第4話   お屋敷をご案内

 青年がかけた洗脳のせいで、彼女が軽い恋愛関係のような心地よい距離感に浸りきっているとはいえ、それに合わせていた青年は、作り笑顔で口角が痛くなってきた。

 普段から笑みを浮かべているような表情なのだが、飢えと渇きで踏ん張りが効かなくなってきたせいか、相手に合わせた表情を作るのも大変になってきた。


 数年前までピアノ線だらけだったという薄暗い廊下を、二人して安全に通過した後、彼女は角を曲がった。


 なんとなくブレッツェル青年は、警戒して立ち止まった。彼女のみが角の先へと進んでゆく気配がする。


「まだ罠とかあるんですか? クララさん」


「あら、私はクレアですわ?」


「あ、失礼」


 どうにも血が足りなくなると、この体の産まれ故郷の訛りが出てしまう。どんどんアラが出るブレッツェルに、メイドがころころ笑った。


「もしかして、お腹すいてらっしゃるの?」


「えっ?」


「簡単な物でよろしければ、持ってきますわ。あとでいっしょに食べましょう」


「ええ」


「それと、この辺りには罠はありませんわ。画廊代わりの、ちょっとした憩いの空間となっていますの」


 その言葉が本当かどうかは、進んでみなければ、わからない。

 青年は廊下の角を曲がってみた。前を歩く彼女の表情は、青年には確認できない。


 少し、目眩がしてきた。普段はこれくらいの射光程度では、まいったりしないのに。


 処女以外の血液では、彼の一部として吸収されず、体の不調は治まらない。


 今、肝心なことは、このメイドが食用になるかどうかのみ。


 彼女の言動に困らされるのも、あと少し……になればいいとブレッツェルは願った。



 薄暗い廊下を照らす、窓からの温かな光が、どこまでも薄ぼんやりと青年の意識を導いてゆく。


 角を曲がるメイドについて行ったら、これまた隙間なく壁に絵画が飾られた廊下に出た。木彫りの額縁には、果物や鳥が彫られていて豪勢である。


「美術館みたいですね」


「そう? 楽しんでもらえたら、嬉しいですわ」


 メイドが嬉しそうに、振り向いた。


「私が描きましたのよ。最初はただの気晴らしだったのですが、いつの間にか、こんなになってしまって。その……どう思われます? どこか、おかしな部分はないかしら」


 もじもじと長い髪を耳にかけながら、メイドが不安そうな面持ちで彼を見上げる。耳元で動かされる彼女の手には、暗めの色彩の油絵の具が、わずかに付着していた。


 ブレッツェルは壁にかかった大きな絵画を見上げた。暗いルビー色ではなく、漆黒色の光彩を、とある一点に留めて、ふぅん、とあごをなでた。


「これは、明るい陽射しの差し込む、緑色の濃淡が美しい森の絵ですね。ところどころ、不自然ですが」


「え?」


 それはどういう意味ですの、とメイドが言い終わらないうちに、青年は絵画にさらに顔を近づけた。


 効かない鼻の上の湿布を、片手でぽりぽりと掻きながら。


「枝葉が不自然に編み込まれて、うっすらと円陣を作っています。絵の中に大きな魔法陣が、隠されていますね」


 確認するように青年が横目を向けると、メイドが青い目を見開いて、手は心臓を守るように胸の前に置いていた。


「な、なんのことかしら。あなたは、葉っぱなどの集合体を見ると、何かの図面が浮かび上がって見えるお人なのかしら?」


「そうかもしれません」


 青年の興味は、となりの絵画に移っていた。


「こっちの絵は、秋の森ですね。……あ、見つけましたよ。これも、よく見ないとわかりませんが、落ち葉の中に隠された魔法陣が」


 メイドがあわあわと慌てている。


「どうか旦那様には秘密にね」


「お約束します、たぶん」


「もう、意地悪ね。旦那様を怒らせると、あなたも仕事がやりづらくなりますのよ?」


「なぜそこまでして、魔法陣を描くのです? あなたが解雇宣告を受けても、僕、庇えませんけど」


 青年に不思議そうに見下ろされて、メイドの青い瞳が右往左往した。


「その……旦那様とは特に問題はないのですけど、ときどき、ものすごく喧嘩してしまって……。嫌がらせもこめて、いつも絵のどこかに描いてしまいますの。旦那様が苦しめばいいのに、って」


「苦しみましたか?」


「いいえ。やっぱり、怪しい本に載ってた図面を、見よう見まねではね……効果はありませんでしたわ」


「飾るのは、クレアさんのお部屋の中じゃダメなんですか?」


「……」


 メイドは後ろ手を組みながら、歩きだした。

 前を行っているので、後ろ姿だけでは彼女の胸の内は読めない。


 青年は深追いしなかった。


 先を行くメイドは、廊下の曲がり角で消えたかと思うと、顔をひょっこりと出して、青年が追いつくのを待ち始めた。


「魔法陣の件は、おいおい説明しますわ。さあ、あなたの部屋はこっちです。ちょうどいい空き部屋がありますの」


 彼女とずいぶん距離があいてしまっている。青年は急ぎ足で廊下を歩いた。


 彼女が曲がり角へ、顔を引っ込める。ちょっとイタズラっぽく笑いながら。


 ガチャッと、音が鳴った。

 青年にはなんの音か、わからなかった。


「あれ?」


 角を曲がったら、誰もいなかった。

 一本道の広い廊下には、ところどころ、小さな文机に乗った可愛い花瓶が載っている。


 そして、古びた木造の扉が、壁いっぱいに並んでいた。


「クレアさん?」


 どうやらメイドは、この扉のどれかに隠れてしまっているらしい。


 突然始まったゲームに、青年は唖然としていた。


 適当に開けても、はずれの部屋ばかりに当たっては、時間を食う。だからと言って、一から順に調べるのは面倒臭い。


(ああ、また目が回ってきた。早く新鮮な血が欲しい……)


 青年は聴覚を研ぎすませて、半径約五十メートル以内の息づく者全ての気配を探った。


 ……いた。一三番めの扉の辺りから、呼吸音がする。


 青年は怪しまれないように、適当な扉を開けて間違えたふうに装いながら、じょじょにメイドの部屋へと近づいていった。


「ここですか~?」


 一三番目の扉を開けたら、細長い廊下につながっていた。そして壁いっぱいに扉が並んでいる。


「あれ?」


 呆然と廊下を歩きだす青年の、すぐ左横の扉が開いて、メイドが現れた。


「ふふふっ、驚きましたでしょ?」


 十三番目の扉の奥の、そのまた左横の扉に、彼女は隠れていたのだった。


「ここは昔、魔物の侵入を恐れるあまりに造られた、隠し部屋や罠だらけのお屋敷だったんですの。旦那様が買い取った時点で、すでに老朽化がひどくて、今では入れる扉はわずかしかありませんの。他の扉は、たぶん一度入ると、錆びたかぎのせいで閉じこめられてしまいますわね」


「僕が誤って閉じこめられるとは、考えませんでしたか?」


「あらー、それは盲点でしたわねー。いざとなったら、台所の調理器具をつっこんで救出しますわ」


 無言になるブレッツェルだったが、その反応すらも楽しいのか、メイドはご機嫌ではしゃいでいる。


(楽しそうですね……。僕を好意的に思うように洗脳したせいでしょうが、こんなに楽しそうにしている相手は、初めてですね)


 メイドは安全に開閉できる扉を青年に教えてから、奥の扉を開けて、次の部屋へと進んだ。


 その部屋も、また細長い廊下につながり、壁には扉がいっぱいあった。


「……まるで迷路ですね」


「あなたが泣きべそかいて私に頼る日が楽しみですわ」


「すぐ覚えてやりますよー、こんな道くらい」


「次は奥の扉ではなくて、左手の、奥から三番目の扉から行きますわ」


 メイドの案内のもと、よく似た部屋と、たくさんの扉から正解を覚える、その繰り返し……。


 辺りを眺めるブレッツェルの顔が、みるみる曇る。屋敷の奥へ奥へと進むたび、方向感覚が狂わされてゆくのを感じる。


 今、屋敷のどの辺りにいるのか、わからなくなってきた。


(さすがは、対魔物用の要塞です。ここに本格的な魔法陣や、十字架が置いてあったら、まずいですね。迷っている間に、弱らされてしまいますから……)


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