第9話   僕(しもべ)を救いに

 彼のしもべが飢えに苦しむ事態は、ブレッツェルとその少年をのぞいて、滅多に起きたことがない。


 蔓薔薇つるばらつたに覆われた窓を見上げて、暖かいココアのカップのふちから、真っ赤な唇を離した。


 真昼間にも関わらず一匹の蝙蝠が、羽音も立てずに窓の外に姿を見せた。日差しに焼かれて体の輪郭があやふやなモヤになり、今にも崩れ落ちそうである。


 彼が銀の睫毛で目配せすると、窓が独りでに開いて、小さな使者を私室に招き入れた。蝙蝠は差し出された片腕に留まると、現王に深くこうべを垂れた。


 その小さなひたいに、薄いまぶたを閉じた現王の、真っ赤な唇が触れる。蝙蝠の体を形成していた少年の血液が、現王のたったの一吸いで崩れ落ち、二回りほど縮まった。


「……これはまた、相当に弱って」


 その身にブレッツェルが付いていながら、狩りの下手なのが一向に直らない。舌に広がる甘い味と、心配になるほどの薄い魔力に、何を求めて使いを出したのかが手に取るように伝わってくる。


 これを飛ばしたのは、少年の身を案じたブレッツェルだ――


 現王はとても小さくなった弱々しい蝙蝠に、再び口を付けた。有り余る魔力を注ぎこまれて、瞬く間に本物の大蝙蝠と見紛う姿に変わった。


「きみに運んでほしいモノがある」


 ピンクの鼻先を向ける蝙蝠に、現王が手の平から手品のように取り出したのは、裏も表もどす黒い鮮血でべったりと濡れたカード、一枚。大きさはトランプゲームに使う物と大差なく、しかしその模様は裏表ともに不気味なほど緻密に描かれた心臓。ゆっくりと、脈打っている。


 蝙蝠は両足の指で器用にカードを掴むと、開いた窓から空へと飛び去った。


「……」


 彼は窓枠に手をついて、蝙蝠が見えなくなるまで見送った。


「ブレッツェル、ウィル……早く帰ってきてね」



 蝙蝠は森の奥地にひっそりとたたずむ、大きな屋敷を目指して飛び続けた。どんなに日光が背中を焼こうが、どっしりと重量ある蝙蝠の形を保ったまま、裏も表も鮮血に濡れた奇妙なカードを配達してゆく。


 やがて見えてきた湖の水面の輝きを見つけると、頭を下げて急降下した。


 岸辺の生臭い藻に覆われた柔らかな土に、足で掴んでいたカードを、ぐっさりと差し込む。


 乾くことのない血塗れのカードの、心臓の模様がどくどくと激しく脈打ち始める。不浄な血液は地面に広がり、辺りが血色に染まり、カードは血の海へと溶けて沈んでいった。


 人の形を取りながら、血の海から白い腕を出して這い上がってきたのは、血濡れのウエディングドレスをまとった、小柄な少女だった。真っ赤な双眸そうぼうで、辺りを素早く見回す。血に覆われた緑色の藻と、うっすら赤く染まった水面が、きらきらと日光を跳ね返していた。


 反射する日光に顔をしかめながら、少女は湖に浮かぶ犠牲者を凝視した。スカートの端を引きずって、裸足でゆっくりと近づいてゆく。


「…………」


 カーテン一枚巻いた裸婦の、細いうなじには、太い釘で穿たれたような穴が二つ開いている。


「…………」


 少女が見つめる穴二つから、双葉が生えてきた。



「あれ? あんな遠くに」


 ブレッツェルはひび割れた温室の中を片付ける手を止め、遠くで右往左往している少女に手を振ってみせた。しかし気づいてもらえず、明後日の方向へと歩いていってしまう。


「あらら……そのうち、気づいてくれるでしょう」


 とりあえず温室中に散らかっている物を、まとめて外に運び出し、同じ大きさの物は重ねて積み上げていった。


 そうしてるうちに少女がこちらに気づいて、血塗れのドレスを揺らしながら走ってきた。よく見ると蝙蝠が先導している。


 少女は途中で形を崩し、雑草だらけの地面にどす黒い血液をぶちまけて消えた。


 入れ替わるように、温室に敷かれた石畳の隙間から血生臭さが立ち昇る。


 ブレッツェルの足元に、たくさんの双葉が生えてきた。ぎゅうぎゅうに生えている雑草を押しのけて、どんどん葉を、体積を、増やしてゆく。


「お掃除していてよかったです。重たい植木鉢が乗っていては、さすがに生えづらいでしょうから」


 植物が成長するまで、まだ少し時間がかかる。日影に座ってのんびり待っていようかと思っていたら、


「ブレッツェルー! 手を洗ってきてくださいな、おやつにしましょー」


 クレアに呼ばれてしまった。


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