第8話 ゲティスバーグの演説は実は付け足しだったのだ

 「人民の、人民による、人民のための政府は地球上から消え去ることはない」で結ばれる一八六三年十一月十九日のリンカーンの演説は日本でも広く知られる。

 この演説があったペンシルヴァニア州中央部でメリーランド州との州境に近いゲティスバーグは、その年の七月一日から三日にかけて南北両軍の間で繰り広げられた激戦の戦場跡だった。

 戦場に散乱した戦死者の埋葬が始まったのは十月十七日になってからであった。しかもおびただしい軍馬の死体も埋められたために戦場跡から死臭が消え去ることもなかった。処理に困った当局は戦場跡を戦死者を弔う国の記念公園に指定し、その命名式を十一月十九日に開催した。

 式の主賓として記念講演を依頼されたのは、マサチューセッツ州出身で同州選出の下院議員、州知事、英国大使、国務長官、そして連邦上院議員を歴任し、ハーバード大学の学長も務めた当時では最も著名な知識人とされた六十九歳のエドワード・エバレットであった。

 エバレットは建国以来の米国史を振り返り、激戦の戦死者が無駄死にでなかったと哀悼の演説を二時間にわたって繰り広げた。

 エバレットの崇高な演説に続いて賛美歌の演奏があり、その後に壇上に上がったのがリンカーンであった。


 式の主催者は国が指定する公園の命名式でもあり、軽い気持ちで大統領にも招待状を送った。その招待状には短い挨拶の依頼が含まれていた。主催者が望んだリンカーンのスピーチは式典に花を添えるための付け足しにすぎなかったのだ。

 リンカーンは二分ほどの短いスピーチを終えて壇から去った。わずか十節からなるスピーチであった。

 エバレットの長広舌に聞き入ったばかりの聴衆の多くが、大統領はスピーチを途中で止めて壇から降りたと誤解するほど短いものだった。聴衆からの拍手も起きず、会場は白けたムードに包まれた。

 翌日のマスコミの反応も冷ややかなものが多く、反リンカーンで民主党系のシカゴ・タイムズは、大統領ともあろう者が馬鹿げたスピーチをして恥ずべきだ、とこき下ろした。海外の反応も芳しくなく、英国のタイムズ紙は軽々しい内容だったと批判している。

 

 エバレットの演説内容の一端を知るのが、翌日にリンカーンがエバレットに送った礼状だ。ふたりの間で話題になった病気中だったリンカーンの息子への見舞い状を兼ねてエバレットがリンカーンに書信を送ったようで、リンカーンが直ちに返信している。

 世間の冷ややかな反応をリンカーンも気にしていたのか、エバレットの手紙にあったと推測される賛辞への言及が見られ、また短いスピーチだったことを弁解するニュアンスが滲んでいる。エバレットがそれまでの南部を中心にする州権主義に対して批判的な見解を披露した模様で、新たに知った論だと記している。これは高名なエバレットに対する儀礼から出たまでで、大統領選挙では論争の目玉であった州権主義の是非をリンカーンが知らぬはずはない。エバレットが負傷兵を看護する婦人たちへの賛辞をスピーチに含めていたこともこの返信から知ることができる。


 リンカーンの短いスピーチは、前日に首都を発って現地入りした列車の中で走り書きしたものだったという説が語り継がれている。

 しかし、リンカーンはどのスピーチもそれに先立って草稿に丹念に手を加えるのが常であった。この短いスピーチも推敲を重ねた結果だったと考えるべきだ。戦争の帰結が明らかでなく、政権への批判が続いていた当時だ。戦死者への弔いの機会をとらえて、南北に分裂した国の再統一と、建国の精神に立ち返り人は皆平等であるべき、と訴えたのだ。スピーチには奴隷解放の言はひとことも見当たらない。リンカーンの最大の関心事は南北の融和であった。


 結びの言である「government of the people, by the people, for the people」も米国政治史から類似の表現を借りたことが明らかだ。

 一八一九年に当時の最高裁長官だったジョン・マーシャルがある有名な判決文のなかで次のように記している。

 「The government of the Union, then, is, emphatically and truly, a government of the people.」

 弁護士だったリンカーンがこの判決文を知っていても不思議ではない。

 一八三〇年にはマサチューセッツ州選出の上院議員で当時は最も有力な政治家のひとりだったダニエル・ウェブスターが連邦政府とは、「made for the people, made by the people, and answerable to the people」と上院議会での演説で述べていた。ウェブスターはリンカーンが標榜する連邦政府による積極的な富国策を唱えた先駆者のひとりであった。

 著名な奴隷解放主義者で説教師だったセオドア・パーカーによる一八五〇年の説教の中に、「democracy as a government of all the people, by all the people, for all the people」なる表現が現れる。リンカーンが目にしたことは十分考えられる(このdemocracyとは、主義を指すだけでなく、政府・政治体制そのものを指すという考えがこの時代に行き渡っていた。世界の名著とされるトクヴィルの「Democracy in America」が時にアメリカの民主政治・政体と訳される由縁である)。

 リンカーンによる主たるスピーチを収録した書に、リンカーン自身が議会演説に使用した例が掲載されている。大統領に就任した一八六一年の独立記念日に開かれた特別議会でリンカーンは、南北戦争への対応と北部州の団結を訴える長い演説をした。その中に、「a democracy - a government of the people, by the same people – can, or cannot, maintain its territorial integrity」とある。衆人による国土の維持がリンカーンの訴えの骨子であった。


 このように過去の例を参考に熟慮に熟慮を重ねた末の結実があの二分間のスピーチだったと考えるべきだ。走り書きというのは後のフィクションにすぎない。どうもリンカーンにはこのように面白おかしく脚色した例が多い。駄洒落好きだった大統領がそのような風評を好んだからかもしれない。

 主催者にとっては付け足しだったかもしれないが、この機を捉えたリンカーンの政治家としての臭覚の素晴らしさを語るスピーチである。

 こうして散々な評価だった二分のスピーチが日本の歴史教科書や英語のテキストにも記載されている。一方の内外から高く称えられた二時間を超えるエバレットの演説は、その存在が今では米国においてさえ忘れられている。日本でこの事実を知る者がどれほど存在するか。

 歴史の風化に耐え得る物事や人物の評価とは難しいものだ。


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