第5話   ブレッツェルの部屋

 メイドが案内した先は、これまた年季ねんきの入った木製の扉だった。


「鍵穴、錆びてますわね。開きますかしら……」


 案内しておいて、メイドがこんなことを言いながら鍵穴をのぞきこんでいる。しゃがんでいる彼女のスカートを踏まないように、青年は距離を置いて後ろに立っていた。


 メイドが鈍色にびいろの錆びた取っ手をつかんで、「むんっ」と右回転させようとりきんだが、びくともしなかった。


「開かないみたい。困りましたわね、台所用品を持って来ますから、ここで少々お待ちになってね」


「ご心配なく、お姉さん。握力なら自信があります」


「あら」


 ブレッツェルは笑顔で彼女を立ち退かせると、ぼろぼろの取っ手に細い指をかけ、軽くひねった。

 回らない……しかし取っ手から指は、まだ放さない。青年には、否、青年を含めた家族には、どんな鍵でも開けてしまえる特技がある。強く引っ張ったり、上下に揺らしたり、鍵穴の奥のわずかな物音に聞き耳をたてながら、錠前の仕掛けにものすごい圧をかけて、ブレッツェルは扉を開いてしまった。


 はたから見れば、わずかな物音を立てながら乱暴に金具を揺すったようにしか見えず、メイドが青い目をぱちくりしている。


「開きましたよ」


 ブレッツェルは部屋には入らず、彼女に先を促した。


「器用なんですのね……頼もしいですわ」


 メイドはしげしげと取っ手を眺めた後、部屋の中へ足を踏み入れた。


 湿気しけたカビ臭い空気に歓迎され、メイドがせき込む。


 ブレッツェルは胸ポケットから白いハンカチを取り出して、口と鼻を覆った。鼻が利かないので、カビの臭いまではわからないのだが、埃は、吸いたくなかった。


 左手側に、埃の載った衣装箪笥だんすと文机一式、右手側には、一睡もしたくないほど埃に覆われた寝台があった。奥には窓があるが、ぶ厚い灰色のカーテンが覆い隠しており、本当にわずかな日の光が、カーテンのすぐ下を弱々しく照らしているだけだった。


 他には、なにも無い。


「この屋敷には、足元を照らす道具はありませんの。活動するなら、朝とお昼にお願いしますわ」


「大丈夫ですよ。僕は夜目は効くほうですから」


「あら、危ないから、夜は部屋で寝ていてくださいな。カンテラなら準備できますけど、旦那様は夜に明るいのが苦手なんですの。夜中にカンテラをぶら下げて歩いているのがばれたら、どうなるか知りませんわよ」


 そう言いながら、メイドは何かを捜すように中腰になって寝台に近づくと、


「無いと思ったら、こんなところに挟まってましたわ」


 寝台と壁際の隙間から、一枚の楕円形の鏡を引っ張り出した。


 鏡は、壁に掛けるための紐がちぎれていた。メイドはブレッツェルに振り向いて、鏡を見せた。


「鏡をかけるなら、壁のどこらへんがいいかしら? 紐は新しく用意しますわ」


「衣装箪笥の扉の裏側がいいです。できますか?」


「ええ。お安い御用ですわ」


 楕円形の鏡面には、不安そうに青年を眺めている、茶褐色の髪の、小さな少年が映っていた。ブレッツェルと同じ鼻の位置に、湿布を貼っており、子供特有のか弱い雰囲気をまといながらも、小さな牙が、見えないように、その口を一文字に引き結び、押し寄せる辛い現実から目を背けないという揺るぎない芯の強さを、その目に宿していた。


 吸血鬼は鏡に映らない。けれど、傾けられた鏡面には――いつもこの体の本当の持ち主の顔が映る。


 ブレッツェルは湿布がずれないように、毎日、鏡で確認しながら貼ることができた。正確には、この子供の顔を丁寧に手入れしてあげてるに近いかもしれない。彼は子供が好きだった。


「僕は鏡に映ったときの、自分の姿を見つけると、お、って思います」


「お?」


「僕は神様を信じています。たぶん、鏡に映る自分がいるのは、そのおかげかもしれません」


 メイドは不思議そうに、鏡を自分自身に向けて眺めた。メイドの顔が映るだけで、別段、変わったところは見られない。


「あなたまさか、宗教の勧誘者ですの? 意外ですわねぇ」


「勧誘してるつもりはないですよ。ただ自分が熱心に信じているだけって話です」


「ふーん」


「まだあがける道が残されているのなら、僕はなんとしてもあがいて、前へ進みます。神様に、救いを求め続けます。たとえこの身が、世界に歓迎されない体に変化しようとも」


「……」


「この身に起こった全ては、自分が成長する機会、そして神様からの思し召しです。まあ、イヤんなるくらい神様を恨んだことも、いっぱいあるんですけどね」


「そんなものですわ、宗教なんて。感情全てを自分の同意で埋めるなんて、できませんもの」


 彼女は胡散臭そうな顔した傍聴者から、ようやっと笑顔に戻った。


「神様にもきっと、お許しになる場合と、そうしない場合がありますの。ようするに運ですわね」


「そうかもしれませんね」


「あら、いけないわね、新人くんの前で愚痴っちゃって。ここが良い職場でないのがバレちゃいますわ」


「もう遅いですよ」


「ふふふ、じゃあまたの機会に、長々と愚痴っちゃおうかしら。一人の時間が長かったせいかしら、誰かとのおしゃべりが楽しいですわ」


 彼女は白いエプロンと黒いスカートを揺らしながら衣装箪笥の扉を開けると、その扉の裏にあるネクタイかけに、鏡の裏にあった金具を引っ掛けて吊り下げた。


「でーきた」


 たったそれだけで、すごく嬉しそうに、彼女は青年に振り向いた。


「お次は、あなたの寝台を整えることと、お部屋のお掃除ですわね」


「手伝いますよ」


「ありがとう。でも私一人で大丈夫ですわ」


 彼女は空いた両手いっぱいに、シーツをくしゃくしゃに丸めて抱え込んだ。


「では新人さん、私からも試練ですわ! 自分の力で、外まで脱出してくださいな」


「え」


「あなたは庭師でしょ? 屋敷の中と外を往復する機会がとても多くなりますわ。さ、練習あるのみです!」


 というわけで、ブレッツェルは一人で迷路を突破する羽目はめになったのだった。


「え……どっちでしたっけ……?」


 血が足りなくて元気が出ない状態で、のろのろと扉を開けたり閉めたり……匂いさえ判れば、今頃は彼女に見切りをつけて旅を続けることだってできたのに。だらだらと長居したせいで、この場の一抹の望みに賭けてしまうほど衰弱してしまった。


 ……鼻が利かないままに飢えるのが、ブレッツェルを、そして少年を、いつも苦しめていた。小さな子供や、赤ん坊を襲ってばかりになってしまうから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る