第6話 奴隷解放宣言は戦況転換のための軍令だった

 前回触れたようにリンカーンの当初の奴隷制に対する姿勢は、新たに連邦に組み込まれる西部州では奴隷制を禁じる、しかし、すでに奴隷制を敷く南部州では現状維持で奴隷の自然消滅を待つ、というスタンスであった。また、解放奴隷が流入して失業問題が更に悪化することを恐れる北部への対応としては、黒人は白人との共存が不可能なために、アフリカ大陸、あるいは中南米に植民地を設けて送り込むことによって解放奴隷との軋轢を避けることを唱えていた。

 十九世紀前半に南部に強大な支持基盤を築いた民主党に対抗するために、新たに結党された共和党にとってその勢力拡大には、北部の一部にあった倫理観からの奴隷制撤廃論者だけでなく、南北双方に存在した中間派や、連邦からの離脱を唱える南部過激派に批判的な穏健な民主党支持者も支持基盤に取り込む必要があった。

 大統領候補のリンカーンが主張した、西部州への奴隷制拡大は禁じるが南部に現存する奴隷制度は容認する政策はこの目的に適っていた。

 リンカーンを支持した共和党の有力者たちは政権獲得のためには奴隷制に対して穏健な政策を掲げる必要があり、一方、政治家としては無名に近いリンカーンもそれに乗じて候補者に名乗り出る必要があった。その両者の思惑が合致したことが、選挙の直前になって名が知られるようになった新人のリンカーンが共和党から大統領候補に選出された理由であった。

 倫理観から奴隷制度の全廃を訴える急進的な共和党候補では民主党内に南北間の亀裂を生むことは無理と党指導層が政治的な判断をした結果でもあった。


 ところが、共和党政権が成立して当初の目的が達成されると、共和党内では、奴隷制度全廃を主張する急進派と穏健派の対立が顕著になった。更に党内や政権内での対立の火に油を注いだのが、南北戦争の推移であった。

 リンカーンが就任するやサウス・カロライナ州が連邦から離脱し、南部諸州もそれに追随して南北戦争が始まった。圧倒的に工業力で勝る北部には、南北戦争はせいぜい数十日で北部の勝利に帰すという見方が多くを占めていた。リンカーン自身も、また閣僚たちの間でも楽観論が大勢だった。

 このようにして戦闘に臨んだ連邦軍だったが、それまで西部でのインディアン討伐が主だった北軍は多くの将校が南軍に加わったこともあって、本格的な戦闘に対応できず敗戦が続いた。度重なる拙劣な戦闘によって多くの戦死者を生み、戦況の好転が見込めないことから、北部でもリンカーン政権への非難が噴出する事態に至っている。

 メリーランド、ケンタッキー、ミズーリーの三州は奴隷制を抱え、南北の境界線に位置するためにボーダー・ステートと呼ばれた。奴隷州ながら北部との関係が濃いこれらの州は南部連合への加入を見送り、開戦時には中立を唱えた。しかし、連邦軍の苦戦が続き、これらの三州が南部政府に寝返るおそれが出始め、リンカーンでさえ北部は戦争に負けるのではないかと危惧する事態に至った。

 政権への支持率アップとボーダー・ステート対策のためにはリンカーンは奴隷制への旗色を鮮明にする必要があった。


 こうしてリンカーンは就任二年目の一八六二年三月に、漸進的な奴隷制撤廃と奴隷を州政府が買い上げ植民地に送り込む、そしてその経費負担を連邦政府が支援する、という大統領令を発布した。その昔、議員時代に抱いた構想を投入したのだ。

 ところが、この大統領令に対して応じたのはホワイトハウスの足元の首都だけであった。それまで議論されていた首都での奴隷の解放要求を満たすために、首都に住む奴隷たちを政府がオーナーから買い上げて解放することになり、そのための予算として十万ドルが計上された。

 しかし、肝心の三州からの反応は冷ややかだった。そのために、七月になって、漸進的ではなく、また奴隷を買上げることなく一挙に解放する大統領令の発布にリンカーンが傾くことになった。

 同じ頃にそれまで南部の領土だった一部を北軍が占拠し、占領軍のトップが大統領の承認を得ることなく奴隷を解放し、それに反対する奴隷主を通常の司法手続きを経ることなく拘束する軍令を発布した例がいくつか出現した。リンカーンはこの軍令が明らかになる都度、南部人の反感を増すことになると取り消すように命じている。

 しかし、戦局の悪化と身内からの突き上げで、リンカーンはこの手段にやむなく踏み切る事態に追い込まれることとなった。この軍令は非常事態下での秩序を維持する特例であり憲法違反ではないというのがそれまでの軍の判断だった。当初は疑問視していたリンカーンも背に腹は変えられず軍の判断を支持する姿勢に転換したのだ。


 世界史に記憶される一八六三年一月のリンカーンによる奴隷解放宣言はこのような背景から生まれた。一部の教科書や伝記が称えるような崇高な信条から出たものではなかった。事実、この宣言は非常事態下での軍政手段だったことから、南部政府が統治する地方にだけ適用され、同じ南部でも連邦軍が占拠していたニューオリンズ市などに住む奴隷は対象外に置かれたままであった。

 南部政府の支配地で解放された奴隷が動乱を起こす、あるいはプランテーション経済に打撃を与えることが期待できるこの案は、政権批判をかわす妙案として、閣僚連や議会の有力者からも賛同を得て所期の目的を達した。このように宣言の背後には政治目的が隠されていたのだ。


 軍令だったことを示すのが、奴隷解放宣言の冒頭に見られる次の表現だ。単に大統領が宣言したのではなく、米国政府全軍を従える最高司令官が内乱軍の討伐のために発布した宣言だったことが明瞭に記されている。

 多くの歴史教科書はこの冒頭の部分に触れることがない。恐らく著者たちはこの原文を目にしたこともないのであろう。


Now, therefore I, Abram Lincoln, President of the United States, by virtue of the power in me vested as Commander-in-chief, of the Army and Navy of the United States in time of actual armed rebellion against authority and government of the United States, and as fit and necessary war measure for suppressing said rebellion, do, on this first day of January ……….


 リンカーンによる奴隷解放宣言はこのような統治手段のためであり、人道上からの奴隷の解放は当初の目的ではなかった。南北戦争は双方に五十万人に達する死傷者をもたらした米国史上では最も多数の人的損害を生んだ戦争だった。

 白人同士が南北に分かれて四年間にもわたる激戦を交わした目的が黒人の人権擁護のためだったはずはない。黒人の人権擁護が俎上に上がるのは百年後の二十世紀も半ばを過ぎた一九六〇年代の公民権運動まで待たねばならなかった。

 南北戦争とは資本主義経済の発展のために不可欠な自由に流通する労働力を必要とする北部経済と、土地に労働力を縛る奴隷制度から成り立つ南部プランテーション経済が対立した南北問題であり、南部諸州による連邦からの離脱は、統一国家の崩壊を招く反乱だった。

 南北の統一維持が目的だったこの戦争が、米国では「南北戦争」ではなく、Civil War 即ち「内乱」と呼ばれるのはそのためである。

                    

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