中原中也『都会の夏の夜』と詩の悲しみ

ジブン

中原中也『都会の夏の夜』と詩の悲しみ

 

  「中原を理解することは私を理解することだ。」


 『中原中也詩集』(1981、岩波書店)の編者であり、小説家、評論家である大岡昇平の言葉である。中原中也の魅力とはまさしくそこにあると私は思う。ここからは勝手ながら親しみを込めて中也と記述させてもらう。私が中也を知ったのは15歳の頃であったが、「汚れつちまった悲しみ」を自分の悲しみと感じていた。上記の詩集を手に入れてからは恥ずかしながら何度も中也の悲しみを利用した。1907年から1938年を生きた中也と21世紀を生きる私との間には、並々ならぬ隔たりがあることは確かだが、彼の言葉にはそれを飛び越える魔力がある。『中原中也再見 もう一つの銀河』(2007)において青木健は若い自己耽溺の渦中において、中原中也が自らの語りたい欲求を満たしてくれていた、と語っている。私も中也に自己を投影する人間はナルシストであると確信し、その一人であることを自覚する。 

 そうした中也の詩の中でも私の好きな『都会の夏の夜』を主に、この大岡昇平に「私を理解することだ」と言わしめた中也の言葉の魔力について考えていきたい。もちろん、詩の奥にある作家の生涯への憧憬に近い思いから考察してしまうことで言葉の可能性を奪ってしまうことを自覚しながらも、私の若さゆえの自己耽溺と詩人への思いから勝手に解釈することを許してもらいたい。


 月は空にメダルのように、

 街角に建物はオルガンのように、

 遊び疲れた男どち唱いながらに帰ってゆく。  

 ――イカムネ・カラアがまがっている――


 その脣(くちびる)は胠(ひら)ききって

 その心は何か悲しい。

 頭が暗い土塊になって、

 ただもうラアラア唱ってゆくのだ。


 商用のことや祖先のことや

 忘れているというではないが、

 都会の夏の夜の更――


 死んだ火薬と深くして

 眼に外燈の滲みいれば

 ただもうラアラア唱ってゆくのだ。


 この詩は1934年に発表された『山羊の歌』に収録された詩だが、1924年に制作されたとされている。これは中也が17歳の頃であり、上京とともに『詩的履歴書』において明言するように本格的に詩人として生きていくことを決意した時期でもある。したがってこの都市は東京であることが分かる。この頃の東京と言えば大震災の後、モダン都市としての歩みを始めた時期で、また一年前に中也が高橋新吉の「DADAは一切を断言し否定する」から始まる『ダダイスト新吉の詩』(1923)に感銘を受けたことも照らし合わせると、特有の虚無、疎外、孤独が表れていることは確かである。またこの頃に興り始めた実存主義のピリピリとした石ころのような自我の発見が表れていると私は思う。

 月がメダルのように見えるのは月という幻想がある種の悲しい現実の元に晒されてしまったことの表しているのではないだろうか。1969年に月面着陸を許し、白日の下になった月は完全に幻想を失う。しかしそれ以前にその予感は少しずつ幻想を奪っていったはずだ。SF作家である星新一が月の裏側を幻想的に描こうとしたが、技術の進歩によりロケットが到着することを予感して、そのアイデアを封印してしまったというエピソードがそうした事情を物語っている。中也は技術に対するダダイズム的嗅覚で、月という幻想をメダルという実存に変貌させたのである。ちなみに私がこの詩でまず思い浮かべたのはジョルジュ・メリエスの映画『月世界旅行』(1902)の、あの弾丸の刺さった白黒の月であった。幻想と技術の狭間で戸惑う中也の月は奇妙な視点から、私たちに再び空を見上げることを強要する。

 現代では聞きなれないイカムネ・カアラとは何だろうか。それはハイ・カラーのことであり、「イカムネ」とはタキシードである。それを着てラアラアと唱って帰って行く男たちは東京が変わってゆく中で、故郷を捨てモダンさを少し取り入れたサラリーマンを思わせる。―その心は何か悲しい―と中也が言うように中也はその男たちを見て悲しんでいるようだが、そこには自己へと返ってくる悲しさも感じさせる。その悲しさはどこから生じるのだろうか。端的にいうとそれは自我を獲得する課程の悲しみであり、その悲しみこそ自己省察の賜物ともとれるものだ。実存主義者のフッサールの言葉を借りると「認識する主観の認識」の孤独さとナルシズムである。ダダイストのデュシャンも「死ぬのはいつも他人ばかり」といったように自己を考える時、他存在との間にある深淵の孤独を見つめることになる。中也はラアラア唱って帰ってゆく男たちに大衆として生きることを辞め、個人として、詩人として孤独に生きることの悲しみを見たのではないだろうか。

 しかしながら、完全に詩人になりきれていない逡巡を私たちは感じることができる。そこが自己解体、あらゆるものの断絶を感じさせるダダ詩と違い、中也の人間味と現代の私を繋ぐ秘密があると思う。私は奇しくも同時期を生きたトーマス・マンの『トニオ・クレ―ゲル』(1903)と中也の接近を感じる。主人公であるトニオは幼少期に友人や好きな女性との相違もあり、詩的なものへ進み、孤独な芸術家になる。しかし女流画家に芸術家でなく道に迷った市民であると言われる。そこでトニオは反論を試みるが、自己を鑑みるために故郷に一度帰り、やはり市民を愛していて市民気質のまま詩を作ることを認める。中也の場合―商用のことや祖先のことや 忘れているというではないが―とあるように男たちを完全には他者として切り離せていない。それはトニオが市民でありながら詩人でもあるように、男たちが放埓の中でも商用や祖先の事を忘れきれないように。中也は後に『憔悴』においてこのような詩を綴っている。


 僕はあなたがたの心も尤もと感じ

 一生懸命郷に従ってもみたのだが


 今日また自分に帰るのだ

 ひっぱったゴムを手離したように

 ―――

 僕は美の、核心を知っているとおもうのですが

 それにしても辛いことです、怠惰を逭れるすべがない!


 中也にはトニオのような市民への憧れがある。だがこの憧れは詩人である悲しみと共に、俗な言葉で言うと特別であるというナルシズムと同居している。そこがランボーの詩などに見られる俗人からは手の届かない自己解体の純粋さでなく若さからくる自己耽溺を想起させるのではないか。そう考えると「汚れつちまった悲しみ」とは、そのような純粋さを持てないことを暗示していたのではないだろうか。それゆえに自己耽溺の渦中である私の中に入り込んできたのではないか。

 ―死んだ火薬と深くして―火薬とは爆発して消え去ることが目的である。死んだ火薬とはダダイズムへとつながる未来派のような刹那的、純粋な美しさや悲しさが自分には見いだせないことを予見のように感じる。最後に中也のように悲しみと孤独を見つめ、詩にも精通した写真家のジャコッメリに友人ピエトロ・ドンゼッリがおくった言葉で締めくくりたい。

「作家の歩む道は悲しみと苦しみばかりで、それは他者の悲しみを慰めるために生まれる。」



(注)詩は「大岡昇平編『中原中也詩集』岩波書店、1981年」より抜粋している。また中原中也の生涯は以下の参考文献や年表を参考にしている。


参考文献

中村駿『中也を読む 詩と鑑賞』青土社、2001年

青木健『中原中也再見 もう一つの銀河』角川学芸出版、2007年

疋田雅昭『接続する中也』笠間書院、2007年

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