白蛇の瀧

@simanakamituru

白蛇の滝 


                            島中 充

       一              

 中国山地のなだらかな山の中にその滝はあった。落差が七十メートルを越える白蛇の滝。水の落ちるさまがその名の由来である。

 滝の奥深くに鍾乳洞があり、白い大蛇がそこに住んでいるからだと言う村人がいた。

 底知れぬ緑の滝壺から渦を巻いた清流は、秋には紅葉の渓谷を、瀬と淀を繰り返しながら、春には桜並木の堤に抱かれて、翡翠のように美しい川とほめ称えられ、翠川と名付けられている。 

 翠川は山々の間を蛇行しながら、古生代からその姿を変えないカブトガニの生息する瀬戸の多島海に素足のまま入って行く。

 浜辺からかすかに潮騒の聞こえる河口、巖(いわや)国(くに)には白へび神社がある。十数匹の白い蛇が数十年、いや何世代にもわたって彼方からの伝道師として祀られている。

 白い蛇は青大将の白子(シロコ、アルビノ)で、おぞましいほど白く、細い舌と目は血が透いて真っ赤。ガラスの檻の中で鎌首を持ち上げ枝分かれした赤い舌を出している。容器の幅はゆうに五メートルを越え、隅から隅へ思いのほか素早く蛇はくねって移動している。しめ縄のように縺れ合いながら二匹が絡んでいるものもいる。交尾しているのかもしれない。目のくらむような白く艶やかな蛇たちはガラスの中でヌルッとした光沢に輝いている。

 人々は決してそれを見つめはしない。見つめれば、心を惑わされ、蛇神に取りつかれる。


 アルビノは本来劣性遺伝(遺伝的に発生しにくい)で体毛や皮膚は白く、自然界では発見されやすく、他の肉食の生き物の獲物とされることが多い。生き残り生存している個体は極めて少ない。

 だがここ翠川流域では、白兎、白山椒魚、白蛙、白猿などが生存していたと記されている。ことに白蛇は信仰の対象になっていて、この地方で大切にされてきたのであろう。驚くほど多く生存している。


          二


 夏の夕暮れ、森から扇状地へと流れる翠川をしばしば白い蛇が体をくねらせながら渡るのを見ることがある。怪しい美しさが白い絵の具を流したようにエメラルドの川面に描かれ、農夫や木こりたちを驚かす。木々の茂みや草藪に隠れ、白蛇はひっそりと赤い舌をだしている。


 少年の家は山のふもと、谷深い翠川の上流にあった。川に沿って、林道を奥へ奥へとのぼって行くとかずらで作られた二十メートルほどの吊り橋がある。橋は深い谷に掛けられていて、十五メートルほど下に、清流が岩を蹴り、渦を巻きながら流れていた。

 ここからは、かつて森に閉ざされ、人の訪れることを拒んだ武者たちの隠れ里である。吊り橋は一族を皆殺しにしようとする追手から逃れるためすぐに切落とせるように蔦かずら(つる草)で作られていた。左右に大きく揺れる梯子状の橋で、真下には奔流が見えている。

 足を滑らせば岩に叩きつけられ、赤い血が筋を引いて流れて行くだろう。

 橋を渡ると、けものみちと言ってもいい湿った細道になる。覆いかぶさる木々の枝をかき分けて進むと、谷の奥から冷たい風が吹いてくる。遠くにサァーサァーと潮騒を聞くような耳鳴りがする。

 森を抜けると突然眼の前に田畑や不思議なたたずまいの家々があらわれた。

 四、五坪の数十の小さな棚田とそれに囲まれた集落が川霧、白くかすんだ緑の中に浮び上がってくる。

 萱造りの二十軒ほどの民家が川沿いに数珠(じゅず)繋(つな)ぎに建ち、集落の中央あたりに、村おさの屋敷だろうか。ここだけが瓦屋根の武家屋敷になっている。屋敷には翠川から水が引かれ、錦鯉のいる池とそれを囲んで縁側が設(しつら)えてある。

 すぐ隣には赤い鳥居があり、本殿だけの小さな神社があった。

 神社から谷の奥、大剣山を見上げると200メートル先、真正面に水しぶきを白く上げる白蛇の滝が見える。しゃがんで女がいばりするように山の中腹、黒い玄武岩の割れ目からいきなり地下川が噴き出し、滝になって流れ落ちている。ザァーというかすかな音が村のどこにいても聞こえる。耳鳴りのように。

 集落の一番奥、岩のせり出した行き止まりが少年の家である。少年の名はみつるという。家は代々神社と山の世話をする木こりの家系である。  

  

 我ら、尼一族の武者達は妻子を連れ、城に火を放ち、命からがら南へ、緑の森の奥深くへ落ちのびてきた。いまだ足の踏み入れたことのない水の流れる谷の奥へ、一族は四方を敵に囲まれながら、水の流れだけを頼りに川上へ、川上へ甲冑を脱ぎ捨て落ちのびて行くしかなかった。水に濡れた苔の生えた岩肌に足を滑らせながら這うように進んでいった。女子供とて同じである。泥まみれになりながら這って逃げた。殺されたくはない、これ程辛いなら死んでもいいと思いながらそれでも進んだ。もう幾日も食べていない。木の根や木の実を食ってはすぐに吐いた。

 草の覆う岩の隙間から何匹もの蛇が湧いて出てくる。落ち武者の水を踏む足音に驚いて出て来る。巣があったのかもしれない。大きなヘビが何匹もの子蛇を連れている。真っ白な蛇がいた。子蛇たちを武士たちは素手でつかまえた。尻尾をつかみ岩に打ち付けた。蛇は口から赤い命を噴き出し、だらりとなった。ウィーッと鳴く蛇がいた。ひとりの武士が大きく口を開いてそいつの頭をかじった。食いちぎった頭をぺぇとせせらぎに吐いた。母親と思しき白蛇が、蛇行しながら向かって来る。武士は大刀を抜き一息に首を切った。のたうつ胴から赤い命が筋を引いて流れた。

 頭上ではキィーキィー森を揺るがす悲鳴が聞こえる。木々を揺らしながら野猿が叫んでいる。一族は猿に向かって、弓をつがえた。鉄砲を撃つことはできない。音を出しては、追手に居所を知らせることになる。猿たちはキィーキィーと泣き叫びながら木から木へ飛び移り逃げて行く。木の枝から枝を伝って谷川を越えて逃げなければならない。木が揺れ、森が揺れている。子供ずれの母猿を狙った。枝から枝へ飛び移ろうとする。母猿は渡ろうとして、ひるんでいる。子ザルを抱いて。あれなら弓で打ち抜くことが出来る。

 一族は月あかりの中で、丸く群れ集って捕まえて来た蛇を食った。

 蛇の頭を落とし、干し魚を齧るように皮が着いたまま齧ってみた。生臭い味がする。血の味がして皮が硬くて噛み切れない。くびの切れ端から簡単にずるりと蛇の皮を剥ぐことができる。まるで着ている衣服を脱がせるようにたやすく。剥いた皮には内臓も一緒に付いてくる。白蛇の長い腸からは溶けかかった小さな蛙が何匹も出てきた。

 吐きそうになりながらそれでも食った。

 人の形をした物は鋸をひくように小刀で何度も行き来させ首を切り落とした。落ちくぼんだ猿の眼に血が溜まっている。首を切り落とすと急いで足を高く持ち上げ、木の枝に逆さに吊るした。首から血を抜いた。

 血の気の抜けた猿の体は筋肉質で皮には脂肪はほとんど着いていない。皮はミカンの皮をむくように簡単に剥ぐことができた。桃色の肉を小刀でうすくけずった。はぎ取った肉を犬のように生のまま食う。

 武士たちも女たちも嗚咽していた。

 残ったものは枝につるして、干し肉にした。明日への食料にした。


 尼一族はこうしてどうにか生き残った。立ち止まったこの谷底の窪地を住みかとした。アケビ、キイチゴ、ブナ、キノコや昆虫、かえるやトカゲ、川魚などが一族の食料になった。ことにこの辺りに多く繁殖していた蛇や山椒魚はうまかった。城から持ち出した財宝は何の役にも立たない。

 食べ残した魚や獣の骨、箸一本たりとも川に物を流すな、立ち上る煙には特に気をつけろ、川上に暮らす者がいることを麓の里のものに悟られてはいけない。村から出るな。それが掟であった。ただ時折、里を抜け出して塩を買い求めなければならなかった。


 翌年、白い蛇を殺した武士に白い子が生まれた。祟りに違いないと思われた。

 祟りを恐れた一族は谷底の窪地に祖先と白蛇をまつる小さな社を建てた。


 江戸時代にこの村は川を流れて来た蒔絵の箸のために、上流の山に煙が登ることがあるという里の者の知らせで発見された。

 明治時代には川に橋がかかりトンネルが出来きて、村は他の地域とようやく頻繁に交流するようになっている。


        三


 村おさのひとり息子で、二十歳の武史に召集令状が来た。

 武史が徴兵で南の島に来たのはまばゆく陽が照り輝く美しい5月である。

 紺碧の空、水平線の向こうまで果てしない水色の海。海岸にはヤシの木が茂っていた。背後には富士山より高い4500メートルの山、熱帯なのに山の稜線が白く光っている。雪が降っているのかもしれない。雪のような気がした。なんて美しい熱帯の島であろう。

 足もとからはるかに続く砂浜に、一日中、さざ波が打ち寄せていた。浜に風紋のように描かれているのは波の残した跡だ。武史は軍靴の爪先にある白い砂をかがんでぎゅっと握った。さらさらと指の間から落ち、風に吹き流された。白い乾いた砂は小さな珊瑚のかけらで星の形をしている。

 7月になるとアメリカとオーストラリア連合軍の攻撃が始まった。武史のいた半島は完全に封鎖され、制空権も制海権も敵方のものになっていた。食料の道は完全に閉ざされている。20日分のコメが支給されていた。海からの艦砲射撃、空からの爆撃。 

 武史たちには死守せよという命令が下されるだけだった。塹壕を掘り3か月がんばったが、食料もつき、弾薬もなくなった。飢餓が300人の部隊のなかに蔓延してくる。

 高い山を越えて転進することになった。転進かと武史は思った。地図もない。マラリヤ、赤痢で動けなくなった者が多数いた。それらの人々が病院小屋の中でいも虫のように転がっている。動けないものは処置することという命令が下った。置き去りにしたら自分たち日本軍の居場所や兵力の情報がもれる。殺せということらしい。

 密林に入って行った。熱帯雨林にはほとんど食べ物といってよいものはない。

 自生しているバナナやヤシの実で足るはずがなかった。雑草の葉や茎、芽を食った。芽なら何とか消化することができた。ひどい下痢が続いている。軍服は汗と糞の臭いがした。ヤモリ、蝙蝠(こうもり)、いぼ蛙、ゲンゴロウ、トンボなどの昆虫も食った。きのこを食って悶え苦しんで死ぬ仲間がいた。毒虫を食って歯茎がぼろぼろに崩れ、スモモのように口の中が腫れる仲間もいた。ゾウムシの幼虫や蛆虫は旨かった。とりわけ時折捕まえることの出来る蛇はご馳走であった。

「友軍と住民の肉を食えば、銃殺にする」軍命令が出ていた。そうか。敵ならよいのだと武史は思った。仲間の二等兵が敵の斥候を殺した。それが肉を食う最初であった。

 越えなければならない4500メートルの高い山、稜線には雪が降っていた。ぼたん雪である。寒さに震えた。くぼ地の雪の上に死んでいる仲間の日本兵がいる。ズボンシャツをはぎとった。裸にした。ぼろぼろの身ぐるみを盗んで着込んだ。空気が薄い、寒さに震えて蹲っていると、もう死んでもいいような気がしてくる。

 ただ風に舞う雪を、夕暮れの暗い空から落ちて来るぼたん雪をぼんやり見ていた。すぐにまた凍える夜が来る。寒さで何も考えられない頭に不意に思い出すことがあった。


 武史が中学四年生で雪子が六年生の時である。その時もぼたん雪が真綿を撒き散らすようにどんよりとした空から降っていた。

 雪の中でかずら橋にしゃがみ込んで、蔓(つる)にしがみついている雪子の姿を思い出す。

 小学校へ行くにはかずら橋を通るのが一番の近道であった。

「ゆきおんなー。ゆきおんなー」同じ年頃の子供たちがはやしながら歩いていた。木の板を足で大きく踏みながらわざと揺らして子供たちが渡って行く。雪子は橋の真ん中で尻餅をついて蔓にしがみ付いていた。

 蔦(つた)が柵にぐるぐると巻かれているので、隙間は小さく落ちることはなさそうであったが、

「やめてー、こわいわー、揺らさないでー」雪子は叫んでいる。

 ぼたん雪が15メートルほどの下を流れる奔流に落ちては消えていく。水量の多い水は岩に当りしぶきを上げ、渦を巻いて流れていた。

 後ろから橋を渡ろうとしていた武史は急いで駆けだした。子どもたちに、

「ばか野郎、止めろ、ゆらすな」大声を出しながら雪子の所へ駆けて行った。

 武史が勢いよく走るので橋は一層大きく揺れた。ともすると武史が柵の外に投げ出されそうになった。体を左右に揺らしながらなんとか武史はしゃがみ込んでいる雪子の所に行きついた。ひざを折り、雪子の肩を掴み、しっかりと自分の腕を雪子の腕の下に回した。

「怖かっただろう。もう大丈夫。大丈夫だよ」

 武史は雪子を抱きかかえて、立ち上がらせ、ゆっくり、ゆっくり、かずら橋を渡った。ふたりは恋人のように寄り添っていた。

 空を見上げた。雪雲に覆われて空は薄暗かった。上空の暗い雲の中から、ぼたん雪が無数に落ちてくる。真綿をまきちらすように白く舞いながら落ちて来る。

「寒い時代だ。積もるかもしれない」武史が雪子の耳もとでつぶやいた。


 武史は最後の力を振り絞るように雪の吹き溜まりから立ち上がった。もう一度、かずら橋のある故郷に帰ろう。死んでたまるか。

 岩と雪の峰を一歩一歩踏み越えて行った。

 峠を越え、島の内陸部に下りて行くとそこはまた熱帯の密林である。人食い人種の原住民が裸で住んでいる地域である。彼等は20メートルもある高い木の上に家を作り暮らしている。弓矢が得意で、侵略者に向かって射ってくる。こちらには鉄砲がある。アメリカ兵が日本兵を撃ちころすように、原住民を撃ち殺した。そして、猿だから食った。

 犬死はするものか。野垂れ死になどするものか。死んでたまるか。武史は心の中で叫び続けながら密林に囲まれ、草に覆われた洞穴の中で生きていた。

 もうとっくに隊の仲間からはぐれている。仲間はたいてい飢えて死に、病死したはずだ。

 だが、武史には雪子への思い、雪子の柔らかい二の腕の感触が不意にイナズマのように体の中走ることがあった。

 必ず俺は生きて帰るぞ。死んでたまるか、そのたびに武史は思った。


       四 


 みつるが玄関の引き戸を開けると風鈴が鳴った。

 梁がむき出しの黒ずんだ天井を見まわすと炊事場の高い梁の上に風鈴は短い紐で結んである。琥珀はすすけて黒く、小さく揺れていた。

 みつるは右手に一匹のヒキ蛙をぶら下げている。だらりとしていたが、まだ生きている。まん丸な目を開けて、水かきの手が小さくしびれて動いている。生きていなくてはいけない。

 チリンチリンと風も無いのにまた風鈴が鳴った。空の茶碗を箸で叩いてご飯を催促している子供ようだ。

 白い縄のような物が左から右にゆっくり動いている。二メートル近い真っ白い蛇がいた。

 蛇は鎌首をもたげ、みつるの方を見ている。赤い目、口を大きく開いて、枝分かれした赤い舌を出して気配を探っている。

 みつるは梯子(はしご)を上り梁の所まで行き、白蛇のほうにヒキ蛙を差し出した。生きた動物でないと蛇は喰わない。蛇は頭を持ち上げ自分の頭部の3倍ほどの大きさに口を開いた。そして、ヒキ蛙をゆっくりゆっくり飲み込んでいった。ひき蛙がぎゅっと鳴いている。喉から胴へ飲み込んだ蛙の膨らみが、ゆっくり消化管をおりて行くのが分かる。

 みつるは生臭い蛙を握った手を洗おうと家の前を流れる小川へと出掛けて行った。

 淀と瀬の丁度境目あたりに水をせき止める平らな大きな石が五、六個置かれている。そこがみつるの家の洗い場であった。石に両膝を着いて、夕暮れのひんやりとした清水で臭いを消そうと手もみしながら洗っていた。

 キャッと言う小さな少女の悲鳴が聞こえた。パシャパシャという水を蹴る足音がする。顔を上げると二メートルほどの青大将が身をくねらせて、波紋を作りながら泳いでくる。後ろを木のお椀が浮き沈みしながら流れてくる。雪子がそのあとを追いかけて来た。

 みつるは水の中に急いで入り右手で後ろから蛇の尻尾を掴んだ。

 掴んだ手を咬もうと蛇は頭を持ち上げ、空に身を捩じらせ向かってくる。大きく口を開いて牙を見せている。みつるは噛まれまいと尻尾を左右に勢いよく振まわした。

「殺さないで」叫びのような声がした。「毒なしよ」

 川の中に雪子が紫の目を大きく見開いて立っている。目は透き通る水晶の紫である。しかし、その言葉に応えることなく、みつるはブチッと赤子の頭ほどの丸い石に蛇を打ちつけた。潰れた頭から白い牙を出し、とろりと赤い体液を蛇は流した。まだ動いている。左右に胴を大きくくねらせている。みつるは尾を掴んだまま投げ縄のように蛇を振り回し、竹藪のほうへ放り投げた。どさりと水辺の草の上に落ちた。

「なんてひどいことを」雪子は蛇の投げ捨てられた所に小走りに駆けて行った。そして、あたりをしばらく探したが、

「どこにもいない」と言った。

 雪子はひとつ年下の隣に住む従妹(いとこ)である。真っ白い髪、真っ白い顔、真っ白い手足、雪子は白子であった。

 雪のように白く生まれてきたから雪子と名付けられた。赤い袴を着て、神社で白蛇に仕える巫女の仕事をしている。透き通るように白い美しい人だと、みつるは思っていた。そしてそれは自分の物だと思っていた。

 足元の洗い場の石の間にお椀が引っかかって浮き沈みしていた。雪子はそれを前のめりに腰を屈めて掴もうとした。その時、着物の前襟が緩んで隙間から、お皿を伏せたほどに膨らんだ白い胸がみえた。手の平ほどの大きさの乳房さである。血の透いたサクランボのような赤い乳首が目を射た。みつるは、血がドクドクと流れ、胸の凄まじい高鳴りを感じた。頭が真っ白になった。どうしたら良いのか分からない衝動をみつるはどうにかこらえた。

 覗かれている、雪子はあわてて左手で襟くびを押さえた。白い頬が、手も足も一度に驚くほど夕焼けに染まった。

 みつるはあわてて両手で冷たい清水をすくい、じゃぶじゃぶと顔を洗った。そしてそのまま顔を浸けて川の水を野猿のように飲んだ。


 みつるの家は掟によって、先祖から代々神主を務め、山を守るきこりを職とする家柄である。

 そして掟によって、白い子を産み続けるように命じられていた。雪子の父はみつるの叔父であり、雪子の母は叔母であった。近親で血を繋ぐように運命付けられていた。雪子は生まれた時からみつるの許嫁(いいなずけ)である。


 戦争が終わった日。みつるは何もかも壊われてしまったのだと思った。

 そして、何もかも壊れてしまえと思った。

 新しい朝のために。新しい陽が昇るために。

 みつるは朝(あさ)靄(もや)の滝壺に来て雪子が来るのを待っていた。


 雪子は白子のせいでまばゆい日の光に弱かった。陽にあたると体中が赤く腫れあがり水膨れになる。雪子が戸外に出ることが出来るのは早朝か、夕暮れしかなかった。

 まだ暗い夏の朝。誰もいない、見られることのない夜明け前、雪子はいつも滝壺に出かけていた。激しい水の冷たさに会うためである、そして、自分の呪われた身を清めるためである。


 茜色の世界の中で二坪ほどの細かい白い砂の砂州でふたりは抱きあった。

「ごめんなさい。体を洗うわ」と雪子が言った。汗で濡れた砂をはらいながら立ち上がった。血で少し汚れた着物を脱いだ。小鹿のようなすらりとした足で、静かに膝まで水の中へ入って行った。

 両手で水をすくい胸や太腿に掛けた。

 長い髪は真っ白に輝き、白い恥毛はしっとり濡れていた。

 白い肌は陽に照らされていっそう白く輝き、引き締まった小さな乳房が朝日にまばゆかった。

 なんて美しいんだ。照り輝く真珠のようだとみつるは思った。

 雪子はゆっくり光る体を深みの方へ沈めて行く。滝壺の深みへひゅるひゅると白蛇のように身をくねらせて泳いで行った。

 みつるは急いで立ち上がり服を脱いで雪子の後を追い、頭から飛び込んでいった。

 みつるはひどく水を冷たく感じた。ひと月ほど前からみつるは微熱を感じている。

 朝のひかりは明るく水の中を照らしている。イワナやハヤが円を描きながら泳いでいる。水が渦を巻き、落水によって、泡は深く水底の砂地まで運ばれている。そして、水泡がみつるの体を包み揺れながら登って行く。

 滝の真下ではすさまじい勢いで水が落ちていた。水に叩かれて深みへ沈められそうだ。みつるは危ないと感じた。息も苦しい。急いで水面に向かって上って行き、顔をあげ胸いっぱいに大きく息を吸った、そしてまたすぐに潜った。肺の奥から込み上げて来たものがあった。げっぷのような咳が口の中を突き上げてくる。頬を膨らませ我慢できずにみつるは大きく口を開いた。目の前が一気に真っ赤になった。鮮血がわっと水の中に広がった。


             五 


 武史が南方の捕虜収容所から帰って来た。武史の父は呉港にいた時、機銃掃射で殺され、母はチフスで病死した。広い屋敷で武史はひとりで暮らしている。

 谷底の村に戦争が始まってから墓が次々に山裾に掘られた。卒塔婆が幾重にも斜面に建てられている。


 みつるもひとりで暮らしていた。父は出征し、母は軍需工場に働きに行っていた。ひとりぼっちの家に雪子が夕暮れになると訪ねてきた。

「この病気は移るからもう来ないでくれ」何度もみつるは雪子に言った。

「君が来ると生きていたい、いつまでもこうしていたいと思って、辛い」

 結核はそれほど悪くはなかったが、村の者にはひた隠しに隠した。隠すしかないだろう。伝染する、死の病である。

 この時代、日本で必要としていたコメの量の半分しか日本国内で作ることが出来なかった。皇居前で食い物よこせの食料メーデーが起った。朕はタラフク食っているぞ ナンジ人民 飢えて死ね。1000万人が餓死するかもしれないと言われていた。日本中が飢え。栄養不良で結核、チフス、赤痢が流行していた。

 山奥の村とて例外ではなく、帰って来た兵隊もいて、食料は不足し病気が蔓延している。

 神社に神の使いとして雪子が大切に飼っていた蛇が盗まれるようになった。もちろん食うために盗すまれたのである。犯人が武史であると雪子は思っていた。


「肺病にはコイの生き血やらイモリの黒焼き、猿の肝などが効くそうよ」雪子がみつるに聞きかじってきた知識を懸命に教えている。

「鯉の生き血なんて生臭くて飲めないだろう」

「鯉の生き血はお酒に混ぜて飲むと良いそうよ」

「犀川には生き血が取れる様な大きな鯉は一匹もいないよ」

「そうねー、仕方ないわね。みつるさん、家に食べる物は十分にあるの。これ、庭で作ったオイモ。お風呂の焚口で焼いて。家の人と食べて、余ったから持って来たわ。たくさん食べて、元気を出して」雪子は卓袱台の上に新聞紙に包んだ焼き芋を置いた。お腹の空いていたみつるは三分の二ほど急いで芋をほおばるように食べた。そして残りを卓袱台の上に置いた。雪子がそれをみつめている。

「食べ残し、食べていい」

「ごめん。気付かなかった。雪子は自分の食べる分を食べずに持って来てくれたのだね」

 みつるはすぐ横ににじり寄って小さくなった芋を雪子の口元に優しく持って行った。

「おいしいわ」

「雪子といつまでもこうして生きていたい」

 雪子の肩を引き寄せ、赤らんだ手を襟もとから雪子の胸の中にいれた。

「熱いわ、熱があるわ」雪子は俯きながら小声で言った。

 うつるからと、ふたりは口づけをすることない。

「いるわ。そうよ。武史の池にたくさんの鯉がいるわ。武史が大切に飼っている鯉よ。あれを取って来て生き血を飲んだら。きっと、直るわ。武史は私の飼っている蛇を盗んで食べているみたい。蛇がいなくなったの」

「あいつは、南方帰りだから蛇はご馳走だったと言っていた」

「それに人食いよ。酒を飲んだら、猿鍋の話ばかりするそうよ。その話をすると、目がキラキラ光って獣じみてすごいらしいわ。ジャングルにはたくさん猿がいて、猿を撃ち落として食べたそうよ。でも、本当は、猿ではなく、木の上で生活している原住民のことよ。原住民を食べて生きて帰ってきたのだわ」

「誰も口には出さないがニューギニアでは、そういう事があったらしい。でも、生きるために仕方がなかったと思うよ。そのことは、口をつぐんで触れてはいけないことなんだ」

「武史の上官で、もし俺が死んだら、俺を食って、お国のために戦ってくれと言った人もいたそうよ」


 生きたかった。みつるはどうしても雪子と共に生きたかった。死にたくなかった。


 みつるはまだ暗い内に起き出した。ヤカンに油を入れ、火にかけ、水滴を落とすとジュウと音のするまで熱した。その熱油を注意深く、一升瓶に注ぎ込んだ。

 ガラス瓶は、油を注ぎ込んだ深さに見事にピリッと音を立て割れる。底の抜けた瓶は丸い鋭利な切り口になっている。指を傷つけないように切り口にゆっくりゆっくりヤスリをかけた。少しでも力が入るとガラスはピリッと新しい切っ先を作って壊れ、指先をシュッと傷つけた。

 瓶を抱いてみつるは朝焼けの中、足音に気を付けながら武史の家へ、池の淵まで行った。

 一升瓶の注ぎ口から糸と釣り針を通し、ミミズを餌にして、瓶をゆっくり水に浸すと、ぱくりと鯉はミミズを飲み込んだ。一気にぐいと糸を引っ張ると鯉は頭から半身をすっぽり瓶の中にはまり込んだ。40センチはある。まったく身動きできない。あばれて、音を立てることもなく、眠っている武史に気付かれることはなかった。血の付いたシャツを脱ぎ、鯉を瓶ごとくるんで、一目散に家まで走って帰った。

 まな板の上ではねる鯉の腹を押さえた。出刃包丁の背で思い切り頭に一撃をくらわした。暴れる、押さえているのが大変だった。一撃で死ない。あわてて二撃目、三撃目を加えた。死んで動かない鯉のえらに出刃を突き立て、ぐいと下に向かって力を入れ、頭を切り落とした。すぐに尻尾を持って逆さに吊るして、茶碗で落ちてくる血を受けた。

 茶碗に半分くらい血がとれた。口を茶碗に持っていくと生臭いにおいがした。舌を出し舐めてみた。吐きそうになった。息を止め半分飲んだ。まずくて涙が出た。飲まずにしばらく眺めていると血が固まってきて煮凝りのようになってくる。水屋からお酒を持って来て指でかき混ぜ、息をとめて一気に喉を通した。


「あんなまずいものは飲めたもんじゃなかった。それに元気になった気もしない」

「でも飲まないとだめ、良薬は口に苦しって言うでしょ」

「元気にならないよ。これで治るなら肺病の人はいないよ。それに盗みに行くのも嫌なんだ。見つかったら、殺されるかもしれない。何をするか分からん人間になって、武史は戦争から帰ってきた。効くわけがないよ。もうやめだ」

「だめよ。みつる。死んじゃいや。いつまでも私と一緒に生きるの。私が必ず助けてあげる」


 次の日の夕方、みつるが土間に転がって寝ていると、どさりと音がした。

 梁から白蛇が落ちてきた。細長い紐になって死んでいた。近頃は自分のことばかりにかまけて蛇に餌をやるのをすっかり忘れていた。

 その日、雪子は来なかった。次の日も次の日も雪子が来なかった。

 三和土に転がしておいたあの一升瓶が無くなっているのにみつるはようやく気付いた。

 もしかしたら大変な事になっているのかもしれない。

 鯉を盗みに池へ行き、雪子は捕まったのではないか。武史は戦争から帰って来て、気が狂っている。なにをするかわからん。雪子が家に来ないのはおかしい。


 出刃と斧を持って、真夜中、みつるは武史の屋敷に出かけた。気付かれないように静かに引き戸を開け、敷居に水を垂らして、音が出ないように襖を開けた。武史は酒を飲み過ぎたのであろうか、いびきをかいて寝ていた。寝込みを襲った。出刃を寝ている武史の首につきつけ、首を薄くシュッと切った。

「ぎゃっ」と武史は悲鳴を上げた。「誰だ。何だ」

「雪子はどこだ」みつるは武史の耳もとで叫んだ。

「知らん、何を言っているのか分からん」

「雪子はここに来たはずだ。鯉を盗みに来たはずだ」

「知らん、そんなことは知らん」

 みつるは後ろから、首元に出刃を突き付けたまま、武史に自分の足首をきつく縛らせた。そしてうつ向けに寝かせ、顔を蹴り上げた。弱ってぐったりした所を着物の帯で後ろ手に縛りあげ、土間に座らせた。

「雪子はどうした」武史は答えなかった。

「俺が作った、底を抜いた鯉取りの一升瓶が三和土の上に転がっているではないか。これだ。雪子がここに来た証拠だ」

「雪子をどうした。どこにいる」

 武史は、ニヤリと薄ら笑いを頬に浮かべた。

「あの泥棒猫のことか。捕まえて、首を絞め、殺して、喰った」

「なにー、喰った」

「村人と猿汁にして喰った。お前は呼ばなかったが。村人は白い肉を旨い旨いと言ってみんな喰ったぞ」

「喰った」

「そうだ。ニューギニアの地獄から猿の肉を喰った奴だけが生きて帰って来られたのだ。

 俺は雪子を、あの美しい雪のように白い雪子を自分の物にしたかった。だが、いやだ。いやだと抵抗された。だから、押さえつけて、首をしめた」

「ジャングルをさ迷っていた時、俺は雪子の姿ばかりを思い描いて、どんなことがあっても、何をしても日本に帰ろうと思った。

 日本にようやく帰りつくことが出来たが、俺は壊れてしまっていた。人が死ぬことも人を殺すことを何とも思わなくなっていた。善悪、その見境が分からなくなった。自責の念などどこにも無い。俺は壊れてしまった。

 俺は雪子の大腿部をえぐり、食べた。雪子が俺の思いを聞いてくれなかったからだ。村人をよんで猿を仕留めたから宴会をしようと誘って、村人みんなと一緒に旨い旨いと猿鍋食った。

 お前は信じないだろうが。雪子はきっと俺の中で俺とひとつになって生きている。俺は、本当は雪子を殺してなんかいない。殺すもんか、こよなく愛していたのだ。雪子のおかげで帰って来られた。俺は雪子を殺すはずなどないのだ。ただおれの心は壊れているからどうしてよいか分からなかっただけだ。俺は雪子の傷ついた体を白い布に大切に包んで、水の流れに返した。

 お前は信じないだろうが、雪子はするすると白蛇に変身し生き返って、滝つぼの彼方に泳いで行った。嘘ではない。お前はきっと信じるようになるだろう。雪子は白蛇に生まれ変わり、生きている」

「人殺しが、貴様は気が狂っている」

 みつるは縛り上げた武史の背中をおもいきり蹴り上げ、土間に転がした。顔を草鞋でぐいと踏んづけた。ぎゅっと蛇に飲み込まれた蛙のような声を出した。

「人殺しめー」

 踏んづけている首めがけてみつるは斧を二度振り下ろした。二度振り下ろしてようやく、眼をひらいたままの武史の首が千切れた。滝のように血を噴き出しながら『く』の字に体を折り曲げた。みつるは自分のした凄まじいことに驚いて、後ずさりするように生首を蹴った。首は血糊を引きながら板の間をゴロンと転がって、三和土にぼったと落ちた。


 苔の生えている、水しぶきのかかる岩と岩の隙間を、木々や草を掴みながら、すべりやすい岩場を四つん這いになって、みつるは蛇のように身をくねらせながら登って行った。水で重くなったシャツを脱ぎ、草履を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、水の湧き出る岩の上に立ったときは、擦り傷だらけの裸体であった。みつるは首を伸ばし、そばにあった木の枝を掴んで、白蛇の滝の上から滝壺を覗き込んだ。

 真っ白な巨大な蛇が黒い滝壺を悠々と波紋を作りながら泳いでいる。これは幻ではない。幻ではないと思った

 みつるは大きく身を乗り出した。

 そしてそのまま滝壺に向かって落下して行った。からだが岩にぶつかるたびに白い飛沫に血がにじみ、頭蓋や背骨を折りながらみつるは彼方へ落ちていった。


 みつるの家は誰も住まない廃家になった。森と村の守り人であった父親は五年前に出征し、南の島で両手を高くかかげ上げ敵に突進した。母親は広島の工場へ働きに出かけていて、ピカドンにやられ、行方不明になっている。

 一九五一年、巌国を襲ったルース台風で土石流のためみつるの家は倒壊し、流木や土石を取り除くとその下から三人と思われる遺体が発見された。村人が秘かに三人を埋葬していた。

 村人とて、猿の肉を食べたことは、世間に秘密にしておかなければならなかった。

 

 白蛇の滝には化け物が住んでいると村人は言う。

 滝壺の前に白い服を着た女がしゃがみ込んで泣いている。長い髪、後ろ姿から美しい乙女のような気がして、旅人が声を掛けると振り向いた女は蛇の顔をしている。急に両手を旅人の体を巻き付けそのまま滝壺に引き込み丸呑みにするという。  (原稿用紙38枚)

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白蛇の瀧 @simanakamituru

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