第6話 旦那様の部屋
「彼女、ずいぶんと明るくて、積極的な性格ですねぇ……」
枯れ草模様の絨毯も、壁紙も、天井の造りまで、どこまでも似たような景色ばかり。こんな迷路の中で嫌味なほど明るい女性に翻弄されて、すこぶる疲れてしまった。
「お顔も美人さんですから、他者から一度も好意を向けられなかったとは、考えにくいですね……恋人の一人や二人、いたかもしれませんし、現在も婚約者が待っているのかもしれません」
青年の中にいる少年が、熱心に話を聞いていた。肉体は青年が動かしているから、少年がしゃべる事は無い。ただ少年が抱く不安や懸念が、青年の中に流れ込んでくるのみである。
「もしも彼女が、我々の糧にならないのならば、ここで私も、そして私と体を共有している貴方も、命運尽きてしまうでしょう。数百年もの間、共に旅ができて楽しかったですよ」
土で薄く汚れた白いシャツ越しに、青年が別れをほのめかすと、少年がすごく絶望したのを感じた。人間誰しも死にたくないものだろうが、この少年の場合は、独り残しては気がかりな身内がいる故、このままひっそりと滅んでいくのが不安なのだろう。
優しい子だと、青年は思う。
「冗談ですよ。まだ望みはあります。こんな
そう言って少年を励ますものの、やはり確信もないのに噛むことはできない。今度こそ動けなくなって、日差しに肌を焼かれながらじわじわと土に還ってゆく末路である。
「ハァ~、しかし困りました。でもクレアさんしか近くにいませんし……」
古びた扉の取っ手に、わずかに人間の手の油がついて、光っていたり、サビが取れていたり、そんな細かい部位を観察し、当たりの扉を引いていく。
「他に打開策が無いわけではないのですが、私が個人的に、避けたい方法なんですよね。とても楽な解決法ですが、何度も実行していると、
この少年を人間に戻す日まで、絶対に守り抜く。それがこの体に入ったときからの、青年の意義であった。
「あれ……? こっちの扉でしたっけ?」
似たような特徴の扉が並ぶ小部屋に出てしまった。明らかに道を間違えた気がして、引き返す青年。もしも彼の嗅覚が鋭ければ、日々人々が行き交う道に、染みついた人間の匂いをたどって、外まで到着できたことだろう。
迷子になってしまった。
「……館内案内図とかありませんかね」
無いだろうなぁと思いながら、あちこちの扉を開閉している間に、またビリィッと耳障りな音が、聞こえた。人為的に紙類が破ける音、それが鳴らせるのは、この屋敷に一人しかいない。
「何をしているんでしょうね、彼女。他に道標もありませんし、物音がする方角を目指して歩きましょうか」
廊下には粉々に破られた紙屑が落ちており、何かの包装紙の裏側を利用して、絵を描いていたようだった。ブレッツェルが試しに紙片を組み合わせてみると、魔除けの陣のような図面が現れた。
「見覚えのある図面ですね。クレアさんが描いた油絵の魔法陣と、同じもののようです」
枯れ草模様が延々続く絨毯の上には、点々と、紙屑が小山を作っている。ブレッツェルはそれら紙片も、あまり時間をかけずに簡単に組み合わせてみたら、またも陣が現れた。
なぜ屋敷中の退魔の魔法陣を、破り捨てて回っているのか。
「……今の彼女は私の洗脳を受けて、恋人感覚に陥っています。その彼女が私に気に入られようと、このようなことをしているのだとしたら……彼女は僕が人間でないことに気づいているのかもしれませんね」
再利用した包装紙が、ひときわ散らばった付近に、ピアノブラックカラーの洒落た扉があった。どこも古びた木目の目立つ扉ばかりの中、これだけが豪華な金縁。これ見よがしに、特別な地位に立つ住人の部屋だと主張している。
怪しい反面、この部屋の周りが厳重に魔法陣に囲まれていた理由も気になる青年は、扉に近づいてみた。
「……ここは、屋敷の主人の部屋ですかね。ちょっと入ってみましょうか」
少年が猛烈に反対しているが、青年はどこ吹く風でドアノブに片手を掛けた。
「クレアさんと話を合わせるために、主人について調べておくのは必要なことですよ。我々は、本当に雇われた庭師では無いのですから、ボロが出ては怪しまれますよね」
この体の主導権を青年に預けている以上、少年に止める術はなかった。
「失礼いたします」
ノックの代わりにドアノブをガタガタさせて、解錠してしまった。
室内の広さは、青年の部屋の五倍はあった。どれも豪華な金縁付きの上等な家具ばかりで、全てピアノブラックで統一されている。
ガラス張りの戸棚には、若い女性と思しき頭蓋骨が、所せましと並べられていた。頭蓋骨の大きさ、歯の並び方、歯のすり減り方で、ある程度は青年にも判別できる。
部屋の奥には、大きな窓があった。分厚い灰色のカーテンに覆い隠され、わずかな日の光が、窓辺からふかふかの絨毯を照らしている。
「この統一感と洗練された調度品の数々からして、旦那様の部屋で間違いないようです」
少年が慌てふためいている。どうやらピアノブラックな色合いに、苦手意識があるようだ。
「旦那様はカンテラが苦手で、メイドから魔除けの魔法陣を描かれるほど愛されていて、そして今は、お留守です」
部屋の隅に、長方形の鏡が立っていた。青年の、否、少年の全身が映る。
「吸血鬼は鏡に映りませんが、人間のふりをするためには、姿見や洗面台を整える演技も必要不可欠です。なぜならお洒落な紳士というものは、鏡が大好きなのですから」
ジャケットのない、白いシャツを着た小さな少年の首筋には、噛まれた跡の、二つの小さな穴が開いている。子供の牙だったから、とても小さく、間隔も狭いため、青年がほくろだと嘘をついたら通用するほど目立たなかった。
至近距離で直視されたら、さすがに穴だと気づかれてしまうが。
青年は自身の首筋に開いている穴のあたりを、片手で撫でた。指の腹で、二つの凹みに触れる。噛まれた側の人間は、このような傷を一生涯背負う。もう少し目立たない後ろ側にあれば良かったと思った。
「鏡に、十字架。私と貴方が平気な物は、わりと多いです」
鏡の中の少年に向かって、青年は独りで語りだす。
「鼻が利きませんから、ニンニクの強烈な臭いも不快ではありませんねぇ」
青年は白いシャツの中から、鎖で首に下げていた銀色の十字架を取り出した。人間だった頃の少年が、吸血鬼からの護身用に身に付けていた、心の拠り所であった。
「私は神様の救いを信じています。鏡の中の貴方に会えるのは、そのおかげかもしれません」
護身用の十字架は効果がなかった。銀のナイフも効かなかった。けっきょく、少年は噛まれてしまった。
そして、ずっと一緒にいてほしいと、すがられた。小さくて無力で、柔らかな手の持ち主から。
「あがける道が残されているのなら、私はなんとしてもあがいて、貴方のために前へ進みます。神様に、救いを求め続けます」
噛まれたら、噛んだ相手に隷属するように思考が変わってしまうという。少年は今の自分が、はたして本当の自分なのか、わからなくなっていた。
「この身に起こったすべては、私と貴方が成長する機会、そして神様からの思し召しです。まあ、イヤんなるくらい神様を恨んだことも、いっぱいあるんですけどね」
鏡の中に佇む自分に会えるたびに、少年は自分が自分であることを、強く信じた。まだ化け物に変わったわけではないのだと、強く信じることができた。
「さてと、まずは旦那様がどのような職業に就いているのかを、探ってみましょう。仕事を自室に持ち帰る人だと、わかりやすくて良いですね」
黒っぽい家具以外は、絨毯も壁紙も、暖炉の灰のような色だった。全体的に暗色系統の部屋だ。黒光りするローテーブルには飲みかけのグラスどころか、雑多に散らばる本もなく、激しさを感じるほどの几帳面な整いぶりだった。
メイドが毎日掃除しているのか、埃も積もっておらずピカピカだ。
分厚い革製の、ベッドの代わりにもなりそうなソファーと、黒光りする一刀彫りのローテーブルの間という狭い隙間を無意味に通り抜け、壁際の黒い本棚に収まった本の背表紙を、上から下までざっと眺めた。
「医学書、ですかねぇ、これは。外科なのか内科なのか、精神科医なのか……つまり人間のいろいろな部位に興味がある人なんですね」
一見しただけでは、どの科の専門なのかわからなかった。アルファベット順の並べ方が、余計に見づらくしている。
「旦那様は医学書収集家なんでしょうか。もっとよく調べてみましょう」
無遠慮に大きく一歩踏みだして、部屋の一番奥の、大きな文机の前にやってきた。引き出しの中身でも確認しようと思っていたら、
「おや?」
文机の上に、厚手の紙が一枚。
それはドイツ語で書かれたカルテだった。患者の名前と、顔写真が貼られている。
白黒写真だが、蠱惑的に細められた大きな双眸と、みずみずしくふっくらとした唇が、出会う者の心をあますことなく惹き止める、大変魅力的な青年が微笑んでいる。
ブレッツェルよりも、彼の中にいる少年のほうが、写真の青年に釘付けになっていた。とても驚いているようだ。
「この男性に見覚えがあるのですね?」
ブレッツェルはカルテを手に取り、ドイツ語の走り書きを眺めた。名前欄には、ミヒャエル・フランボワーズと読める。生年月日から逆算して、現在二十二歳。職業欄には、デコイ、銀翼の天使団、俳優、モデル、狙撃手とある。
「銀翼の、天使団……」
ブレッツェルは、顔写真をじっくり観察した。
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