第2話 あと一歩
「ありがとね、いつも私なんかとお話してくれて。ほんとは毎日寂しかったの。私、
こういう性格だから人とあんまり話が合ったりしなくて」
今まさに沈もうとする夕陽。その温かくて柔らかい光に包まれた少女は笑う。紅茶を飲みながら飲む姿はまるでどこかのお嬢様みたいだ。いや実際にお嬢様なんだろうけど。
「なんだよ今更。僕は君とした約束を守ってるだけだよ。というか僕が来ないと君こまるでしょ。…まぁかくいう僕も人と話が合わないという点では共感するよ」
「あら、意外。そんな風には見えないけれど」
口元に手を当てて驚いて見せる彼女から包帯は少し減っていた。怪我が治ってきたのか、何度も繰り返される自傷行為が減ったのか。もし彼女の役に立てているなら誇らしい限り。彼女とはあまりその傷や過去の話はしていない。正直な話、何回か聞いてみようとそれとなく話題を切り出したのだけれど、のらりくらりとはぐらかされてしまった。ということは自分から話したい内容ではないのだろう。
知りたいならもっと深くかかわるしかない。彼女のことは気に入っているが、あと一歩踏み出せるかどうかってのは微妙なところだ。だって下手に触れれば壊してしまいそうな、そんなアンバランスさだったから。
僕は知っている。彼女が僕が目を逸らしている間に虚ろ気な目をしているのを。
僕は知っている。彼女が何かを懸命に隠しているのを。
僕は知っている。彼女が僕との間に一線を引こうとしているのを。
別にそれは悪い事じゃない。人間とはそういうものだ。
けれどそれはなんだか、
「少し、寂しいな」
「あら、私と一緒にいるのにどうして寂しいの…?嫌いになった?」
僕の溢した言葉に不安そうな表情を形作る彼女。彼女の名は
「いや、なんだか近いのに遠い気がして」
変な言いぐさだった。我ながらうまく言葉がつかえていないような気がした。
いや、それは気のせいではないのかもしれない。ただ単に言葉に詰まったというものではないのかもしれない。
「詩的な表現ね。あなたの話し方からすれば珍しいんじゃないかしら。でもはっきり言って頂戴。私はあまり賢くないの」
それは謙遜だったんだと思う。別に悪気があってそうしたわけでは無いんだろうけど、なんだかムカついた。
出口は見えているのに永遠にたどり着けない迷路みたいで、悔しかった。そう、悔しかったんだと思う。だから八つ当たり気味に、半ばぶっきらぼうに言い放ったことだけ覚えている。
「悪いけど、今日は帰る。連絡は最初に伝えた通り、もし来れるなら明日も高校は8時半」
彼女は僕の背中越しに何かを言ったんだと思う。けれどそれはやや乱雑に閉じられたドアの向こうにかき消された。
見送りに来てくれた美幸さんの声にも軽く会釈を返しただけで靴紐も結ばず玄関を出た。最近は見慣れてきた木々もなんだが深い絶望を抱えた地獄の亡者が伸ばす手のように見えた。気味が悪かった。いつもは名残惜しく思えるこの一本道も、なんだか今日は煩わしく感じた。振り向かずに小走りで駆け抜けた。
僕はいったい何に怒っているんだろうか。
翌日。ホームルームで携帯が震えた。
朝の陽ざしに目を細めている僕の胸元で。
なんだか胸騒ぎがしている。昨日はあまり寝付けなかった。
何度も経験した夜だけど、なんだか落ち着かなくて、じっとしていられなくて。
でも動き回るわけにもいかないから必死に眠ろうとして、眠りについたのは四時を過ぎた頃だった。
だからだろうか、いい知らせではないんだろうな、そう思った。
学校で携帯ばかりに触るわけにもいかないので、いらない情報は通知をオフ。
知り合いにも学校の間は連絡をしないようにお願いしている。それにもかかわらずってことは、そういうことなんだろう。
『みゆき:早くきてうdさい』
『みゆき:大変なことになってうrです』
焦りを帯びた文章だった。早く来てください。大変なことになってるんです。そういうことなんだろう。屋上に降りた烏の鳴き声が、うるさかった。
心拍数が跳ね上がるのが分かった。
大変なことになった。それはまぁいい。でも学校にいる僕にわざわざ連絡してくるということはただ事ではない状況のはず。
落ち着くためにペンを持った。状況をメモして整理しようと思ったからだ。
滑り落ちた。乾いた音を立てて、ペンは机の上で跳ねた。そのまま転がって、床に落ちた。それは枯葉が落ちるように、名残惜しそうに落ちていった。
何も考えていなかったと言えば、考えていなかった。詳しく言うと、そんなに余裕はなかった。品行方正で通ってきた自分が変な目で見られることなど承知の上で、立ち上がった。クラスメイトの視線が刺さる。構わなかった。
「すみません。早退します」
それだけ言うと、机の中にぶち込んだ荷物なんて置き去りにして教室を飛び出した。全力疾走だった。階段を数段飛ばしで飛び降り、上履きのまま外に飛び出した。
後で怒られる。そんなことをわざわざ考える気も余裕もない。ねじ込むように鍵を自転車に突き刺し、強引に回して鍵を開ける。防犯用に二重にしているロックが過去一番で煩わしかった。
胸元に入れていたシャーペンを落としたが、振り向くことを忘れていた。
朝の道は通勤中の大人や犬の散歩をしているおじいちゃんがチラホラいる程度だったが、運悪く信号に引っかかった。ムカついてハンドルを殴った。
変わった瞬間、強引に飛び出して無理な角度でカーブを曲がってこけた。肘から結構な量の血が出たが、お構いなしに家へと続く緩やかな坂を立ちこぎで駆け抜けた。
そこでようやく、胡桃のことを考えることができた。
胡桃…胡桃…。彼女の事で頭がいっぱいだったことにようやく気が付いた。自分がどうしてこんなに必死になっているのかは分からないが、こうしなければいけないというのは分かった。うんざりするほど厳しい日差しが照り付ける。まるでサウナにいるみたいな暑さだったがそんなものはどうでもいい。
家をすっとばしてわき道を駆け抜けた。幽霊屋敷の前につくと、急ブレーキをかけて自転車を乗り捨てた。
倒れて若干カゴが歪んだ気がしたが、どうでもよかった。チャイムも鳴らさず鉄の門をこじ開け、ドアに手をかけた。開いていた。いつもは綺麗に並べる靴も、履き捨ててひっくり返したまま、スリッパも履かないままで二階にあるという胡桃の部屋まで走った。今まで見たことは無かったが、彼女の部屋と思しき方から美幸さんの必死な声と胡桃が泣き叫ぶ声が聞こえていたから分かった。
「胡桃…っ!」
言葉を吐き出して、ようやく肺が酸素を渇望していることに気が付いた。中には蹲る胡桃と、どうにかしようと慌てふためく美幸さんがいた。絞り出すように呼吸をして、駆け寄ると胡桃の手首からはおびただしい量の血液が溢れ出ていた。傷自体は大きくは無いものの、既にかなりの量の血液が床にぶちまけられていた。もともとはかなりいい品質のものであろう白い絨毯もB級スプラッターのように派手に血塗れだ。
「来て、くれたの…?でもこの通り、もうだめよ…?」
乾いた笑いすら漏らしながら儚げに笑うその姿は、まるですべてを諦めた悲劇のヒロインのようだった。
「美幸さん、救急車は」
「よ、呼んだ…よ、もうすぐ着くけど、間に合うかどうかは分からないって…」
焦っているんだろう。そんなものは嫌というほど分かっている。
何かしようとするものの、すべてがうまくいかなかったという様子で、血まみれの包帯がそこら中に散らばっていた。
「あのね、あなた…?無理、よ、この傷じゃもう…」
「…けん…な」
苦しそうに浅い呼吸を繰り返す胡桃の顔色は絶望的に蒼白だった。傷の原因となったカッターはベッドの方に投げられている。
僕の言葉に、怪訝そうに眉を寄せた。こんなところはいつも通りなのがすげえムカついた。
「ふざけんな…!」
目を開く少女に畳みかける。許さない。絶対にこのまま死なせてやるものか。目の前で苦しんでるやつを助けられないようじゃ、僕は立ち直れない。
「いいか、絶対助ける。無理とかできるとか、そんなもんはどうでもいい。助けるから黙っていう通りにしてろ。じゃなきゃ――」
覚悟を決めるために、肺を空気で満たした。
絶対に助ける意思を形に変えるように。
世界からこぼれる命をつなぎとめるために。
「――殺すぞ」
手を挙げさせて流れる血液量を減らす。傷口と、傷口から胸に近い部分をタオルや包帯できつく結んで圧迫。こうして血液量を減らす。
口に血が入った。美味しくはなかった。生暖かい。
氷を出血部位の近くの血管に当てて血液量を減らす。
血が目に入った。鬱陶しい限りだ。こんなに血というものに怒りをぶつけることになるとは正直思いもしなかった。
そこから先は覚えていない。救急隊が駆けつけたところで安心してしまったのか、崩れるように眠ってしまったみたいだった。
体が重い。人間というものはあるきっかけで限界をぶち破ることがある。火事場の馬鹿力という言葉はその最もたる例。そんな感じで僕も限界を超えて胡桃のもとに駆け付けたみたい。
「目が覚めた…?スバル、学校からすごい電話がかかってきてたわ。アンタが急に早退するって言って全力疾走で駆けだしたなんて聞いてびっくりしちゃった」
病院だろうか。薬っぽい化学物質の匂いが鼻を突いた。よくある廊下前の長いすに横になっていたらしい。耳慣れた声が頭上から響いてきたことによって僕の意識は一気に覚醒した。
「ここは…、そうだ、胡桃っ、胡桃は」
「落ち着きなさい。胡桃ちゃん、っていうのね。あなたがいっつも通ってた女の子の名前」
窘めるような我が母の声に思わず我に返った。自分が如何に冷静でないかを説かれた気分だ。
「…そう。ごめんなさい、学校をいきなり早退だなんて」
「いいのよ。むしろ褒めてあげるわ。そして嬉しいの。それだけあなたが本気で助けたいと思える誰かを見つけられたことに。一人の親として、本当にうれしい。全然怒ってなんかいないわよ」
母は落ち着いていた。普通取り乱す。しっかり真面目に生きていたはずの息子がいきなり暴走したなんて聞いたら。けれど母の言葉は息子のことなどお見通しとでも言いたげな優しい口調だった。そしてそれが無性にうれしかった。
「いい?落ち着いて聞いて。あの子は今集中治療室。不安でしょうけどもう少し待ちなさい。今処置をしてくれているはずだから。
…でもきっと大丈夫よ。アンタはわかんないでしょうけど、搬送されてからもう5時間は経ってるわ」
「何が大丈夫なんだよ…。すごい大変な状況じゃないか」
「医者ってのは案外潔くてね。無理なもんは無理ってすぐいうのよ。でもここまで長引くってことは手の施しようがないって状況じゃない。細い希望の糸を手繰り寄せようとしてるの。っていうことはまだ糸は繋がってる」
その時だった。奥の部屋のドアが開いた。男性の先生だった。本当に緑色の服をきているんだな、と場違いなことを考えたのを覚えている。
表情は厳かで、薄い眼鏡レンズの向こうの瞳は真剣だった。その口から紡がれる言葉を聞きたいのが半分、聞きたくないのがもう半分。
けれど聞くしかないのだ。どんな結果だろうと受け入れなければならない。
「…恐らく、大丈夫です。まだ油断はできませんが。応急処置は遅くとも適切でした。あれがなければだめだったでしょう」
…よかった。無意識に張りつめていた肩が弛緩するのがわかった。前の様に、僕は無駄なんかじゃなかった。僕は間に合った。手が届いたんだ。そう思うとうれしくて涙が出た。止まらなかった。零れ落ちる涙は頬を伝って、手にこぼれた。情けないと分かっていても大声で泣いた。目も鼻もぐしゃぐしゃになるくらいに泣いた。
頭を撫でる母の掌がただ優しかった。
空を焼く流星 いある @iaku0000
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