第8話   次のゴールは温室

「衰弱しきった今の我々には、クレアさんの洗脳を解くほどの力が残っていません。これは由々しき事態です。ここで二人とも共倒れするのは、あまりに忍びない。ハア〜、仕方ありません、本当にこの手だけは使いたくないのが本音ですが、今回だけは、現王に助けてもらいますよ、いいですね?」


 少年が大変戸惑っている。現王の施しを受けるたび、いつか少年の自我が消える。ただただ現王に従うだけの存在となる。そうなったら、同じ体に同居している青年の自我は、どうなってしまうのだろうか、前例がなくて誰にもわからない。迷いに迷い、少年は最終的に、しっかりとうなずいた。自分のことよりも、青年の身を案じて。


「では、とりあえず先にクレアさんと再会しましょうか。ずいぶん待たせてしまっています」


 青年は少年を励ましながら、廊下を歩きだした。



 広い屋敷にこだまする、紙の破れる音。そして、導くように散らばる、紙片。


「暗黙のルールです。他の吸血鬼のしもべを横取りする事は、非常に下品な行為とされているんですよ。クララさん、じゃなかったクレアさんは、もしかしたら……手をつけてはならない人だったかもしれませんね」


 心配する少年を励ますように、青年は自身の胸を撫でた。


「本日中に、彼女の洗脳を解いてあげましょう。初めから出会わなかったことにして、あきらめましょう。現王からの施しがあれば、しばらくは我々も動くことができますから、街などに移動してどなたか探しましょう」


 窓から見える景色に、だんだんと見覚えが。少し遠くに、あの湖が見える。


「ここまで来れば、なんとなく道もわかります。あのメイドが私たちのために物音を立てたとは考えませんが、良い道標にはなりましたね」


 ブレッツェルと少年は、外から聞こえるガシャガシャという忙しない音と、不定期に弾む水音を怪訝に思いながらも、音に導かれて、スズラン型のベルいっぱいの勝手口から、外へと脱出することができた。


 彼女は井戸のポンプを手動で動かして、大きな木の桶に水を入れていた。銅製のポンプの赤褐色の表面は、緑色に錆びている。


 大量に鳴ったベルの音が、すでに彼女に全てを知らせていたらしい。彼女はあっさりとブレッツェルを見上げた。


「ふふ、ゴールインおめでとう、ブレッツェル」


「それは井戸ですか? クレアさん」


「そうなのよ、不便なのですわ。水道が通ってないわけではないんですけども、台所にほんのわずかな細さでしか出ないんですの。体を洗うだけでも大変ですわ、水をためてお湯を沸かして……あ〜街でのシャワーが恋しいです」


「お手伝いしますよ」


 ブレッツェルが近づくと、クレアが数歩下がって距離を取った。


「あなたは温室を下見してくださいな。これからあなたの仕事場となるのですから。道具類は、温室の付近の納屋に揃っていると思いますわ」


 今度は温室だと言う。


「うふふ、新しい人が来るなんて初めて聞きましたから……今日中に館をお掃除して、あなたのお部屋のベッドも整えておきますわね」


「僕も手伝いますって」


「あら、まだどこに何があるか、わからないでしょ? お姉さんに任せなさいな、弟くん」


 温室は屋敷の裏に建っていると言うので、ブレッツェルはさっそく向かってみる……その前に、少し質問してみた。


「旦那様は、どうしてこのような場所でお暮らしなんでしょうね。僕、聞かされていないんです」


「あら、気になります?」


「クレアさんも、こんなところで就職されていたら、人に会うのも大変だろうなぁと思いまして。出会いも限られてくるでしょう?」


「そう、です、わね……ここに来る異性と言えば、旦那様しかいませんわ。他には、女性の患者さん達とか」


「患者さん?」


「旦那様から聞いていませんの? 彼はお医者さんですわ。病院の治療では改善が見られない患者さんは、ここに隔離することがありますの。 彼女も患者の一人なのです。いつも錯乱していて、でもきっとお腹が空いたら戻ってきますよ」


 この建物が、そのような役割を持っていたとは。ブレッツェルはちょっと意外に思い、そして訝しんだ。こんなにも奥まった辺鄙な場所では、患者の家族がお見舞いに来られない。さらにクレアが屋敷と患者達の世話を一人でするなんて、無理なのではないか。世界中の治安が悪化している中、ましてやこんな大きな屋敷である、暴漢に見つかればひとたまりもない。



「でもまあ、私たちはもうすぐここを出ますので、深入りはしませんがね」


 館の裏は、手入れが間に合っていないのか、背の高い雑草でぼさぼさになっていた。館から少し離れた位置に、古びた温室が建っていた。天井が高く、ガラスの壁はひび割れの泥まみれで、中に一輪の花もない。


「良いお天気ですね」


 肌を刺す日差しを少しでも防ごうと、道具置き場の倉庫から、作業着の上着だけを羽織った。土埃まみれでブレッツェルは咳き込む。おっきな麦わら帽子もかぶって、まるでカカシのような出立ちだった。


「現王の力を借りるのは、これで何度目になるでしょう。あまり借りると、貴方の自我が薄らいでしまう。それだけはイヤなんですよね、私。話し相手が、いなくなってしまいますから」


 ブレッツェルは木漏れ日の下から空へと、白くしなやかな指先を伸ばした。その片手の平から赤黒い霧状の蝙蝠が一匹、いっときのかりそめの命を持って、現王の元へと飛び立っていった。


「彼に我々の窮地が伝わるまで、少々時間がかかるでしょう。それまで、ここで遊んでいましょうか」


 そう言いながら、ほとんど廃屋と変わらない温室に振り向いた。ざっと中の様子を眺める。置いてある数多の植木鉢やプランターに中身はなく、石畳の隙間から雑草ばかりが生えて荒れ放題。割れて散らばるガラスの破片もそのままに、静かに日差しを浴びている。


 ブレッツェルは割れた壁から、室内へと入った。


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