第9話 (付録)リンカーンともうひとりの大統領

 日本のような戸籍が存在せず出生証明だけが唯一の手立てのアメリカでは、有名人の場合であってもその正しい血筋を辿るためには、歴史を専攻する者が膨大な関連資料を頼りに検索をしないと難しい。そのような最近の研究の結果、リンカーンとは血のつながりはないものの、夫人の遠縁に黒人の大統領が存在したことが判明した。

 リンカーンはこの黒人奴隷とその母親の帰属を巡る裁判に弁護士として立ち合っている。したがって、この黒人親子の存在はリンカーンも承知のことだったが、奴隷解放に貢献したリンカーンが、はたしてその黒人が後日他国の大統領に就任することを予測できたか、興味をそそられる。


 先ず、背景になるアフリカ西部に存在するリベリア共和国から始めねばならない。この国はかっては船舶に税金を賦課しないことから、多くの船舶がリベリアに船籍を置いていた。学生時代の横浜港には、船尾に星条旗と見間違うリベリアの国旗を掲げた貨物船やタンカーが出入したものだ。日本企業の船舶の多くがリベリアに籍を置いていた時代もあった。

 この国の首都はモンロビアで、その名は第五代米国大統領のジェームス・モンローに因んでいる。後の時代になってモンロー主義と呼ばれる孤立主義を唱えた大統領だ。外国が首都に米国の大統領の名を冠する例は他に存在しない。この例外的な措置は、モンローが大統領だった一八一九年にリベリア建国法に署名したからだ。


 当時のアメリカでは、解放奴隷をどのように処遇するかが大きな関心を呼んでいた。多くの白人は、黒人は白人との共存には不向きな人種と見ていた。後のリンカーン大統領でさえ中米に解放奴隷を送り込む植民地を念頭に置いていたくらいだ。その解決策として、黒人を出身地のアフリカに送り返すことが最適な手段と考えられ、広く募金を募り解放奴隷を送り出す地をアフリカ西海岸に設けた。

 現在のリベリア共和国がその地で、一八二四年に首都であるモンロビアが建設され、一八四七年にアフリカ大陸では最初の共和国が出現した。

 アメリカからは数万の解放奴隷が海を渡った。リベリアはしばらく前に内乱が続いていた。それはこのようにアメリカを後にした黒人の末裔がリベリアの指導階層を構成し権力を濫用したからだった。内乱は奴隷の末裔が同じ黒人の原住民を抑圧する皮肉な結果であった。

 先年、中国の首相がこの国を訪れている。その際の映像に、大統領である黒人女性が登場していた。内乱の収拾を図ったのが女性の大統領だったことが、時代の変遷を語っている。


 さて、本題だが、すでに記したように、リンカーンはケンタッキー州で当時最大の都市だったレキシントンの有力者、ロバート・スミス・トッドの娘であるメアリー・トッドと結婚した。トッド一家はケンタッキーでも有数の資産家で、政界にも大きな影響力を持っていた。

 神格化されたリンカーンだが、有力者の娘との結婚には、無名の地方弁護士にすぎなかったリンカーンの打算が働いた結果ではなかったかと思われる節がある。結婚後はトッド家の名声もありリンカーンの名は次第に人に知られることとなった。


 リンカーンが大統領に選出される十年ほど前の一八四九年に死去した義父のロバート・スミス・トッドの従姉妹に、メアリー・オーウェン・トッドがいた。このメアリーはジョン・トッドとジェーン・トッドの間に生まれた一人娘だった。ジョン・トッドは当時バージニア植民地の付属地だったケンタッキー地方への最初の移住者のひとりで、ケンタッキーでも最も豊かな資産家のひとりであった。

 しかし、メアリーが幼少の時にこの父親のジョン・トッドがインディアンとの戦いで死んだため、メアリーは二千エーカー(新宿御苑のおよそ二十倍の広さ)の土地と財産を相続した。ケンタッキー州で最も富豪の女性と呼ばれた。


 このメアリーと夫であるジェームス・ラッセル大佐の間に生まれたのがジョン・トッド・ラッセルだったが、この父親であるジェームスはジョンが二歳の時に死んだ。その後、資産家の母親の手で育てられたジョンは、性格も優れた優秀な青年に成長し、当時すでにエリート校として知られていたプリンストン大学に入学した。

 そのプリンストンの学生だった一八一六年の秋、故郷に帰ったジョンは、再婚していた祖母のジェーンの邸宅で過した。その邸宅には当時の資産家の常として多くの奴隷がいて、そのひとりだった若い女性のミリーと恋に陥ってしまったのだ。

 このミリーが身ごもったのが、一八八三年にリベリア共和国の大統領に就任したアルフレッド・フランシスだった。誕生は一八一七年だったから就任したのは六十六歳だったことになる。


 アルフレッドは白人と見間違うほど肌の色は白かったといわれる。しかし、白人との混血であっても奴隷の身分には変わらず、リベリアに渡るまでには数々の辛苦を味わっている。

 アルフレッドの父だったジョンも若死にしてしまうが、死の直前にアルフレッドを自らの息子と認知して、財産の相続と共に身柄を母親のメアリーに託した。メアリーも息子の遺言に従って家族並みにアルフレッドとその母親のミリーを遇した。ところが、メアリーの再婚相手だった夫のロバート・ウィック・リフが財産分与に不満を持ち訴訟を起こしたのだ。


 当時のケンタッキーの州法では、再婚した夫に夫人の財産も移ることになっていた。奴隷は主人に属す財産として財産税の対象になっていて、財産価値のかなりの割合を占めるのが常であった。

 結局、この訴訟に負けたメアリーは千二百ドルもの大金を払ってミリーとアルフレッドの身柄を買い戻している。

 この身内での訴訟事件にトッド側の弁護を努めたのが、メアリー・アンの夫だったリンカーンであった。

 アルフレッドは大統領に就任した翌年の一八八四年に死去した。六十七歳だった。黒人の平均寿命が五十歳に満たない当時としては長寿だったことになる。

 リンカーン夫人のメアリー・アンは、夫のリンカーン大統領の死後ノイローゼがこうじて精神病院に収容される不幸な晩年を過ごし、アルフレッドが大統領に就任する前年に死去している。アルフレッドより一歳若かったから六十五歳だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神格化されたリンカーン像を崩す ジム・ツカゴシ @JimTsukagoshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る