第2話 森の中に隠された屋敷
「あんな格好で、どこに行ったのかしら……」
黒を基調とした古風なメイド服の女性が、細い
「早く見つけないと、旦那様が――」
「おはようございます」
柔らかなテノールが聞こえた。
メイドの前方に、黒のずぼんの膝部分だけを泥だらけにした青年が立っていた。
「お、おはよう……ございま、す」
去年の枯れ葉が土に還ってゆく腐葉土の香りにまじり、血生臭さが漂っていることに気づき、メイドは体も声も、緊張のあまりに
「あの……わたくしに、何か?」
「少しお時間、よろしいですか?」
青年は紳士な笑顔で、泥だらけの靴先を、一歩踏み出した。
その一歩は、彼女の予想を大きく上回り、目の前まで顔が迫ってきた。
黒い両目が出口のない暗闇のように、彼女の
「ギャアアアアア!」
一瞬のことだった。
暗いルビー色の輝きが、彼女の両目深くに入りこむ。
メイドは倒れ、倒れてもなお、両目を腕で
助け起こそうとする青年の手を振り払って、地面を這ってでも距離を取ろうとする。
「いや! いやあああ!」
武器になりそうな物を手探りする両手は、
やがてメイドは静かになった。
自分が何を必死に捜しているのかも忘れて、地面に座りこんでいる。
「あら……? わたくし、なんで座ってますの……?」
白いエプロンまでべったり泥がついている。洗濯したばかりの物に着替えねばと、立ち上がろうとした、そのとき、
「大丈夫ですか?」
視界の端から、そっと片手が、差しのべられた。
メイドは呆然と、その人物を見上げた。
青空と木漏れ日を背景に立つ、茶褐色の髪の青年が、心配そうな顔で自分を見つめている。
メイドは差し出された青白い手に、自分の手を重ねた。
「ええ、ご親切にどうも」
ちょうどいい力加減で、引き上げられた。楽に立ち上がることができて、この紳士的な青年との出会いに、彼女は微笑んで感謝した。
「お恥ずかしいですわ、こんなところを見られて」
「ただの通りすがりですから、気にしないでください」
青年はちょっと屋敷のほうを眺めた。
「もしかして、あのお屋敷の人ですか?」
「ええ」
メイドも屋敷をちょっとだけ振り向いて、また青年を見上げた。
「何かご用かしら?」
「じつは先日、お屋敷のご主人から、庭師として雇われたんです。先に屋敷へ入っているようにと、
「まあ、そうでしたの。助かりますわ」
メイドが両手を合わせて喜んだ。
「このお屋敷、わたくし一人が切り盛りするのは大変でしたの。嬉しいですわ。あ、そうです、あなたのお部屋を用意しなくっちゃ」
「え? お部屋、ですか?」
青年が遠慮がちに後退りするのを、メイドが手を掴んで引き戻した。
「まさか、ご自宅からこんな場所まで、通うおつもりではないでしょ?」
「そう、ですね。不自然ですよね……」
「いいんですのよ、こういうときは
メイドは愛らしい笑顔で胸を張ると、先導するように前を歩きだした。
着衣についた泥を、パンパンと手で払いながら。
「わたくしはクレア。クレアと呼んでくださいな」
「では、僕のことはアイスバインと」
「あら、アイスバインさんね? ふふ、ドイツに留学していた頃に、そのような名前のお料理があったような」
「はい、ドイツの肉料理ですよ。僕、アイスバインの見た目が好きなんです」
青年はすっとした鼻筋を覆う白い湿布の上から、ちょっと皮膚を掻いた。
「……ちなみに、家族も僕を食べ物にたとえていました。ブレッツェルと」
「あら、可愛いあだ名ですわ。でも、男の人を食べ物の名前で呼ぶのは、ちょっと恥ずかしいですわね。なんだか、恋人みたいで」
「お屋敷はあなただけなんですよね? では、肉料理呼びでも、弟呼びでも、いいじゃないですか」
来て早々、生意気な軽口を叩く彼に、メイドは無表情で振り向いた。
青年も無表情だった。
やがて互いに、ニヤッとした。
「わかりましたわ。アイスバインと呼ばれるのがお好きなのね」
「はい、ぜひ」
「ふふ、でもわたくしは意地悪ですから、ブレッツェルとお呼びしますわ」
長い亜麻色の髪を耳にかけながら、メイドが強気に微笑んでいる。ブレッツェルで譲らなさそうだ。
「では、今日から僕はブレッツェルです。よろしくお願いしますね」
青年は、ふと、このメイドがここまで移動してきた理由が気になった。屋敷から走ってきた様子だったが、それは誰かを追いかけてのことだったのではないかと予想する。
「誰かお捜しだったのでは?」
「ああ、彼女なら……おてんばな性格ですもの、お腹がすいたら、きっとお戻りになりますわ」
カーテン一枚まいて森を全力疾走する女性は、たしかに、そうとうなお転婆だ。
ここら一帯の治安が、素晴らしく良いと言えるのならば、本当にただのお転婆騒ぎで済まされたかもしれない。
「さ、行きましょうブレッツェル」
嬉しそうなメイドの小柄な背中が、先を行く。
さっきの少女の血といい、次こそ慎重に選ばなければ、体調を崩して意識を失う……。青年は笑顔でいながらも、非常に神経をとがらせながら、彼女の後ろをついていった。
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