第10話 ティータイム
静かな湖畔の森深く、声を立てれば、よく響く。
彼女の声は、洗濯場よりももっと湖に面した木陰から聞こえた。
ブレッツェルは井戸のポンプを押して手を洗った。土汚れが綺麗になってゆく。
木陰の下には、もともとは美しい白木だったのだろう、古びた木材を規則正しく敷いたテラスが。今にも床が抜けそうだった。樫の木の丸テーブルを挟んで、向かい合わせに椅子が二つ。いろんな形の焼き菓子が並ぶケーキスタンドに、大皿と、陶器の茶器が並んでいる。
ブレッツェルはハンカチで手を拭きながら、テーブル横にいるクレアのもとへと歩いてきた。彼女はまるで自慢の我が家へと招待するかのように、椅子を丁寧に引くと庭師を座らせた。
「おやつがてら、軽食にしません? ビスケットはお好き?」
「焼いたんですか? こんなにたくさん」
「いいえ。私、お恥ずかしながら料理はからっきしなの。食糧庫から持ってきましたわ。遠慮なく食べてね」
よく見ると、木の後ろにお菓子の空箱が何個か積み上げられている。隠しているつもりらしい。
「お茶のご用意だけは、これ以上ないほど整ったの」
「僕は鼻と舌が効かないので、せっかくのお茶の味もわからないのが残念です」
「あら、鼻づまり?」
「いいえ、半永久的な」
ブレッツェルは湿布越しに鼻筋をなぞった。
クレアが形の良い金色の眉毛を寄せる。
「まあ、そうだったの……。私のお料理はどれも安全ですから、安心しておかわりなさって」
さも手作りのように言っているが、有名どころの市販品をそのまんま並べている。
風が吹き、森の木々が葉を揺らす音が、耳の良い青年にはっきりと聞こえる。遠くで水音が鳴り、だれか水辺にいるのかと、振り向いた。
クレアもつられて振り向くが、そこには誰もいなかった。もう一度ブレッツェルの横顔を確認して、再度同じ方向に目を向けるが、やっぱり何もいない。
「どうかされまして?」
「いえ、今、水音が……きっと小魚でも跳ねたんでしょうね」
「ええ、きっとそうですわ。ここで不自然な物音を立てるものといえば、あなたと私と、それから屋敷を囲む大自然だけですもの。ミントのお茶はお好き? 料理は苦手だけれど、お茶は自家製なの。ミント系は世話が簡単で、すぐに地面いっぱいに増えますのよ。若々しい黄緑色の小さな葉っぱで、すっきりする味ですわ」
「今日ほど鼻が利かない自分を、呪ったことはありません」
「ふふ。ミントの香りで、お鼻も通るかもしれませんわ」
彼女は自らも椅子を引いて座った。主人にお茶を淹れる堅苦しい作法ではなく、友人と対等に語り合うような気楽さで。白いカップの中で若々しいミントが香る。
彼女の表情に浮いていた陰が、少しだけ和らいでいた。
「旦那様のお部屋には行きまして?」
「はい?」
「私の
「就任初日で、解雇されるような真似はできませんよ。旦那様のお部屋に、何か見てほしいものがあったのですか?」
「ええ。私が手掛けた人物画が、たくさん飾られていますのよ。どれも私の、全く知らない人。名前は、マイケルさんでしたかしら、国内外で人気がある男性らしいですが、この森で私を偶然に発見して、助けに来てくれるお暇な時間は、ない人なんでしょうね」
ブレッツェルは白いカップの取っ手をつまんで、ミントティーを一口飲んだ。鼻腔がすーっとする感覚はあるのに、味はしない。舌の上を熱い湯がころがる。飲みこむと喉があったまった。
「ミヒャエルさんという人は、デコイで、吸血鬼
「あら、ドイツではそのように発音なさいますのね。イギリスではマイケルさんとお呼びするのが一般的かしら」
また一口飲んだ。鼻は通らなかった。
「ブレッツェル、あなたが私に掛けたこの洗脳は、どうか解かないでくださいな。私が誰かのモノになった姿を、旦那様がどのような気持ちでご覧になるのか、見てみたいんですの」
彼女は片手でビスケットをつまみ上げると、一口かじって、ソーサーの端に置いた。
ブレッツェルはテーブルの上を眺めた。ニンニクも、銀の毒も、この体は平気であった。しかし、これ以上何かを口にしてよいものかと思案する。
「……やはり、お気づきで。僕があなたを食べるかもしれないとは思いませんでしたか?」
「彼女を襲ったせいで、弱ってらっしゃるんでしょ? 今なら私の細腕でも、投げ飛ばせるかもしれませんわね」
ふふふ、っと笑う彼女は、どこまで本気で言っているのかわからない。成人男性を投げ飛ばせるほど腕力があるようにも見えない反面、屋敷の家事を一人でこなす体力はある。
さらにブレッツェルのことを、ちっとも怖がっていない。それどころか、自ら休憩に呼び出す始末である。
全てが冗談だということにして、ブレッツェルはこれ以上、自分について話すのはやめにした。
「クレアさんはここで働いて、どのくらいになりますか?」
「二年よ」
「二年もおひとりで、ここに?」
「ええ。毎日すっごく大変」
彼女は深緑色の瞳を伏せて、深紅の口紅に彩られた唇を白いカップにつけて、喉を潤した。
「時間の感覚が街とずれてしまった気がするわ。ずっと同じことを繰り返しているとね、だんだん、時間が早く感じるの。いつだって、朝がすぐに来るし、いつだって、お昼の時間に感じるし、いつだって、夜になっている気もする。いつもとおんなじ。何も変わらない」
「森が時間の感覚を、狂わせているのかもしれないですね。ここは、街の喧噪とあまりにかけ離れていますから」
「寂しい女だと、思われますか?」
「退屈しているなら、旦那様にかけあって、お出かけに連れていってもらうとか。工夫ならいろいろとありますよ」
「……」
彼女の視線がブレッツェルから逸れて、遠くの緑を眺めた。
「毎日、どんなおやつにしましょうかとか、食事の献立はどうしましょうか、とか、たった一人で考えていると、だんだん自分のことがどうでも良くなってきますの。休む暇がないほど忙しいのを当たり前にして、それがいつもと変わらない日常だと偽って。いつだって気がつくと朝で、お昼で、そして夜になってますの」
彼女が三度ほど高速でまばたきした。
「あなたの言うとおり、こんな所に長く居るせいね。人の多い場所は刺激であふれているけれど、そういった場所から遠ざかると、若くてもこうなってしまうのね」
彼女はぬるくなったお茶を一気に飲み干して、一息ついた。ポットの取っ手を片手で掴むと、カップに豪快に注ぐ。
「ずっとここで、こうしているわけにはいかないって、頭ではわかっているんだけど、いつも仕事を見つけては、自分に言い訳しているの。『私は忙しいから、この場を動けない』って」
「戻りたいですか? 街に」
「……いいえ、戻れないわ。その……私、街で問題を起こしてね、顔なじみが多いから、街にはいられないの」
クレアはカップのお茶を、自然に飲んだ。
「……今は、役割を与えられて、それをこなせるだけの能力を発揮しているのが、精一杯」
不満はあるのに、ここを出られない。だから自分を忙しくして、日々を過ごしているのだと言う。
クレアのグチは同じ内容を繰り返すばかりで、けっきょくなんの事件を起こしたのかは、教えてくれなかった。
彼女はただ、昔のことを思い出すたび、ため息をつきながらカップの水面を眺めていた。
ポットのお茶が、からになった。お茶請けは半分ほどに減ったが、とても食べきれる量ではなく、飲み物がなくなった頃合いが、二人の会話の切り上げ時となった。
「お話できて楽しかったわ。休憩時間は、あっという間ね」
ほとんどクレアのグチに終わったから、ブレッツェルは自分の身の上話をしなくて済んだ。
「ブレッツェルは、このあと何をする予定かしら?」
「温室の中と、外にある花壇の花の配置と、花の咲き具合を計算して、土作りに取りかかります」
ミシミシバキバキ、という怪しい軋みを上げて、温室の壁が骨組みごと破壊されてゆく。それが耳の良いブレッツェルに聞こえてしまい、少年とともに内心慌てた。
クレアに気づかれたかと顔色を盗み見ると、彼女は肩をすくめながら、お茶会の片づけをしていた。
「私は夕飯と、洗濯物の取り込みですわ。あ、ここの片づけは私がやっておきますので」
「いいんですか?」
「慣れてますわ。今更だれかに助けられては、調子が狂うもの。どうか気になさらないで」
お言葉に甘えて、ブレッツェルはゆったりとした足取りを演じつつも、内心急いで温室へと戻っていった。
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