チャミー

Gashin-K

ここは、擬人化した動物たち、獣人が暮らす幻想世界






 その日の空は厚い雲で隠され、重力が鉛色の雨粒を地上へ幾度となく叩き付けていた。

街のとある診療所の待合室では、一人のネコ科の女性が、窓際に顔を持たれ掛け、虚ろな目で外を見つめていた。地面に叩き付けられる雨粒一つ一つに、大きな力に抗えない自身を重ねていた。

 彼女は、肩まで下げた髪の毛に、まだあどけなさが残る表情をしていた。無意識に丸くなった瞳孔には、これから自分の身に起こる運命を受け入れることができていない戸惑いが満ちていた。


(カルテ記載情報)

 患者名:チャミー・フェリス

 獣人類哺乳目ネコ科雑種属、女性、16歳

 身長160㎝、体重42㎏、尾長98㎝

 全身均一なキジトラの被毛、耳は一般耳

 鼻梁は薄ピンク色、虹彩はエメラルド色

 一般状態良好、女性的部位に異常所見無し

 先月に初情あり、妊娠の有無は不明

 

 成獣不妊法対象者、本日手術予定


 重い呼吸の最中、チャミーは背中に話しかけてきた低い声に気が付いた。

「おお、モモ、久しぶり」

「え?」彼女は振り返った。「私、モモじゃありませんけど」

 話しかけたのは、ニンゲン科の男だった。この世界の少数種族だ。

 被毛も持たない露出した肌、マズルの無い平たい顔面にある、取ってつけたような耳鼻と芋虫のような唇が特徴である。この世界で美の基準となる尻尾も、ほとんど生えて無い。身体機能は他の獣人種より劣る割には、他者を容易に傷つける残虐性がある。近年では繁殖能力にも乏しいことが分かっている。向こう数十年で絶滅が確実視されているが、保護の価値は無い、というのが行政の考えだった。

「ああ、ごめん。猫違いしちゃった」ニンゲンの男は、肉球の無い掌を合わせた。「あんまり似ていたもので」

「誰と間違えたの?」チャミーは聞いてみた。

「昔、一緒に住んでたネコ科の女性とね。その子も君みたいに可愛くって、何でも我が儘聞いてあげてたんだけど、出て行かれちゃってね」

 返答に困ったチャミーは、気持ちを表情で伝えるしかなかった。元気を出して、と言う代わりにマズルは少し笑って見せた。

 男は続けた。「俺が悪いんだよ。その子に不妊手術をしちゃったから」

「え? 不妊手術って……」

 チャーミーの気を許していた表情が、直ぐに頑なになった。

「そのモモって人、手術させられたの?」

「ああ。ほら、無尽蔵の繁殖をしないために、獣人は生殖適齢期を迎えたら、男性は去勢、女性は避妊の手術を受けるよう義務化されたろ? 成獣不妊法だよ。違反すると俺まで罰則だから、仕方なかったんだよ」

「その法律の名前、聞きたくもない!」

 チャミーは会話を打ち切り、男の傍から離れようとした。男は何かに気が付いて、彼女を呼び止めた。

「もしかして、君? 今日の手術の女の子?」

「そうよ! だから何!」

「何だそうか。挨拶おくれてごめんね。俺は今日、君を手術するドクターだ。よろしくね」

 ニンゲン科の男の露出された肌の顔が、何かを楽しみにしているような笑みに変わった。それを見たチャミーの背筋は凍りついた。外の雨雲は、いつの間にか雷鳴を引き起こしていた。


 土砂降りの雨。落雷の音が近く響いていた。

 診療所の入り口の前を、一人のネコ科の男性が佇んでいた。頭頂から尾端まで、サバトラの被毛が雨水を吸い込み、全身を重くしていた。恋人が避妊手術を受ける直前、彼女の気持ちを考えたら、中に入る勇気が持てないでいた。

 彼は、昨夜のチャミーとの口論を思い出した。避妊したくない、という彼女の想いを、もっと大事に考えてあげられなかったことを後悔した。彼自身も、成獣不妊法の下、既に去勢手術を受けていた。もう子供は作れない。だから彼女もそうなるべきだという思いが、自分の中にあったのだった。

 何もしてあげられなくても、せめて、愛してる、と伝えたかった。

 彼は時計を見た。もうすぐ、手術時間だった。ようやく重い腕で入り口を開けた。

 中には、一人のニンゲン科の男がいた。白衣を着て、カルテらしい紙をじっと見ていた。すぐにドクターだと分かった。

「あの、すみません。今日ここで不妊治療を受けるフェリスさんと面会がしたくて……」

 彼が言い終わるのを待たず、男が言った。「レオン・シルベストリ。あの子の彼氏?」

「はい、そうです。フェリスと合わせてください。まだ時間はありますよね?」

「確かに、そうだな」男の顔が、楽しそうに笑った。「じゃあ合わせてやる。来な」


 レオンは男に連れられ、奥の部屋へ進んだ。手術室だ。無感情な白い空間に、モニターの電子音と、人工呼吸器のポンプが伸縮を繰り返す音が、規則的に響いていた。

 手術台には、チャミーが仰向けに寝かせられていた。

 口からは直接肺に酸素を送り込むチューブが伸び、人工呼吸器に繋がっていた。定期的な心拍音と胸の膨らみが、彼女を完全な機械へと変えていた。器具台には、これから彼女の体を侵襲する為の、冷たい色をした金属類が並べられている。目を引く心電図のモニターは、まるで彼女の魂がそこに転送されたかのようで、彼女もそこから自分の抜け殻を見つめているようだった。

 レオンは、チャミーの手を取った。「何で、こんなこと……」

「法律で決まってるからだろ」

 ニンゲンの男の顔は、笑ったままだ。

「お偉いさんが決めたことを、お偉いさんを選んだ皆がやってるんだから、お前らもやるんだよ。幼獣でも解る、簡単な理屈だ」

 全く他人の気持ちを考えるつもりの無い男を、レオンは睨みつけた。

 男は続けた。「確かに、別の世界から見たらこの法律は異常かもしれないな。でも俺らはこの世界の存在だ。この世界のルールに従うんだよ。てめぇが受け入れられるか、それが強さだ」

「なら俺は弱いよ! 今、目の前で彼女が大切なものを失おうとしてるのに、何もできねぇんだからな!」レオンが叫び、手術室中にこだました。

 振動のせいだろうか、これまで一定だった心電図の波形が乱れた。

 暫くの沈黙の後、男は波形が通常に戻っているのを確認してから言った。

「あんた、去勢してるよな?」

「ああ……。14の時に取ったよ」レオンは恥じらいながら答えた。

「へ~、自分はもう男じゃないってのに、この女が女じゃなくなるのは嫌なんだ」

「嫌だよ! 愛してるから!」

 レオンは自分が何を言ったのか解らなかった。何を考えたわけではない。ただ本当に、自分の気持ちが叫んでいた。心電図の波形が、また乱れた。

 男は時計を見て、執刀開始時刻が過ぎてることに気づき、レオンを退出させた。

 手術室の外、点灯した手術中の文字を、レオンは縦長の瞳孔で睨みつけた。怒りと贖罪の入り混じった感情が、全身のサバトラの被毛を逆立てていた。雷鳴は、診療所の真上で響いていた。


 手術中。

 ニンゲン科の男が滑らすメス刃が、チャミーの下腹部正中の皮膚を切り開いた。

 彼女の皮下脂肪が露わになり、男の指が皮下織を筋膜から剥離していく。露出した腹筋が中央の白線で釣り上げられ、鋏で切り開かれた。腹腔内部には、全くの病気を呈していない、健康な臓器があった。

 男は指で腸と膀胱を退けて、腹腔の奥にある子宮を掴んだ。

「まさか」男は言った。「妊娠している」

 男が掴んだ子宮の中。母から栄養を貰う胎児が、誕生を今か今かと待ちわびるように、動いている様子が伝わった。

「彼氏は去勢済みのはずだが?」

 男は疑問を持ちながらも、卵巣を取り出すために子宮を引っ張った。

 心電図が激しく乱れた。患者の交感神経が刺激された為だと、男は分析した。

 男は、引きずり出した卵巣を掴み上げた。そして、卵巣の間膜と動静脈を切断するため、電気メスを構えた。

 メス刃の先から煙がたつ。母体の異変を察知したのか、子宮内の胎児が激しく動いた。

「心配ない。君は楽に死ねるよ」男は呟いた。

 メスの刃先が、卵巣血管に近づいた。


 その時、巨大な落雷音と同時に、手術室が暗闇に包まれた。

 停電だ。

 予備の自家発電に切り替わり、照明はすぐについた。しかし、心電図などのモニター機械と人工呼吸器は停止したままだった。

「くそ、中止だ」男は言った。

 チャミーの肺に送られていた酸素の供給が止まり、すぐに手動による人工呼吸が必要だった。

 男は、手術室の中に飛び込んできたレオンに言った。

「お前、手を貸せ。彼女を死なせたくなかったらな」

「何だよいきなり! 何があったんだよ!」

「彼女が呼吸できていない。このままでは数分で死ぬ。もう手術は勧められないから、俺は開けた腹を縫う。だから、お前は彼女の呼吸になれ」

 狼狽するレオンに、男は手に掴んでいる子宮を見せた。中には、胎児がまだ動いていた。それを見たレオンの様子が、次第に落ち着いてきた。

「この子はお前との子じゃないな。去勢済みのお前に生殖能力は無い」

 ニンゲンの男の顔が、また笑いだした。とても楽しそうに。

「そういうことだ。この女は他の男と寝ていた。よくあることさ」

 レオンの瞳が赤く充血していった。ゆっくりと瞼を閉じ、大粒の涙がマズルに沿って流れた。

 男は続けた。「俺も経験あるよ。昔、一緒にいたモモってメス猫に、外で子供作られた時があって」男は、語気を徐々に強めた。「だから、避妊させてやったんだ」

 ニンゲンの男の顔は、快楽に満ちていた。目には悪意の光がこもり、笑った口からは流延が滴った。この世界で、最も悍ましい獣の姿だった。


 一方、レオンは、溢れ出る思いを抑えきれないでいた。勢いよく瞳を開け、チャミーに駆け寄った。彼女に接続されていた気管チューブを抜き、大きく口を開け、彼女のマズルを包み込んだ。彼が送り込んだ空気が、彼女の肺に届く。二人の呼気と吸気が連動し合った。

 レオンの行動は、男にとって、想像していたものとは違かった。その気になれば、旧式の従圧式ポンプで酸素を送りながら、一人でやれたのだ。彼女の裏切りと、逃げ出す彼氏を見て楽しむ男の算段は、完全に壊された。

 嫌悪感しか他人に与えない顔のままで固まるニンゲンの男に、レオンは言った。

「あんたはどうせ誰かを好きになったことなんてないだろうな? いいから早く仕事しろよ!」

 そのまま、男は何も言わず、手を動かした。憮然とした顔だったが、やらねばならない作業だった。腹膜、筋肉、皮下織と順に縫合していった。

 やがて、チャミーの麻酔は解かれ、自発呼吸も戻っていった。


 入院室。まだチャミーに意識は戻らないでいた。心電図の波形が、一定の間隔で彼女の鼓動を刻んでいた。

 寄り添うレオンが、彼女の耳に囁いた。

「子供、ありがとな。欲しいって言ったの、本気に思っててくれたんだね」

そして、静かに眠るチャミーのマズル」にそっと口づけをした。

 心電図の波形が間隔を狭め始めた。目覚めは近かった。外の雨は、いつの間にか上がっていた。


(了)

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チャミー Gashin-K @ba407004

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