第5話 復讐と真実
「……っんん……!」
復讐者の感情が、重なり合った唇から
(なん……なのよ、もう……!)
その熱を嫌という程意識しながら、フィレインは目の前の胸を弱々しく押し返す。するとストルギは、まるで承知しているとでも言うように手首の束縛も緩め、そっと床に座らせるのだ。
(なんなの、この男……)
乱れた呼吸を整えながら、胸中で毒づく。それが、この数日間で固まったストルギへの印象だった。
(道具のように私の意志を無視するなら、最後までそうすればいいのに)
文句は無数に出てくるが、それが憎悪なのか恐怖なのかも、今は曖昧だった。
ストルギのことは、やはり怖い。テュシアという、生贄にされた少女への愛が本物だったと分かるから、余計にその復讐心は意識に深く刻まれ、体が震えた。
だが毎夜毎夜ストルギの記憶を見させられたお陰で、目的の一つはいい加減分かっていた。
「……復讐は、できたの?」
足早に部屋を出ようとするストルギの背へ、抗ったせいで微かに掠れた声で呼びかける。反応は、やはりなかった。フィレインに一時でも力を与えてくれた剣はあの夜にすぐ奪われてしまったが、フィレインは構わず続けた。
「魔者を殺すだけなら、どうして他の人間まで殺したの。彼らは、何もしてないのに」
その問いに、ついにストルギが足を止めた。首だけで振り向いて、隻眼を
「テュシアのことを告げ口した。嬉しそうな顔をしたというだけで、テュシアを問い詰め、魔者に生贄として勧めた。同罪だ」
それは、あの記憶の中にはない情報だった。だが仮にテュシアが生贄にされたのが数年前だとして、同時代を生きた人間がまだこの屋敷で生き残っているという可能性は十分考えられた。となると、殺されたのは、当時からいた古株ということだろうか。
「だったら、フィーナは? あの夜、側にいた女の子はどうしたの?」
そしてその夜はそこまでだった。
だがフィレインは、もう受け身でいることはしないと決めた。
ストルギのいなくなった部屋――目に付く遺体を土の下に埋葬した後、生活する部屋だけでも血痕を拭きとったのだ――で、フィレインは今までの情報を分析する。
先程の質問への反応から、ストルギがアナリュシを殺せていないことは確実だ。そして記憶の中で別の魔者に勝てなかったことから見ても、その力がどんなに強くなっても、勝機は少ないのではとフィレインは考えた。
(日中にいないのは、まだアナリュシを探してるからなのかな)
そして、鬼の居ぬ間に遺体を片付けたからこそ分かる。
(数が圧倒的に少なかった)
少なくとも、アナリュシスが全員を中庭に集めたあの夜にはまるで及ばない。つまり。
(みんな、逃げられたのかな)
あの夜、誰もが興奮して怯えていたが、しかしフィレイン以外にも初めてだった者は少ないはずだ。そこに異質な部外者の乱入と人死にがあり、しかも主が行方を
少なくとも、住処を荒らされて激昂した魔者が戻ってくるのを館の中で漫然と待っているのが賢い選択とは、フィレインだって思わない。
(……フィーナも)
両親の待つ家に帰ったのだろうか。それこそがこの館に来た目的だったのだから、そうであれば本望とも言える。
だが……両親に抱きしめられる妹の姿を想像すると、胸が張り裂けそうな悲しみが押し寄せるのを認めないわけにはいかなかった。
(そりゃ、目の前で刺されたしね)
死んだと思うのが当然だろう。実際、残した二子が死亡し、生贄に差し出した子供を呼び戻した前例は幾度かある。
どちらにしろ、この館でたった一人残されたフィレインを探しに来る者は、誰もいないだろう。あの男を除いては。
「……いやいやっ、違う違う!」
勃然と胸に湧いた感覚に驚いて、フィレインは思わず声を上げて思考を掻き消す。
「寂しいわけじゃない! それにあの男が全部の元凶なんだから!」
勝手な理由で殺されかけたのだ。この世に残されたたった二人の男女となっても、心を許すつもりはない。
大体、あの魔者の嗜好から考えれば、二人を放置してどこかに雲隠れなどしない気がする。フィレインに呑ませたもの――それが何だったか、既に答えは得ている気もするが、敢えて目を背けた――によって感情の向きを操るのが目的なら、フィレインの行動をつぶさに観察したいと望むだろう。
問題は、どうやって自分たちを見ているかだが、こればかりはさっぱり見当もつかなかった。
(『人を愛する呪い』なんて……)
元種の一族の考えることは分からない。それのどこが呪いなのだろうか。
「とにかく、今日こそ、ちゃんと話をする」
そう決意して、フィレインは自分だけの食事を作り、裏庭の墓に花を供え、陽が沈むのを待った。そして。
「いらっしゃい」
掃除が済んで以来自分の部屋でストルギを待ち構えることにしていたフィレインは、その夜、初めて出迎えの言葉を口にした。
「……今日は、逃げないのか」
ストルギは一瞬面食らったように瞠目した後、挑発するようにそう言った。口付けされる前にストルギが自発的に口を利いたのはこれが初めてだと思いながら、フィレインは応える。
「力ではあなたに敵わないから。それよりも、今日こそ、ちゃんと話がしたいの」
「……見たなら分かるだろう」
「そう、それ。どうして私にあなたの記憶を見せるの? 目的は?」
「…………」
「だんまりはいい加減もうやめて。理由や目的が分かれば、私は、抵抗……しない、ことも、ない、かも……」
「? どっちだ」
ストルギが、意味が分からないと言うように左の眉を上げる。それが妙に恥ずかしくて、フィレインは「だ、だからっ」と誤魔化すように声を張り上げた。
「理由が分からないから答えも出せないって言ってるのよ!」
この言葉に、ストルギが初めて吟味するような雰囲気を見せる。そして、
「…………あぁ」
吐息のような同意を示した。
◆
「記憶は、勝手に流れてるだけだ」
壁に背を預けた姿勢で、ストルギはそう答えた。フィレインもまた、背中の壁を通して夜の冷気を感じながら、その言葉に耳を傾けた。
「お前に記憶を見せるのが目的じゃない」
「じゃあ、なんなの?」
「……俺の力は、全て魔者に体を変えられて得たものだ。傷を治すのも、物を探るのも、魔者のような
「……えぇ、見たわ」
「だがその中でも、自分の意思で操ることの出来ない力がある。それを使う手段が、対象者の体の内側の皮膚に触れることだった」
歯噛みするような不快さで言われたそれに、フィレインの頭の中であの魔者の声が復唱される。
『体内皮膚接触方式にしたよ』
この言葉だけでは具体的な方法が浮かばなかったが、ストルギの説明を受けて、やっと理解した。
「内側って……まさか、そういうこと!?」
皮膚接触は容易だが、それが体内となれば方法はずっと限られてくる。その中で最も簡単で手早い方法が、あの口付けということなのか。
「傷を治すには、口の中の皮膚に触れる必要があったから」
淡々と続けるストルギに、しかしフィレインは堪えられずに声を裏返した。
「だ! だったら、何も口で塞がなくってもいいんじゃないのっ?」
「? 両手で拘束したら、口しか残ってないだろ」
しかし返されたのは、何の不思議があるとでも言いたげな声だった。
(こ、この男、口付けの意味を知らないのかしら!?)
あんな風に唇を奪った理由が、まさかの消去法だったなんて。
(おっ、思い出さなくていい! がっかりなんてしてないっ)
しかし意識すればするほど、強引な口付けや口の中をなぞられるような舌の感覚が鮮明に蘇って、どんどん顔が熱くなる。だがそこに、フィレインが悩んだような意味はないのだ。
(いやいやそれよりも!)
「傷を治すなら、先に言ってくれれば良かったのに!」
どうにか残った理性的な部分が大声で非難を上げる。が。
「腹を刺した闖入者に治療をすると言われて、素直に顔を差し出せるか?」
大真面目な顔で至論を返された。想像した。勿論逃げると思った。
「だったら、何故そもそも私を刺したの?」
「それは……」
不貞腐れ気味に根本的な問題を問い質すと、ストルギは初めて歯切れを悪くした。
「お前が、アレを『欲しい』と言ったから」
「!」
まさか、アナリュシスとのやり取りのことを言っているのだろうか。その直後に現れたのだから、聞こえていても不思議ではないが。
「あの一言で、私を魔者の手下か何かだと思ったってこと?」
だとしたら酷い誤解だ。愕然として問うと、ストルギが初めて見せる困惑で否定した。
「いや、それはもう誤解だと分かった。だから治しただろ」
「なっ、なにその態度! 誤解って分かったっていうけど何を」
「お前の記憶も、流れてくるから」
「根拠に――え!?」
「お前の記憶の前後で、あの時の事情は理解した」
「…………」
ストルギが自分の調子を崩さずに弁明を続ける中、フィレインはもう言葉もなく沈黙した。悶絶していたとも言う。
(見られた? 私の記憶を、同じように……ッ)
それは口付けに勝るとも劣らない羞恥だった。家で一人泣いてるところも、妹への劣等感に苛まれているところも、ぐじぐじと悩んでいるところも全部見られたのだ。それは自分の立場や目的を知られる利点を殺して余りある恥ずかしさだった。
暫く両手で顔を覆って、この何とも形容のしがたい羞恥心を一人無言でバリバリと噛み砕くフィレイン。
その間、ストルギは意外にも律儀に、フィレインが回復するのを待っていた。
「それで……傷が治ったのに、どうしてまだ、その……続けるの?」
自分の中身をくまなく覗き見られたような気恥ずかしさを押し殺して、肝心なことを問う。答えは、予想の
「右目が見つからない」
右目、と具体的に言われ、思わず生理的な吐き気が喉を灼いた。右手で口を押え、気持ちの悪さをどうにか飲み込む。それでも、視線が勝手にストルギの黒い眼帯を盗み見るのは止められなかった。
白い模様のような汚れのようなものが点々とついた、黒い眼帯。その奥は……空洞なのだ。ぞくり、と肌が粟立つ。その刹那。
『――そうだ。探せ。求め続けろ』
「!?」
アナリュシスのあの粘りつくような声がすぐ耳元で聞こえた気がして、フィレインはバッと振り向いていた。しかし穴など開いていないこの部屋は現在密室で、魔者の姿などどこにもない。
(なに、今の……?)
引かない怖気のままにストルギに視線を戻す。が、復讐のためだけにここに戻ってきたはずの男は、突然のフィレインの妙な反応に小首を傾げるだけだった。
(聞こえて、ないの?)
しかしそれを問うことは、何故か出来なかった。代わりに、震える唇で当たり障りのないことを聞く。
「……見付けて、どうするの?」
「取り除く。あれは、呪物だ」
「そんなことが出来るの?」
「……出来なければ、呪いが成就するだけだ」
その声は、余命を告げるように冷ややかだった。その憎悪とも諦念とも言えない雰囲気にフィレインが最初に感じたのはけれど、憐みでも恐怖でもなく。
「その呪いを……あなたは、もう感じているの?」
焦燥感にも似た胸の軋みだった。けれどその答えが是でも否でも、フィレインは傷付くような予感がした。果たして。
「……俺は、二度と誰も愛さない」
魔者への復讐心と同じだけの拒絶が、その言葉にはあった。フィレインは、その決意を知っていた。彼の記憶の中で、もうとっくに。
(だから、傷付いたりなんかしない)
けれど。
「これで、お前の知りたいことは全部か」
ストルギの苛立つような投げやりなような声が、その先の感情を無情に押し潰す。
「だったら、黙って唇を差し出せ」
傲慢なほどの言いざまで、ストルギがフィレインの元へと歩み寄る。いつものように手首と首を掴まれるが、その力は今までと比べ物にならない程丁寧で、優しかった。
(助けたいから協力してくれって、言えばいいのに)
胸中であんまりな意訳をしながら、至近距離に迫った隻眼を見上げる。その美しい瞳も精悍な顎の線も、何も変わっていないはずなのに、初めて唇を奪われた夜に感じた恐怖は、もう欠片もなかった。
「……っ」
頷くよりも早く、ストルギの顔が近付き、口の中に他人の熱が侵入する。
喘ぐ舌先に触れた熱の、その窺うような慎重さが意味するものを、フィレインは敢えて考えないようにした。
体の内にも外にも触れる体温に、もう少しも嫌悪を感じていないことには、気付かないまま。
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