明かりを待つもの

石川ちゃわんむし

明かりを待つもの

 昼だというのに空は少し暗かった。私が住処とするこの公園にも、空を舞うススのようなものが潜んでいるようで、いい気分はしなかった。申し訳程度にポツンとたたずんでいる滑り台は、今日も時間を持て余しているようだ。

 突然現れた彼女は、未だ私の目の前に立ちはだかったままだった。

 実際には、立ちはだかるというほど大きな図体ではない。むしろ私よりいくらか小さな体をしていた。敵意をむき出しにしているというわけでもなく、すました顔で私の方をまっすぐ見つめていた。

 そんな彼女を前にして、なぜか私の体は今までにない緊張を感じていた。公園から一歩踏み出してすぐ彼女と出くわした瞬間から、私はほとんど身動きできずにいる。前後両足の裏には、変な汗をかいているのも分かる。

 もちろんそんな私のことなど彼女が気にするはずもなく、彼女の真っ白な毛は太陽のように柔らかく光り輝いていた。

「拾ってくれませんか?」

 彼女はそう言って、あきらめ半分の顔で私を見た。怯えた表情に見えないこともない。

 拾ってくれませんか。

 さっきから同じことを繰り返すばかりである。阿呆の一つ覚えとでもいうのだろうか。

 しかし、私には彼女が阿呆のようには思えなかった。むしろ、私よりも多くを知っているようにさえ見えるのだ。頭の中をすべて見透かされているような、のどまで出てきた言葉を先読みされているような気がして、妙にむず痒い。もちろん、猫である彼女が「拾ってくれませんか」と頼み込んでいる私自身猫なのであって、その点では彼女は阿呆なのかもしれない。

 彼女の言葉には答えず、代わりに彼女の後方に目をやった。彼女は少しだけ身を縮ませる。

 あの、と彼女が存外落ち着いた口調で言う。

「やっぱり、逃げた方がいいんですか?」

 おかしいことを言うやつだ。まるで人間がどんなものか知らないとでもいうような口振りだ。飼い猫だったのであろうか。私よりは幼いように見えるが、人間を知らないほど幼い猫ではないはずだ。

「ここにいてもろくなことはない」

 私は少しずつ近づいてくる人間の声を聴きながら短く言葉を吐いた。人間たちは、何やら騒ぎを起こしているようである。

 彼女は人間の騒ぐ声を聴いてきょろきょろとあたりを見回した。人間に対するある程度の警戒心は持ち合わせているようだが、逃げた方がいいのかとわざわざ訊くぐらいなのだから、安心はできない。

「行くところがないのか」

 私は人間の喧騒の方向に目を向けたまま言った。物騒な音だ。

 彼女の頭が視界の端で縦に動いた。

 私は彼女に目配せして、公園へと引き返した。清潔な場所ではないが、住処へ引き返すことに抵抗はなかった。できることならずっとこの公園にいたかった。でも私はここを離れなければならない。不本意だが、生き延びるためだ。とはいえ、もう少しの猶予はあるだろうか。

 私は、彼女の微かな足音を聞きながら公園を歩いた。この公園は背の低い茂みが全体をぐるりと囲んでいるからか、ジメジメとした人気のない場所であった。草木は伸びっぱなしになっており、唯一の遊具である滑り台も蔓性の植物に浸食されていた。もはや本来の目的を失い、人間から見放された空間だ。でも、だからこそ私はこの空間が好きだった。

 数十メートルほど歩いた私は、公園の奥へとたどり着いた。公園の奥の、ちょうどよくぽっかりとあいた茂みの隙間が私の住処だった。

 私はそこにゆっくりとおさまった。彼女は、ぎこちなく私の正面に腰を下ろす。

「そこでいいか」

「はい、ここで大丈夫です」

 彼女の応対は至極丁寧であった。お辞儀なんかしている。どこで覚えたのだろう。

「あの、どうして外に出たら危険なんですか?」

 彼女は丁寧に座ったまま私に尋ねる。公園の外からまた賑やかな物音が聞こえた。

「人間がいるからだ」

「人間は、有害だと思いますか?」

 やはり彼女は阿呆だと思った。

 私は彼女を見た。彼女も私を見ていた。真剣に訊いているようだった。

 私はひゅーっと息を吐いた。彼女に息がかかったかもしれないが、特に気にしない。むしろ私だけ茂みに入り、彼女だけポツンと座っているこの構図の方が気になるが、私のねぐらなのだからわざわざ席を譲ることもない。私は口を開いた。

「私は、この公園を離れなければならないんだ。どうしてか分かるか」

 私の言葉に、彼女は戸惑ったように目を泳がせる。

「人間のせいだ。全部、人間だ」

 私はそう言って、決心とも諦めともつかない息をひとつ吐いた。私と彼女の間の空気が一瞬揺らいだ。彼女は、私の言葉に対して何も言わなかった。代わりに、彼女は私の足元に目を向けて言った。

「きれいな花が、咲いてますね」

 ふと目を落とすと、私の足元に数輪の小さな花が密集して咲いているのが見えた。彼女と同じ色をしている。少しだけ萎れてきているようにも見えるが、まだまだ凛とした姿は健在であった。いきなり話を変えたのは、少し重い話になったからだろうか。もちろん気休めではあるが、それでも私は少しだけ気分が良くなるのがわかった。

「きれい、だ」

 私の口からこぼれた捻りのない言葉にも、彼女は微笑みを見せた。

「こんなきれいに咲くのって、つらいでしょうね」

 私は、変わらない彼女の表情を見た。私にかみついた言葉ではなかった。突然こぼれた彼女の言葉は、世界のあらゆるものに向かってまっすぐ飛んでいく棘のようだった。

 そうかもな、と私はつぶやいたが、それが言葉になったかどうかはわからなかった。

 その時、唐突に金切り声が聞こえた。それとともに僅かながら地が揺れる。争いが始まったのだろうか。私は反射的に茂みに身を引っ込めた。驚いたのか、彼女も同様に茂みに突っ込んできた。勢いよく突っ込んできたものだから、外側がほとんど見えないところまで私は押しやられた。人工的というのだろうか、何とも言えない未体験のにおいが鼻をくすぐった。もちろん茂みというぐらいであるから隠れる場所としては適しているのだが、二匹一緒に隠れるのには少し向いていないようである。彼女の背中の白い毛が数本、私の顔を撫でた。

 やがて、馴染みのないサイズの気配が公園に駆け込んでくるのが分かった。彼女の毛先は震えていた。

「…ねえ、シロちゃん? 出てらっしゃいよ」

 人間の声がすごく明瞭に聞こえた。女性であるようだ。わざわざこんな人気のない公園にやってくるのだから、この人間の目当ては一つしかないだろう。それにしても、白いからシロちゃんとは、人間は己の単純さが恥ずかしくないのだろうか。

「…呼ばれているようだが」

「嫌だから、逃げてきたんですけど、ね」

 彼女はそう言って苦笑した。あるいは自嘲的な笑いであったのかもしれない。なんとも、猫らしくもない面持ちであった。

「やはり飼い猫だったのか」

「最後くらい、自分の好きなようにしたかったんですけど、やっぱり無理でした」

 彼女は小声でそう言って再び微笑んだ。無理して笑うこともないだろうに。

「最後と決まったわけではない」

「でも、最後と決まってないわけでもないでしょう?」

 彼女は言葉をこねくり回すようにすらすらと言う。

「もちろん、まだまだ生きていたいんですけど」

「私だって、死ぬまでは、生きたい」

「変な言い方ですね」

 そうして彼女はからからと笑った。

「でも、私もそうかもしれない」

 タイミングよく人間の声が途切れた。足音は聞こえるから、諦めたわけではなさそうである。

 彼女はそこで呼吸をした。私には、それがよく聞こえた。

「私、行きます」

 そうか、と私は少しかすれた声で言う。存外、寂しい気がした。つい先ほど出会ったばかりなのだから感傷に浸る義理もないはずだが、私は開放感とも虚しさともつかぬものを感じた。

 だから、と彼女は言葉をつないだ。

「だから、全部終わったら、また会いに来てもいいですか?」

 やはり、彼女はおかしいと私は確信した。「全部が終わった」時には、私も彼女も終わっているのだと知っているだろうに。しかし、私は彼女に何も尋ねなかった。ただ、こちらを向いた彼女の黒い目を見て、おもむろにうなずいただけだった。

 シロちゃ~ん、という声が再び聞こえる。彼女はわざとらしくにゃあと鳴いてみせた。人間の声色が変わったのが、猫の私にも分かった。

 彼女は鳴き声を上げた後、再び私に目を向けた。改めて見れば、大きくて黒い、魅力的な瞳であった。対照的に真っ白な体は、茂みの中でさえ清らかに見えた。

 彼女は私に短く礼を言い、私に微笑んだ。その瞬間、彼女は猫であった。

 これが最後であったとしても、それでいいような気がした。

 そして、彼女はついに茂みから飛び出した。それは、彼女が猫を捨てた瞬間だったのかもしれない。私とのあっさりと交わした困難な約束を果たしに行った瞬間だったのかもしれない。私の住処に何かが足りないと気付いた時には、彼女はもう人間のもとへと走り去っていた。

 外から聞こえる人間の声に耳を傾けることはしなかった。茂みの隙間から顔をのぞかせて彼女の姿を見守ることもしなかった。ただ、私は彼女の幸せを願うことしかしなかった。

 その途端、私の後方から立て続けに二度大きな破裂音が聞こえた。続けてわずかに揺れる地面。ある程度距離はあるようだ。茂みの向こう側に、彼女の気配はなかった。

 私はその場で丸まった。その間にも三度の破裂音と奇声。

 落ち着くまではしばらくここにいよう。ただし、ここが安全なのも今のうちである。もうすぐこのねぐらを離れなければならない。感傷的にはならなかった。唯一気になったのは、彼女は私を見つけられるだろうか、ということだけであった。

 私は地面に体をくっつけたまま、地面の揺れに耐えた。

 全身を揺らす音は、地球の咆哮に聞こえた。

 この町にも、戦争が来る。



 林を抜けたあたりで、ようやく焦げくささはなくなった。

 私は、静かに息を吐いた。何かが焦げたにおいを振り払っても、空気の冷たさがなおも鼻に突き刺さったままだ。しかし、右後ろ脚を引きずり右目に傷を負った私にとっては、なぜかそれすらも心地よかった。

 もう少し、散歩しよう。私は首を回してぐるりと公園を見渡した。そもそもここが現在公園として使われているかどうかも定かではないのだが、公園の定義など今更どうでもよい。どこへ行っても、今や本来の役割を果たしている公園はほとんどないだろう。

 わざとらしく植えられた芝生に一歩踏み出して動きを止めた。若干緑過ぎること以外は、猫の私にとっても居心地が良かった。今日は良い天気である。風も気持ち良い。山茶花だろうか、ほんのり花の香りもする。足りないものはいろいろあるというのに、よい日和だ。

 公園には、見渡す限り、灰色の石のプレートが等間隔にいくつも埋め込まれていた。プレートは私の体と同じくらいの大きさで、石板にはそれぞれに名前が書かれているらしく、その多くには花の束が添えられていた。一望すると花畑のようでもあるが、弔いの花なのだから不謹慎かもしれない。朝露であろうか、あちらこちらで朝日が飛び跳ねるように輝いた。

 公園をぐるりと一周してみようか。少しは冷静になれるかもしれない。元気の良い芝生を足の裏に感じながら、私はまた歩を進める。やがて、手前の墓標に目を留めた。周りの墓には花が置いてあるのに、一つだけ彩りが欠けていた。無縁死者というやつだろうか。あるいは家族もみな巻き込まれたのかもしれない。別に気に掛ける義理もないのだが、私は引き寄せられるようにその墓に歩み寄った。

 墓地の隅、忘れられたように設けられた墓に見えたが、墓標は比較的綺麗だ。戦争が終わって数週間は経過したはずだから、誰かが定期的にやってきているのかもしれない。何やら文字が並んでいるが、もちろん私にわかるわけがなかった。

「飼い主さんですか?」

 突然の呼びかけに、私は驚いて毛を逆立てた。しかし、無用な警戒であったとすぐにわかった。

 メスの白猫がこちらを向いてたたずんでいた。少し驚かせてしまったらしい。目を丸くしている。どこかで見たような顔をしているが、すぐには思い出せなかった。連れはいないようだ。警戒心は全くないらしく、まるで今までずっとそこにいたかのようにちょこんと座っていた。私はゆっくりと息を吐き出す。風船がしぼむように、私の体も緊張を吐き出して小さくなっていくような気がした。

 彼女は、私が聞いていないと思ったらしく、もう一度同じ質問を繰り返した。私は首を横に振り、そして「見知らぬ人だ」と付け加えた。

 優しいんですね。ぽつりと言って彼女は墓標に視線を落とす。うつむいた彼女の背中は朝日をそのままはね返しているかのように白かった。

 約束していた人が、いたんですね。

 彼女はそんな言葉をそっとこぼした。聞きたくない、というように御影石がその言葉を吸い込んだ。不意に訪れた静けさの中、墓標は黙ったまま涙を流した。

 しばらくそれを見つめていた彼女は、やがて口を開いた。

「私、約束をしていた人がいたんです」

 もちろん人じゃないですけど、と冗談っぽく彼女は笑った。私が彼女の方に目をやると、それを待っていたように彼女は続けた。

「戦争が終わったら、会いに来ますって、約束したんです。ここで」

 彼女はぐるんと公園を見渡す。つられるように私も首を回してみるが、もちろん先ほど見た光景と何ら変わりない。視界の端に見えた彼女の瞳が一瞬光った。目を移してみると、彼女の大きな目は彼女の体とは対照的に黒く、魅力的であった。

 そこら辺にいる野良猫とは違うと、私は感じた。

「ちょうどあなたのような毛色でしたよ」

 彼女は私の方をまっすぐ見て言った。でも、という彼女の言葉を私が引き継ぐ。

「目に傷はなかった、と」

 ええ、と彼女は微笑んでうなずいた。先が折れ曲がったひげを揺らして、私はわずかな寂しさを振り払う。

「その相手は、生きているのか」

 口に出した瞬間に愚問だったとわかったが、彼女は柔らかい表情でそれを受け止めてくれた。

「わかりません」そして深く息を吸い込んで続けた。「でも、きっと忘れていないと思うんです。私がそうであるように」

 だから、生きていなくても。彼女はそこで疲れを絞り出すように息を吐いた。

 先の戦争は私たちが思っているよりも長かった。もちろん短いものだと思っていたわけではないのだが、二年間も続くと分かっていたら、それなりの行動をしていただろうと思う。今更どうこう考えたところで、もちろん無意味だ。

「実は、私もなんだ」

 私の言葉に、彼女はくりんと器用に首をかしげて見せた。

「私も、ここで会おうと約束した猫がいるんだ」

 私は一息に言葉を吐き出した。自分でも意識しないうちに言葉が震えている気がしたが、彼女だから、そんなこと気にしないだろう。「生きていればいいんだが。飼い猫だったから力尽きているかもしれないな」

 彼女にわざわざ言うこともなかったか、と思った。ただ、分かっていてほしかったのも事実であった。

「私だって、飼い猫でしたよ」彼女は得意げに言い、機嫌良さげにしっぽをぱたんぱたんと動かして見せた。

「飼い猫の方が人間のことをよく知っているから、すぐ死ぬようなことはないと思います」

 そうか、と答えるほかなかった。ずっと人間を避けて生きてきた私にとって、人間とともに生きることは未知であった。

 もはや、人間を避けては生きていけないのかもしれない。

 彼女も、二年の間にいろいろと学んだことだろう。

 でも、と彼女は続ける。

「たくさん、なくなってしまいましたね」

 彼女は先ほどの墓標から視線を動かさなかった。「たくさん」の中の一つを、その成れの果てを、ただじっと見つめた。

 そうだな。私の言葉は声にならなかった。

 ただかすれた息がひゅーっと漏れただけだった。

 本当に、たくさん、たくさん。こんなにたくさん。人間たちは何がしたかったのだろう。

 沈黙を待っていたかのように、遠くで犬の鳴き声がした。続けて聴こえるのは人間の声。子どもの泣き声のようである。家族で来ているらしい。気付けば、空気は少しずつ暖かくなっていた。これから人間がたくさん押し寄せてくるかもしれない。

「これからどうするつもりだ」

 彼女は重力に任せるように、ゆっくりと首を横に動かした。

「わかりません。でも、もう少し待ってみようと思います」

 彼女の心は変わりにそうにないと、すぐにわかった。あの時の約束を愚直に守ろうとする彼女の姿は、やはりただの猫ではなかった。

「あなたは、どうするんですか」

 はっきり言ってやろうか、とも思ったが、必ずしもそれが良い選択とは限らないだろう。彼女が約束したのは目に傷をもつ猫ではない。私は深く息を吐いた。そして、返事の代わりにわざとらしくのどを鳴らした。

 彼女は笑顔になって、同様にのどを鳴らす。

 あの時から足りないままだった何かが心を温めるのが分かった。世界はこんなに変わってしまったのに。

 私は思い出したように、朝露をまとったままの墓標に再び目をやった。

 もう少しだけ、ここにいてやろう。私は目を閉じた。

 彼女の気が済むまで。彼女と約束した「猫」がやってくるまで。

 優しく息を吐いて、顔を上げる。

 朝の日が私たちを照らしていた。

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明かりを待つもの 石川ちゃわんむし @chawanmushi-ishikawa

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