第6話 夜明け前

『魔者は逃げた』

 目を閉じれば、ストルギの視界と声が流れてくる。

 今夜の映像は、フィーナと再会した夜の続きのようだった。

『お前たちは自由だ』

 それぞれに生贄候補を引きずって中庭に戻ってきた人々に向けて、ストルギが屋根の上からそう告げる。眼帯をして返り血を浴びた異様な侵入者に、人々はざわつき最初は少しも信じなかった。

 だがストルギは構わず続けた。

『生贄の一族が谷に籠り始めた黎明れいめい期よりも、魔獣は格段に数を減らしている。加えて、剣や魔法の一族も知恵と力と技術を磨き、自らの能力で魔獣を退け始めている。こんな愚かしい悪習にいつまでも固執していないで、他の一族にでも命以外の代価を渡して護衛を依頼しろ』

 淡々とした長広舌は威圧的で、まるで新たな支配者が現れたかのようだった。だがその内容はといえば、生贄という手段を改め、村人が誰も犠牲にならない新しい道を探せと言うものだ。

 しかし外の世界へ出なくなって久しい生贄の一族にとって、それは衝撃的で、とてもすぐに受け入れられるようなことではなかった。

 それでも頭の回転の早い者は、その実現の困難さを即座に理解し反論の声を上げた。

『こ、この谷に、命より他に代価に出来る価値ある物なんかあるわけないだろ!』

『ないなら作ればいい。山と森ならそこら中にある』

『そ、そんな簡単に、』

『出来ないと喚くだけなら、死ねばいい』

 死。それは、あの夜だけでもあちこちに存在していた絶対的な恐怖だった。中庭に集まりだした人間が、それぞれに身を強張らせる。それでも、一旦は静まったざわめきは風に荒れる枝葉のように再び大きくなり、すぐに全体を覆い尽くした。

 それは新たな恐怖とも、絶望のような希望とも思え、そして全てが渦を巻くように混ざり合い、大きな熱を生んだ。

 館の門へと向かって逃げ出す者が現れるのは、すぐだった。一人が走りだせば、他の人間も我先にと走り出す。そこからは、門へ続く道は波のようにうねった。

 その中に、フィーナの姿もあった。

(フィーナ……良かった……)

 そう思ったところで、唇の熱が離れ、映像も途切れる。だが現実の意識に戻るには、フィレインの頭は与えられた熱に浮かされたようにとろけ、上手く回らなかった。

(なんか、いつもより少し長かった……?)

 熟れた頭でふと思い、それは願望が入っていると慌てて掻き消す。次には熱っぽい吐息が唇にかかり、意識が目の前の現実に引き戻された。

 目の前――つまり、唇を離してもなお視界からはみ出すようなストルギの顔と、真っ直ぐな眼差しと、少し赤みのさした頬と、そして二人の唾液で濡れた赤い唇が。

「……ッ」

 咄嗟に言葉が出ず、けれどその胸を押しのけることもできず、フィレインはストルギの腕の中で硬直してしまった。首を押さえていたはずの硬く大きい右手はいつの間にか外され、今はふらつくフィレインを支えるように後頭部をすっぽりと収めている。

「……ス――」

「名前は呼ぶな」

 問いかけるように発した呼び声はけれど、鋭い程の制止に遮られる。けれどそれは怒っているというよりも、どこか痛みを堪えるような硬さで。

「……抗えなくなる」

「……!」

 囁かれた声は、予想以上に甘く震えていた。

 その瞬間に体に走った痺れに、フィレインはただただ困惑した。気を抜けば泣いてしまいそうで、それがなぜかさえも分からない。

 なぜ、と問えれば良かったのかもしれない。けれどフィレインはそうはしなかった。

 二人の視線は今までで最も長く絡まり、そして無言のままに離れた。フィレインを捉えていた両手は優しく解かれ、体温と真実は距離と共に離れていく。

「……明日も、あの魔者を殺しに行くの?」

 かけた言葉は、本心とはまるで関係のないものだった。それでも、ストルギは足を止め、振り向いてくれた。

「俺は、この谷の魔者全員を殺す」

 それは到底実現不可能な、突拍子もない夢想だった。けれどあの夜にストルギが中庭で呼びかけたことを実現するためには、必要な道程であることもまた確かだった。

(この谷から魔者がいなくなって、魔獣を退ける手段を手に入れて、そして……)

 村の誰もが、子供を犠牲にしなくて済む未来が来るのだとしたら。

(優しさとか、怒りとか、復讐とか、きっとそれだけじゃない)

 絶望に満ちた夜に現れて、あまりにも遠い小さな光を連れてきたストルギ。自身は闇の中から決して出ようとしないのに、その存在は炎のように苛烈に眩しく、フィレインを惑わせる。

 それが全て、あの夜に飲み込んだ呪いのせいだとしても。

「あなたは、誰も愛さないと言いながら、この村の全ての人を愛するのね」

 彼の中の愛は、彼が導き出したものだ。だから、彼の言葉もまた否定したくはなかった。

 勝手に零れてしまいそうになる涙をどうにかまなじりふちにとどめて、フィレインは優しく笑う。ストルギの残された左目がみるみるうちに大きくなり、その頬に再び僅かな赤みが浮かんだ、と思った時。

「……そんなんじゃない」

 ぷいと、ストルギが背を向け、その表情を隠してしまった。それがいつか必ず訪れる乖離かいりを思わせて、また性懲りもなく胸が痛む。それは呪いのせいだと、自分に言い聞かせなければ、本当の気持ちを見失ってしまいそうだった。

 フィレインが笑みを取り繕えないうちに、ストルギが扉に手をかける。これでまた、今夜は終わり、と思った時。

「――お前は、『悪い子』なんかじゃない」

「…………え」

 なんの脈絡もなく、ストルギがそう言った。それは今までの会話で一度も出たことのない単語だったが、フィレインにはありすぎるほどに心当たりがあった。

(まさか……それって、置手紙の……)

 この館に来る前夜、両親に宛てた置手紙に、確かにその言葉を書いた。

 お父さん、お母さんで始まるそれは、こんな内容だった。

『私は、本当は悪い子です。良い子でいたのは、その方が楽で、自分に有利だと知っていたからです。けれど父母を騙して本当の良い子を捨てさせて以来、良い子でいることは楽ではなくなりました。それは、私自身が私の嘘を知っているからです。今まで騙していてごめんなさい。私は私のために、本当の良い子を――妹を取り戻します。』

 他にも細々としたことを書いたが、とにかくストルギはあの手紙を見てしまったし、それを書いているフィレインの心情もまた、見たということで。

(は、恥ずかしい……ッ!)

 あの時は死地に赴くぐらいの思い詰めた悲壮感に任せて書いたが、それを後日無関係の誰かに見られるというのは、信じられないくらい恥ずかしかった。まるで先程の意趣返しのようだ。

 再び両手で赤面した顔を覆いながら、掘り返さないで、と訴えようとして。

「騙しているとしたら、それはお前自身だ」

「!」

 続けられた言葉があまりに予想外で、フィレインは返す言葉も失って瞠目した。そして。

「……なぜ泣く?」

「……え?」

 背を向けていたはずのストルギが、すぐ目の前に立っていた。記憶の中とは違いすっかり伸び切って硬くなった指先が、フィレインの頬をそっと撫ぜる。自分でも気づかないうちに、堪えたと思った涙が零れていたのだ。

「泣くな」と、ストルギが短く言う。「それは……困る」

 それが本当に眉尻を下げて困惑している様子だったものだから、フィレインは涙がすぅと引いていくのを感じてしまった。

 あんなに怖かった年上の男性が、こんな顔をするなんて。

(なんだか、可愛い)

 そう思った途端、なんだか笑えてきてしまった。涙はすっかり引っ込み、動揺を笑われたと思ったらしいストルギが、不貞腐れたように指を引っ込めてしまう。その指を、今度はフィレインは迷わず掴んで引き留めた。

「!」

「明日も、来る?」

 美しい左目を真っ直ぐに覗き込んで、問う。ストルギが再び瞠目し、その顔にフィレインはしてやったり、と胸中でこっそり快哉を上げる。と、ぱしり、とその手を弾かれた。

「夜に来る。……逃げるなよ」

 そして続けられた声は、どこか誤魔化すようなぶっきらぼうな声が妙に子供っぽくて、フィレインは益々笑ってしまった。

「えぇ、もう逃げない」

 アナリュシスはどこにいるか分からないし、倒せる確率がそもそも低い。体の中の呪物も取り出せる確証はないし、ストルギの言うことはやっぱり夢物語のようにしか思えない。

 それでも、ストルギが諦めない限り、フィレインもまた芽生えたばかりのこの気持ちを抱いたまま、夜を待てる。そう思えた。

 生贄という忌まわしき仕組みがなくなって、新しい道を歩きはじめる夜明けに続く、まだ暗いこの夜を。



 後世にて語られる神話の中、生贄の一族の名が消え、代わりに鍛冶の一族が現れるようになるが、それはもう少し先の話だ。



「これだよ、これ。こういうのが見たかったんだ」

 洞窟のような薄暗いあばら家の中、岩壁に掛けた暗色のタペストリーを眺めながら、満足そうな声がそう呟いた。

「求めているのに拒んでいる。人間というものは、実に不思議で不可解だ。欲しいのならば手を伸ばせばいいのに、それをしない。そのくせ手を加えれば妙に単純で、他者どころか自分自身をも無意識のうちに騙している。これだから人間の観察はやめられないよ」

「相変わらず、下衆げすだなお前」

 狭い空間に反響する声に、奥から現れた新たな声が呆れたように口を挟んだ。

「あのえぐった目って、俺が加工してやったやつだろ。防腐しかしてないのに、何が呪いだよ」

「暗示には小道具が効果的だろ?」

 底意地が悪い、と毒づく声に、最初の声は無邪気に片目を瞑ってみせた。

「それに、何だかんだ文句を言いながら、君だってちゃんと僕のお願いをきちんと全部聞いてくれたじゃないか。ほら、あの眼帯だって」

「あの人間の視点でしか見れないのに、何が面白いんだ? お前、あの人間を観察したかったんだろ」

「視線ってのは、本人が思っている以上に当人の感情をよく表しているものなんだ。これを見てると、それが実によく分かる」

 言いながら、眼前の黒色の布を目指す。中心には模様のような汚れのような、白い染みが散っている。そしてそこから放たれる仄かな光が、布と岩壁しかないはずのその場所にあらざる光景を浮かび上がらせていた。

 館に来た当初の白く美しい肌はくすみ、土掘りと掃除ばかりで指先をすっかり荒れさせた少女。見た目にはあまり美味しそうではないが、こちらを見つめるようなその熱っぽい瞳だけは、食指を動かされる。

 声が聞こえないのが難点だが、両者の唇が離され、少女の姿が名残惜しげに消える瞬間などは、想像が掻き立てられてぞくぞくする。

「あぁ、今度はいつ会いに行こうかな」

 まるで泣く泣く引き離された恋人を思うような情欲に満ちたそれに、呆れきって見ていたもう一人は付き合いきれないとばかりにきびすを返す。

「変態め。いつか足元をすくわれるぞ」

「ふふ。愉しみだなぁ」

 愉悦を帯びた笑声が、洞窟の闇に反響して何重にもなる。応える声は、もうなかった。


(終わり)

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愛と生贄と呪いの夜 ~その口づけは甘くない~ 仕黒 頓(緋目 稔) @ryozyo_kunshi

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