第一章 魔王の棲家Ⅰ
尿の染み付いたシーツを魔法で浮かせると、男は一人ため息を吐いた。その尿の源泉である老婆は、にこやかな表情で車椅子に腰掛けている。
「なんだって俺がこんなこと」
部屋には独特のすえた臭いが充満していた。
「あらあら、ガービット。またおもらししたのかしら?」
老婆が笑顔で男に問いかける。
「おもらししたのはあんただよ。あと、おれはガービットなんて名前じゃない」
男はもう一度ため息を吐く。未だに現在の自らの境遇を受け入れられないといった様子だ。
「そ、そんな! 私がそんなことするわけないじゃない!」
老婆の顔が怒気に満ちていく。それを見て男は息を呑んだ。自らの過ちに気付いても、もはや後の祭りだった。
男は瞬時に強い力で壁に打ち付けられた。背中への激しい衝撃により、呼吸が乱れる。世界がひっくり返り、まるで壁自体が重力を持ったかのように、男は壁に貼り付けられ身動きが取れなくなった。部屋の家具も飛び回っている。
「あなたがしたのよ! あなたが!」
怒りに満ちていたはずのその顔が今度は悲哀の色に染まる。老婆は一人涙を流す。溢れる涙を拭う所作だけを見ていると、まるでいたいけな少女のようだ。
「わ、わかった! 俺が悪かった!」
男は力を振り絞り声を出す。壁に情けなく貼り付けられているこの姿から、誰がこの男がかつて天才魔術師と呼ばれていたことを想像出来るだろうか。
ほどなく、老婆の感情の高ぶりが収まったのか、男はゆっくりと平常の重力世界へ帰還した。
「はぁ、はぁ。……この化け物め」
男は息を切らしながら、老婆の耳に入らない程度の小声で悪態を吐いた。
――どうしておれが、こんな目に。
男は数日前に思いを馳せた。
――――――――――――
「どけ! ウスノロ共!」
そう叫んだ男は純白のローブに身を包み、詠唱し終えた強大魔法を敵陣に向かい放った。
降り注ぐ火炎弾が魔物達を焼き払う。それに続けとばかりに一般兵士が剣を振るい、陣地を奪い返していった。
やがて、暴れ狂った魔物達の死体の山がそこかしこに築きあがり、戦場に平穏が訪れた。
「ふぅ、いや今日も助かったよ。セイル君」
最後方の陣営で、ただただ震えていた名ばかりの指揮官にそう呼ばれた白衣の男は「いえ、仕事ですから」と冷たく言い放った。
漆黒の髪を揺らし、指揮官のほうを振り向く。その眼光は鋭く、闇夜に獲物を狙うオオカミを連想させた。
「しかし、ここ兵隊はなんですか。全く使えないグズばっかりだ。あんな低級魔族の群れすら追い返せないようでは、ここも長くは持たないですね」と続ける。
「そ、そうは言っても、みんな一生懸命頑張ってくれているんだよ。こんな辺境の地にも魔王の眷属がひっきりなしに押し寄せて来て、みんな連戦で疲弊しているんだ。それに、そのためにトライアド直属特務兵であるキミの力を借りているんじゃないか」
取り繕った笑顔で指揮官がセイルに言った。
「ですが、私の任期は本日までです。今朝ほど、本部に帰還せよとの連絡が入ったのでね」
「そ、そんな! じゃあ、ここはどうなるんだ! キミなしでは次に攻め込まれた時にはひとたまりもないじゃないか!」
たわわに実った脂肪を揺らしながら、指揮官が必死で訴える。さながら、別れを切り出された恋人に縋るようだ。
「代わりの者を向かわせるということなので心配は要りません。ですが」
セイルがくたびれて腰を掛けている兵士たちを見渡す。
「まずは、兵士たちを鍛えなおすのが先決でしょう。あなたのそのオークのごとき醜い腹回りも、少しは削ぎ落とされてはいかがか?」
変わらず鋭い眼光で指揮官を睨みつけ、セイルは自身にあてがわれた小屋へと歩を進めた。
「全く、何だって天才魔術師の俺様がこんな辺鄙な町の防衛戦を担当しなければならないんだ、クソが!」
小屋の中に入りローブを投げ捨てた後、セイルは一人悪態を吐いた。
――まぁ、いい。明日からはきっと張り合いのある仕事にありつけるだろう。
期待に胸を躍らせながら、セイルはベッドに横たわりしばしの休息を取った。
翌日、本部からの使いと共に半鳥半馬の獣「グリフォン」の背に乗り、セイルは一路本部へと向かう。
心地よい空の風を浴びながら、少し上機嫌になったセイルは、運転手である使いに声を掛けた。
「君は、トライアドに入って何年になるんだ?」
「え? 私ですか?」
突然話しかけられ、少し驚いた様子の彼は、それでも手綱をしっかりと握り、前方に意識を集中させていた。
「ここには君と僕しかいないだろう?」セイルはお構いなしに続ける。
「はい、今年で三年目です」まだ少し、緊張した声色で運転手が答えた。
「三年か。僕が三年目の時には、すでに『コロッカ城奪還戦』の指揮を執っていたけどな」
「はい! それは存じております! エンペラーガーゴイル率いる魔物軍団から、最小限の被害で城を奪い返したと。あ、あの、実は私、セイル殿を尊敬しておりまして、セイル殿の関わった戦いは、すべて暗記しております!」
運転手は興奮した様子でそう言い、思わず後ろを振り返りそうになっていた。
「おいおい、運転には気を使ってくれよ。これから総司令に会うんだ。ローブが汚れでもしたら『完全無欠のように見えるキミでも、洗濯は苦手なようだね』なんて笑われてしまうじゃないか」
セイルはそう言って、笑みを浮かべた。
四方を海に囲まれた小島に、不釣合いに厳かで巨大な建造物がある。見ようによっては教会とも取れるその建物の正面には、大きな三角形が描かれていた。
セイルは正面玄関の広場に降り立つと、門番の二人に軽く手を上げ挨拶をする。門番もそれに応えるよう、敬礼をした。
門番の制服の前掛けにも、大きく三角形が描かれている。
「お帰りなさいませ、セイル様」
向かって右手の門番がセイルに声を掛ける。体格のいい四十過ぎほどの中年だ。
「またしても、やりがいのない任務だったよ」セイルが答える。
「いえいえ、セイル様の手に掛れば、ほとんどの任務が銀貨を十枚数えるほどのやりがいのなさとなるでしょう」
そう言って門番が大きく笑った。
「そうだな。次の任務はせめて百枚は数えさせて欲しいものだ。銀貨ではなく、金貨をな」
セイルはまた軽く手を上げながら、建物の中へ入っていった。
入ってすぐのホールは吹き抜けになっており、五十名ほどの舞踏会であれば、余裕で開催出来るだけの広さを誇っていた。
天井にはいくつかの窓があり、そこから差し込む光によって、ホール内は幻想的な明るさを湛えていた。
左右の壁際はカウンターのような造りになっており、その中ではトライアド所属の事務員達が、忙しく動き回っていた。
「あぁ、セイル様。おかえりなさいませ」
事務員の一人がセイルに気付き、声を掛ける。やせ型で丸めがねを掛けた男だ。
「やぁ、パッチ。調子はどうだい?」
「最近また依頼が増えましてね。派遣する兵力の選定やら、兵糧の確保、それに掛かる経費の算定と目の回る忙しさですよ」
パッチと呼ばれた男性がずれためがねを直しながら答えた。
「君も僕のような力があれば、その鳥小屋のような場所から羽ばたけるんだけどね」
セイルは手を広げ、羽ばたくような仕草を見せた。
「あなたのような? ハハ、ご冗談を。私にはこの仕事が性に合っていますよ」
乾いた笑いを漏らしながら、パッチは振り返り作業に戻っていった。振り返る間際、顔が苦々しく歪んでいたことに、セイルは気付いてはいない。
ホールを渡りきり、いくつかの廊下を抜け、一際大きな扉の前でセイルは一呼吸おいてノックをした。
「失礼します」
セイルが頭を下げ、入室する。部屋の中では、荘厳な椅子に腰掛け、見事に蓄えたヒゲをゆっくりとさすっている男がいた。年の頃合は五十そこそこといったところか。
ここに来るまでにすれ違った隊員は、みな白い制服に身を包んでいたが、その男だけは深い紺色の制服を纏っていた。
それだけで、その男が他の者とは異なる立場にいることが分かる。
「ご苦労だったね、セイル」
男が微笑みながら声を掛ける。
「いえ、あの程度の任務、これっぽっちの苦労もありませんでしたよ。ガルファス総司令殿」
セイルは肩を上げ、呆れ気味に答えた。
「そうか。まぁ、そうだろうね。君はトライアドの中でも腕利きの魔術師だ。あの程度の任務など、心配はしていないよ」
セイルは腕利きという言葉に引っかかり少しばかり表情を濁す。
それはまるで、自分自身が最上最高であるという自信の表れであるかのようだ。
「しかし、だ。いくら君でも、次の任務は少しばかり荷が重いかもしれん」
「荷が重い? そんな強力な魔物が現れたのですか?」
驚いた言葉とは裏腹に、セイルは少し笑みを零す。自分に倒せない魔物など存在しないと主張するように。
「君は、拘束魔法も得意だったな?」
「はい。低級魔族であれば百体は。魔王級を相手にしても、三日三晩程度であれば押さえつける自信はありますが……」
そこまで言って、セイルは何かを悟った表情になる。
「つまり、次の任務は倒すのではなく、生け捕りにしろと?」
「生け捕り……。生け捕りか。ふふふ」
セイルの言葉を聞き、ガルファスは笑みを零した。セイルはそれを見て困惑する。
「いや、すまない。君にお願いしたい任務は、【魔王の棲家】へ行ってもらうことだ」
「【魔王の棲家】ですって?」
セイルは初めて聞くその場所に戸惑いながらも、同時に胸が躍っていた。
ついに、自分の実力を遺憾なく発揮できる、輝ける場所を与えられたと感じていた。
「もちろん、大いに危険が伴う任務だ。君が希望するのなら、だが」
「希望します! むしろ、私以外の誰が担えるというのですか!」
珍しく、セイルの目が少年のように輝いていた。普段は暗く、鋭い刃のようなその瞳が、情熱の炎を宿し燃えていた。
「ははは、そうか。やってくれるか。それでは明日から向かってもらうことにしよう。今日は英気を養うといい。しばらくは、地獄の日々が続くことになる」
そう言ってガルファスは片側の口角だけを上げて不敵に笑う。
「はい! この稀代の魔術師セイルめが、どんな任務でもやり遂げてみせましょう!」
意味深な総司令の微笑みにも、セイルは気付くことなく喜び勇んで部屋を後にしていった。
「……さぁて、喰うか、喰われるか」
セイルが去った後、ガルファスは一人呟いた。
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