほど心の中で聞いた声が聞こえて身を起こした私が振り返ると、壁の一部がスライドして外から一人の白服の人物が入って来た。見た事のない人物だった。

「やあ、はじめまして。」白服は私に挨拶するとこう続けた。

「かなり衝撃的な内容だっただろう?まだ目覚めたばかりで心の整理がついていないかもしれないね。念のために説明しておこう。」

私が口をあんぐり開けたまま白服を見つめていると、さらに彼はこう続けた。

「いいかい。これは均衡局の新しい試みの一環である体験プログラムなんだよ。」

「体験・・・プログラム?」

「そう。我々均衡局が掲げる新たな治安維持システムの構築のために君には身を持って感情の危険性を体験してもらったんだ。」

「感情の危険性?すいません。まだいまいちあなたが何を言っているのかわかりません。」

「無理もない。皆そうなんだよ。目覚めたすぐは何もわからない。いいから聞いておくれ。」白服は部屋を歩き回りながら演説のように喋り出した。

「君が体験したように、時として治安を守る均衡官でさえも一時的な感情には逆らえない事がある。無論性格などにもよるとは思うが、そういった個人差は治安にとっては大きなマイナスなのだよ。わかるかい?そこでだ。我々は市民に対する記憶の修正の他に、君たち均衡官に対して感情の修正を行う事を決議したのだよ。」

 私が依然黙っていると白服が歩み寄り、ベッドのへりに手をついて私の目前まで迫ってきてこう言った。

「もちろん承諾してくれるよね?危険性は十分わかっただろう?」

そう言われると私は戸惑った。そもそも感情の修正というものがどういったものかも解らなかった。

「あの、その感情の修正というのは、どういった物なのですか?それを受けると私はどうなるんです?」

すると彼は私から顔を逸らさないままそれに応えた。

「何も心配することは無い。今まで通りの生活は保障するよ。ただ、君がプログラムで体験したような激しい怒りや殺意といった不合理な感情は持たなくて済むようになるだけだ。あとはこれまでと何も変わらないよ。」

本当にそうだろうか?私は疑念を持ったが、彼の次の言葉でその疑問を口にするのをやめた。

「君が承諾しないと困る。今から変わりの被験者を募らなければならなくなるし、プログラムの顛末と同じで君には独房に入ってもらうことになる。」

つまり私に拒否権は無いということだ。それでも返答に困っていると白服はさらに言った。

「君、そろそろ頭がはっきりして来ただろう?君がなぜ多くの均衡官の中から抜擢されたかわからないか?」

「私の、性格ですか?」

「そうだ!君のその感情の暴走傾向だ。プログラムの例では多少おおげさに演出してしまったが、君は普段から仲間内での喧嘩が絶えない。プライドが妙に高い所があって、少しでも馬鹿にされたと感じればすぐに頭に血がのぼるだろう?その性格のままではやはり業務に支障をきたすとの上の判断もあっての事なのだよ。」

 私は確かにこの白服の言うように気が短い所があり同僚とも何度かいざこざを起こし始末書を提出した事がある。つまり日頃の行いのツケが回って来たという事か。私がまだ黙っていると白服は最後の念押しをして来た。

「私は君を独房に入れたくは無い。」


 私は漸く感情の修正処置を受けることを承諾し、念書にサインをした。白服の話ではこの処置もこのままこの部屋で行われるらしい。私は再びベッドに寝かされ、部屋の灯が落とされた。


 感情の修正処置を受けてからまた私は通常の生活に戻され、均衡官としても職務を続けることができた。そして政府の取り組みに協力した報酬として今までより一割ほどの昇給がもたらされた。私の生活は平穏そのもので、職場の仲間とも、何を言われてもにこやかな顔で談笑できるようになっていた。ただ、以前はとても可笑しいと思い腹を抱えて笑っていた同僚の冗談も、まるで面白みが感じられなくなっていた。

 これでよかったのだろうか。そもそも拒否権は無かったが人間として大事なものを失った気がする。そんな思いを抱えながら過ごしていたある日、D区画で傷害事件が発生した。その捜査に当たるべく現場に赴いた私は、体験プログラムの時に訪れた437集合住宅の前を通りがかった。

 現場からは少し離れていたが、どうしても気になった。あのリズという住人のいた部屋。あそこはどうなっているのか。あの中にはリズが今も住んでいるのか?そう考えだすと私の足は自然と集合住宅の中へと進められていた。

 古めかしい真っ赤なビルが立ち並ぶ一角にその集合住宅はある。7階までの階段を登ると、プログラムの記憶と違わずそこは向かいのビルの陰となっており、昼間でも真っ暗だった。私は715と書かれたドアの前に立ち、ノックした。

「すいません。均衡局の者です。どなたかいらっしゃいませんか。」

するとしばらくしてドアが開き、中から老人が出てきた。

「ああ、均衡局の。待っておったよ。さあ、中に入りなさい。」

老人は私がここに来るのを知っているかのようだった。以前の私ならば狼狽えるところだが、今の私はそれに動じず微笑みを浮かべたまま彼の部屋へと入っていった。

 相変わらず殺風景な部屋だった。あまり生活感を感じない。老人は私を席に着かせると、かなり古びたコーヒーマシンでコーヒーを淹れてくれた。

 老人は向かいの席に着くと一息ついてから私に語りかけた。

「さあ、何から話そうかの。」

私は尋ねる。

「あなたは一体誰なのです?」

「わしは、この世界を知る者だよ。この世界はとにかく異常だ。」

「異常、と言いますと?」

「我々はあまりにも多くの事を捨て去ってきた。その事だよ。」

私はコーヒーを飲みながら彼の弁に耳を傾ける。

「かつて、我々の世界は今よりはるかに混沌としておった。そしてその世界は数多くの差別、偏見に塗れた世界だった。」

「そして、時の指導者は、それらの差別や偏見が生まれるのは、我々に差があるからだ、と結論づけたのだ。つまり、その昔、我々はオスとメスの性別を持ち、その二人からブレンドされた遺伝子を持った子が産まれていたのだが、それを止めた。」

「性別、があったのですか。人間に?」

「そう。男と女と言う。そしてその子らを含めて家族という共同体を形成しておったのだが、それを止めた。そして国家の統一の邪魔になる民族、言語、宗教、人種の差を無くした。」

席を立った老人は窓辺まで歩き、外の曇り空を眺めながら喋り続けた。

「それらを一度に解決すべく開発されたのが人工子宮。遺伝子を一定のアルゴリズムで生成して産み出されたのが今のわしらネオテニーと呼ばれる人類だ。わしらに民族は存在せんし、宗教も持たぬし、一つの言葉しか知らぬし髪も目も肌の色も皆一緒だ。そうする事で世界は平和になると信じられてきたのだ。」

「驚くような話ですね。とても信じられません。」と私は言った。

「とても驚いているようには見えんな。まあ良い。わしらはシリアルナンバーと12器ある人工子宮の名を組み合わせ個人を識別しているが、昔はもっと多種多様な名前が存在した。かろうじて人工子宮の種別にはそのオリジナルとなった女の名が冠されてはおるがな。わしはPTR-88923=YOUKOというが、ヨウコの部分が女の名前だ。ピーターと呼んどくれ。」

ピーターは再び席に着くとコーヒーをすすり、また話し始めた。

「全ての差を無くした人類は平和になると信じられていた。政府はさらに特権階級を除くほぼ全ての国民の所得を均一にし、同じ住宅に住まうように仕向けた。だが、どれだけ多くの差を無くしても結局犯罪は無くならなかった。」

老人は私の方を一点に見つめている。その目はどこか物悲しい鈍い光を放っていた。

「それならどうするか。それなら犯罪が起こった事を国民が知らなければいい。忘れてしまえばいい。そうやって開発されたのが修正放送だ。修正放送は画期的だった。人間の記憶を政府の都合の良いように改竄できる。これにより国民は政府に欺かれながら仮初めの平和を享受した。そしてそれが始まってからは、実際の犯罪件数までもが激減した。それで政府は気をよくしてしまったのだ。」

「つまり、」私が言いかけるとピーターはそれに被せるように言ってきた。

「つまり次の段階に進んだのだよ。さらなる治安の達成。そのためには犯罪の根本となる人間の感情、これを修正してしまおうと言うのだ。君はその被験者第一号となった。」

私はその言葉を聞いて全てを悟った。

「ということは、これは今後全ての人類に施されてゆくのですね。」

そういうとピーターは目を伏せながら肯定した。

「そうなるだろう。お主はどう思う?」

「いえ、私は修正されてしまったからか、何も感じません。ただ、ものすごく私の中身が空っぽになってしまったように思います。」

そうか、と言うとそれ以降ピーターは黙り込んでしまった。私は冷めたコーヒーを飲み干すと立ち上がった。

「面白い話をありがとうございます。私はあなたに会うためにきっとここに来たのでしょう。とても為になりました。失礼します。」

老人は黙って私を見送った。部屋を後にした私は階段を登り、集合住宅の屋上へとやってきた。


 屋上には風が強く吹き、空には雲間から無数の光の筋が差していた。私はおもむろに歩を進めると柵を乗り越え、ビルのへりに立っていた。

「何も感じない。それが理想の人間と言うのか。」

悲しくは無かった。ただ虚しかった。私は最後に少しだけ考えた。どこがどのように修正されたのか。私の記憶のどこが正しく、どこが書き換えられたのか。それとも私の性格も含め、全て書き換えられてしまっていたのか。今ある記憶も全てが嘘なのか。しかしそれを考える事は全くの無駄であると悟った。今更どの部分が本当か嘘か知ったところで、元の私に戻ることはできないのだ。

 私は小さく「さようなら。」と呟くと体を前に倒した。私の体は重力に引っ張られ、頭から地面の方へと一直線に落ち始めた。ああ、こんな時でも何も感じないのだなと思ったその時であった。天から声が聞こえたのだ。


『どうだ?恐ろしかろう?』

私は目を見開いた。

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人権国家の黄昏 勇今砂英 @Imperi

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