白蜜と処方箋
安良巻祐介
白い果実を齧りながら、遊歩道をそぞろ歩いていると、胸の中にいい具合の空白ができて、気持ちがだいぶ楽になった。
果実は、家の卓上の籠に小山となっていたもので、名前はよく知らない。
形だけ見ると、林檎と桃の混血のようだが、詳しくないからその形容も正しいのかわからない。
とにかく、手に取った時の重み、或いは軽さが丁度良かったから、一つ失敬して、家を出てきたのだ。
そう言えば、大昔に読んだ、胸を病んだ人の本でも、似たようなことを言っていた気がする。
その人はそれによって、腐敗した胸を癒されていたようだが、自分の場合はそこまで大袈裟なものでもない。ただ、ごたごたした塵芥が散らばって、無駄な隙間だらけの胸の中の、整理には幾らか役に立ったらしい。
じく、じく、と音を立てて、また実を齧る。
ひどく瑞々しいけれど、甘みはあまりなく、ひたすらにおぼろだ。
咀嚼していると、歯列とそこを通る唾液とが、ゆっくり透き通っていくような錯覚も覚える。
そんな味だ。
それが、今の自分には、大変にしっくり来る。
はっきりしたもの、色の濃いものは、もう大分とうるさくなってしまった。
今は、その反対の感じを――曖昧なもの、色の淡いものを、知らないうちに求めているようで、たとえば、何も描かれていない画布があったら、筆を手に取って何か描くのではなく、その白さを、森閑とした広さを、いつまでもじっと見つめていたいような、そんな気分だ。
遊歩道はずいぶん前に管理を放棄されたらしく、瓦礫が幾つも散らばっており、両端に並ぶ街路樹も、枯れたり、色が抜けたりして、白い骨の列のようになっている。
それもまた、今の自分にぴったりだった。
なにもかもが、自分の心象と調和しているようで、はなはだ傲慢な錯覚だとは思いながらも、ひどく幸せな気分である。
見上げる青空も、青い透明さと、雲の白さの割合が、綺麗に磨いたコップとその中の水を思わせて、理想的だ。
静かで、途方もなく、また意味もない。
顔を上げたまま、口笛を吹いた。
久方ぶりに吹いてみたそれは、意識もしないまま、細く穏やかな譜を描いて、すぐに空気に吸い込まれていく。
静寂は乱されず静寂のまま、わずかに波打つばかりである。
きっと今なら、石を拾って、空へ向かって投げたとしても、理想的な放物線を描いて、消えることだろう。
ずっと抱いていた、雑多な塵芥のようなものが、いつの間にか、すっかり気にならなくなっていた。
むしろ、胸の中でいつまでも片付かない異物であったそれらさえも、何かしらの意味を持って、そこに配置されていたオブジェに思えてくる。
ああ、何だ、全く、簡単な事じゃないか。
果肉をあらかた削ぎ取ってしまった白い実の芯を噛み、その程よい渋さに口元を緩めつつ、独り言ちた。
家の庭で、色んな種類の果実を作っていた男は、園丁ということであったが、顔をいつまでも見せないし、尋常の人ではないらしい。
そんなことは最初から分かっていたけれど、このような清々しい、安らかな気持ちをくれるのなら、彼が本当の園丁であろうとなかろうと、どちらでもよかった。
それに、もう、家に帰るかどうかだって、わからないのだから。
白い果実の芯をつまんで、真っ白い空白の心を抱えて、瓦礫の亀裂の増えていく遊歩道を、自分はそのまま、軽やかに、歩き続けて行った。……
白蜜と処方箋 安良巻祐介 @aramaki88
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