第7話 南北戦争は不可欠だったか?

 民主党選出で第七代だったアンドリュー・ジャクソンが二期八年間の大統領を務めて退任した一八三〇年代後半以降、一八六〇年までの大統領は誰もが一期を務めるか任期中の死去のために、民主党とウィッグ党の政権が交互に出現し、長期的な政策を実行することなく政情が混沌とした時代であった。

 戦争勃発時の北部の人口が千九百万人、南部が九百十万人(内奴隷が三百五十万人)、鉄道総延長は北部が二万マイル、南部が一万マイルで、経済規模は二対一だった。しかし北部ではアメリカ産業革命によって軽工業が拡大したのに対して、南部は綿花やタバコなど一次産業への依存から抜け出せず、戦争遂行に必要な武器、艦船のほとんどを輸入に頼った。工業力では十対一ほどの差があった。


南北戦争のコスト

 南北戦争は米国にとってどれほどのコストだったか?人的損害は北軍の戦死者が十一万人、南軍が九万人強で、病死した者を加えると南北合わせると五十万から六十万人に達した。

 戦費は北軍が六十二億ドル、南軍が二十一億ドルで、合わせて八十三億ドルであった。今日の価値でおよそ千六百六十億ドルに相当する。第二次大戦に米国が投入した戦費はおよそ三千億ドルとされるので、内戦にもかかわらず南北戦争が大規模だったことを示している。

 また、戦争には勝ったものの北軍の負担が南部に比べて高く、リンカーン率いる北軍がいかに拙劣な戦いをしたかをこの数字は如実に語っている。一八六〇年の連邦政府の予算が六千三百万ドルだったから、総戦費はなんと平時予算の二百五十年分超に達したことになる。この結果連邦政府は一八六五年には二七億ドルの負債を負っていた。平時予算の四十年分に当る。


 十九世紀前半に主導権を握っていた南部を支持基盤にする当時の民主党が標榜する”小さな政府”は現代と異なり掛声ではなく文字通りだった。これが南北戦争を契機に共和党が勢力を増すにつれて米国は大きな政府に移行した。リンカーンはその先陣を担ったのだ。

 当時はGNPの概念が無く National Incomeの記録が残されている。一八六九年のNIはおよそ六十三億ドルだった。負債はNIの四十%前後に達していたことになる。

 一方、焦土に帰した南部の経済が南北戦争以前の水準に回復するのは一世紀後の二十世紀半ばのことであった。

 米商務省発表のNational Incomeの推移は次のようになる(単位百万ドル)。

1799 総計 668 内、農業 261  内、製造業 32  内、運輸業 160

1809    901 306 55 236

1819    855 294 64 176

1829    947 329 98 143

1839    1,577 545 162 277

1849    2,326 737 291 398

1859    4,098 1,264 495 694

1869    6,288 1,517 1,000 718

1879    6,617 1,371 960 896

1889    9,537 1,517 2,022 1,154

1899    13,836 2,983 2,714 1,528


リンカーン政権による主たる政策

1861 連邦所得税の導入

1862 Homestead Act(自営農民法) 五年間農地として保有すれば政府保有の土地から百六十エーカーを農民に割譲。東部や欧州からの移住者が大平原に定住する契機となる。北部経済の振興と人口増によって南部勢力を抑える効果を狙ったものであった。リンカーン政権の最大の功績といえよう。

 今日の世界最大の穀倉地帯はこの振興策を利用しようと渡来したロシア系ドイツ農民が開拓して生まれた。今日知られる麦などの種子はそのほとんどがこれらドイツ農民がロシアから持参したものである。

1862 Morrill Act 中西部、西部に農業振興のための教育機関を設置するための政府支援策。現在でもアイオア、カンザス、ネブラスカ、モンタナなどに優秀な工学部や農学部を持つ州立大学が存在するのはこの法案のためである。農地をタダ同然で与えるだけでなく、農業振興のために教育に力を入れたのもリンカーンの鋭い先見性から出たものであった。

 農業州で知られるアイオワ州が、自動車が出現した時代には州民当り最も保有台数が多い州だった。道路の舗装率でもトップで、そのため道路舗装機械はこの州で生まれた。

1862 Pacific Railroad Act ミシシッピー川西岸と太平洋岸の双方から鉄道軌道の敷設を始めるための連邦政府支援策。ゴールドラッシュで移住者が流入し州に昇格したカリフォルニアを北部に組み込むことを意図した政策だった。目的通り同州の連邦入りを果たしただけでなく、沿線の産業振興を促進し、またそれまで半年を要した大陸横断が数日で可能となり、米国の一体感と経済拡大に大きな効果を及ぼした。自営農民法と並んでリンカーンによる偉大な貢献といえる。(蛇足:鉄道が通過したネブラスカ州の州都はリンカーンの名を冠している。鉄道を実現したリンカーンを称えたからだが、大統領に就任する前のリンカーンが借金の担保として押さえた土地がこの州にあった。将来地価が高騰するかと投機心を駆り立てている。鉄道がもたらす利権にも無関心ではなかったのだ)

1862 農務省の設立 後の一八八九年に農務長官が閣僚入りした。


 このように一八六二年の議会は次々に重要法案を成立させ、米国議会史上では最も多くの法案を通したことで知られる。これも南部が離反したために議会が共和党で占められた結果で一党独裁の様相を呈していた。今日のような与野党が拮抗した民主主義議会の下における法案成立率の低下とは好対照な時代だったことになる。


奴隷解放の行方 

 英国で奴隷廃止法が成立したのが一八〇七年。ロシアが貴族による自発的農奴解放を認めたのが一八〇三年、ロシアの農奴解放宣言は一八六一年のことだった。このように十九世紀半ばには世界の趨勢は奴隷制度廃止に向かっており、米国南部も何らかの手を打たねばならない時代に突入していた。特に欧州向け綿花の輸出に依存する南部は、英国やフランスなどからの外圧にさらされていたために、南北戦争が無くとも限られた人権を認める小作人制度への移行が起きて当然だったといえる。 

 人権が認められていなかった奴隷に対する酷使はあったものの、他方では家族の一員として扱われていた例も少なくなかった。奴隷解放は衣食住が保障されていた黒人が普通の人間として扱われることを意味し、生活に困窮する解放奴隷が続出した。特に北部に移住した黒人の大半が定職に就くことなくスラム街を生む要因になり、また多くが西部に再移住している。西部のオクラホマ州などに黒人が多いのはこのためだ。

 奴隷解放にもかかわらず黒人の生活状況には目覚しい変化は起きなかった。黒人たちの失望感を抑えるために、南北戦争は白人が黒人のために血を流して解放を勝ち取った戦争であり、それを進めたリンカーンの功績だったという説を白人が創出した可能性がある。

 

リンカーンへの評価

 南北戦争のコストと効果を天秤に掛けると、南北戦争はその後の米国にとって取るべき最善の選択だったか、という疑問が生まれても不思議ではない。

 リンカーンは米国史上の偉大な大統領だったのか、あるいは、膨大な損失をもたらした大統領だったのか? リンカーンの神格化は後者の疑問を封じる狙いから出たものではないのか? 


 大統領選挙で対抗馬であった同じイリノイ州選出のダグラス民主党上院議員が掲げた、奴隷解放の是非は各州の判断に任せるという主張が、当時としては南北の分離を回避しつつ奴隷解放を漸進させる穏便策であったと考えられる。

 しかし新たに誕生した共和党が同じ政策を掲げては政権奪取は不可能であった。民主党との差異を鮮明にする必要があった。また、無名に近い新人のリンカーンにとっても、現職で知名度が高いダグラスと同じ政策では勝ち目は皆無だった。

 共和党による政権奪取と南北戦争勃発は切り離せないセットとして取り扱うべきであろう。そしてダグラス民主党政権が生まれていれば、あのようなリンカーン政権による思い切った富国策は実現せず、それまでと同じように連邦議会内では政争が繰り返されたと考えられる。その後の米国史も大きく異なる軌跡を辿ったことであろう。

 リンカーンが最も偉大な大統領と称えられのは、二十世紀に世界最大の強国を生む基盤を整備した富国策を積極的に進めたことにある。南北戦争はそれを可能にする革命をもたらしたのだ。歴史教科書はこれを強調すべきであろう。奴隷解放はその一端にすぎなかった。

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