楽曲制作=苦難
俺は嫁に秘密がある。
それは俺がvital signs(バイタルサイン)というバンドのボーカリスト・
そして嫁は、自分が追いかけているvital signsのキルが、俺だということを知らない。
アラームで目が覚める。
重い頭を起こし隣りを見ると、そこに嫁がいない。
出ていったとかそういうのではなく、とっくに仕事に出かけたのだ。
こういう時、しつこく起こしてくれる相手がいないと、スキッと起きられない。
頭はふわふわと浮いているようで重く、重力に従い、また枕に吸い込まれてしまった。
嫁は、俺のことを普通のサラリーマンだと思っているが、俺はバンドマンである。
仕事柄、深夜に仕事をすることも多い。むしろ朝から仕事とということのほうが少ないので、今ももう、時刻は昼を過ぎている。
今は本当に便利な時代で、俺はフレックスタイム制の会社で働いているということになっている。
フレックスタイム制とは、社員が自由に始業や就業時間を決められる制度のことである。
これなら朝が遅くとも、深夜まで働いていようとも、言い訳がたつのだ。
ノロノロと準備をして、家を出る。
自宅の最寄駅から2つ隣の駅で降りると、俺は家とは別のマンションに入る。
ここは自宅でもなく、事務所でもない。
もちろん囲っている不倫相手の家でもない。
ここは、俺の仕事部屋だ。
もともとピアノ教室だったという一室のため、防音設備がしっかりとしている。
俺は仕事部屋のクローゼットを開けると手早く着替え、ソファーに腰掛ける。
顔は映らないようにスマートフォンで自撮りをして、トゥイッターにアップ。
ファンサービス兼、嫁に正体がバレるのを防止する対策である。
今頃嫁は、仕事中だというのに身悶えて喜んでくれていることだろう。
さてとと、パソコンの電源を付けながら、昨日の会議を思い出す。
「それでは、次回はシングル曲のリリースということで。」
会議室にはメンバーをはじめ、マネージャーやA&Rなど、さまざまな面々がそろっている。
ライブはやりたいが、正直、曲を作るのに疲れ始めているこの頃。
でもそんなことも言えず、言ったらベースの
「まずは、メンバーからこんな感じでいきたいとか、なにかイメージとかやりたいことはありますか?」
「カッコイイ感じにしたいです!」
「バンドのイメージにそっていれば何でも挑戦したいです!」
無言に耐えれないメンバーが意見を出すが、マネージャーが舌打ちを1つ。
「お前らいつもそればっかりだな!そんなふわふわした意見は大前提なんだよ!」
クリーム色のスーツに身を包んだマネージャーは素朴な見た目の女性だが、心底ガラが悪い。
メンバーが静まり返ると、他のスタッフが「まあまあ」と間を取り持ってくれた。
「発売時期は夏前くらいなんですよね?」
ドラムの
「フェスの話も出ているし、僕としてはバラードよりガンガンのれる曲が良いかなーと思いますね。」
「と言うと、ライブを意識した感じ?」
「ですね。」
空は銀髪にパーマをあてて、ファンからは羊みたいと形容される見た目であるが、メンバーの中では1番しっかりしている。
レコード会社側から特に反対されることも無く、販売時期や宣伝方法、インストアイベントなどを視野に入れるという話なども出て、ほうほうと俺や
「あまりコアな感じにはならず、あくまでシングル曲というキャッチーさも取り入れて楽曲制作をお願いできればと思います。」
「分かりました。僕たちのバンドのイメージがもともとコアなので、あまりポップにはならない方向で作ります。」
空のスムーズなやり取りに感謝しつつ、こういう時、音楽も商売なんだなと実感する。
「バンドのイメージは崩さず、ライブを意識したキャッチーな曲ねえ……。」
俺は仕事部屋で呟いた。
まさに言うは
アイディアが浮かない時は、まずスマホに録り溜めていたフレーズを聴き返す。たまにふとフレーズが浮かんだ時に、スマホに鼻歌で録音しているのだ。
自分がフンフンと歌っている音声を聴くのは、いつまで経っても慣れず、小っ恥ずかしい。
今求められているものを考えると、フレーズ自体は気に入っているものばかりだが、いまいちピンとこない。
室内で、ブリッジしたりヨガっぽいポーズをとって過ごすも、時間だけが過ぎた。
夏、なつ。
ギラギラ光る太陽、海、砂浜。
パーティーピーポーのような曲はバンドのイメージとは対局で、特段、チャレンジしてみたいというつもりもない。
俺はため息をつき、考えることを一旦やめた。
今日はもう、作るのをやめて家に帰ろう。湯船に浸かって、美味い飯でも食おう。
頭の中は何も無くて、むしろ眠気が襲ってくる。
何をする訳でもなく1日が終わった。
こんな日が何日か続いた。
布団の中で目を閉じるが、眠れるわけもなかった。1日中ダラダラ過ごした体は、疲労も無く、寝すぎて疲れていた。
こういう時、体が底なしの穴に落ちていくような恐怖を感じる。
人気商売だ、明日の保証はない。
曲が作れなくなったら、売れなくなったら、歌えなくなったら。
そんなことばかりを考えて、恐怖から身を守るように体を縮めて眠る。
浅い睡眠を繰り返し、体というより心が疲れてきた。
しかしそうも言っていられず、いよいよデモ発表の会議が近付いてきた。
俺は夏をイメージしようと仕事部屋にあらゆる暖房器具を揃え、室温30度以上、Tシャツ姿で過ごすことにした。
案の定、汗はダクダクで、しんどい。
暑さから連想するものを、とりあえず思い浮かべた。
今しっくりくるのが、太陽。
太陽というと、神話のような神々しさ。
試しに太陽にまつわる神話を検索してみると、太陽神や太陽消失という、なかなかくすぐられるワードが並ぶ。
両手を広げて、突き刺すような音がガツンとくる見せ場がある曲はどうだろうか。
思い立つがまま、ソフトに入力していく。
地味な作業だが、頭の中はアドレナリンが全開で、こういう時はすごく楽しいと感じる。
曲の展開は、始まりは、サビにキャッチーさはあるか。色んな思考を巡らせていく。
ああでもない、こうでもないと試行錯誤し、やっと大筋がたったのはもう明け方になってからだった。
ライブでだってこんなに汗をかきはしないというほど汗をかきながらできたこの1曲は、なかなか気に入るフレーズのある曲で、美術品を眺めるように、何度も曲を聴き返した。
首の皮が繋がったような安心感と、早く聴いてもらいたいと疼くこの感覚。
上機嫌で、なにか飲もうと立ち上がった瞬間、めまいがして床に倒れ込んだ。
状況が飲み込めず、混乱している間に吐き気が込み上げ、トイレへ急ごうとするが体がうまく動かせない。
頭がガンガンと痛む、部屋が暑い、喉が渇いた。
助けを呼ばなければとスマホを取り出すが、嫁は呼べなかった。この部屋を知られてはまずい。
救急車を呼んでも良いのだろうかと考えるも、勇気が出なかった。
震える手でマネージャーに電話をかける。
断片的に意識はあったが、ハッと気が付くと、病院にいた。
ポタポタと点滴が落ちている。
グラグラとする頭で、ボーッと状況を整理すると、カーテンをあけてマネージャーが入ってきた。
素朴な見た目の女性だが、チッと舌打ちし「馬鹿たれが。」と一瞥をくれる。さすが病人にも容赦ない。
「なんなの、あの部屋は。暑すぎて火事かと思ったわよ。」
「いや、曲作ってて。それで……。」
恐る恐る答えると、「はあ?」と冷たい言葉が返ってきたので、それ以上は何も言わなかった。
「熱中症ですって。夏でもないのに、医者も引いてたわよ。」
「そうなんだ……なんか脳の病気かと思った……。」
「違って良かったわね。」
良かったという割には無表情でスマホをいじり、感情が比例してないなと、こちらも冷めた目で彼女を見つめる。
点滴が終わったら帰宅して良いと医者から話があり、大事無いと分かると、もう昼に近いためマネージャーも早々に帰った。
絶対入院だと思ったのに、簡単には入院にならないらしい。
仕事部屋へ戻りパソコンをたちあげると、暑さのせいかデータが壊れ、せっかく作った曲が消えていた。
そんな夢を見た。
嫌な夢に、心拍数が上がる。
どのくらい寝ていたかは分からないが、点滴は残り半分をきっていた。
点滴が終わり、鉛のような体を引きずるように帰路へつく。
夢のせいもあり心も重く、晴れない気持ちだった。
自宅に着くと、嫁が居た。今日は仕事が休みのようだ。
嫁は昼寝をしていて、パンパンにむくんだ顔だったが、妙に安心感があり、隣りへなだれ込んだ。
振動で起きた嫁が、不満そうに声をあげる。
「……今、キルが添い寝してくれる夢見てたのに……。」
「正夢じゃん」と、ツッコミを飲み込んだ代わりに嫁を抱きしめた。
頭がグラグラとして、明らかに本調子ではないが、こんな思いをしてまで作った1曲があると思うと、体が疼いた。
週末、デモ曲を持ち寄りシングル曲を決める会議を行う。
全員が何曲か持参し、当然、日の目を見ない曲がいくつもある。
バンドを思えば、もちろん最善の曲を選びたい。
しかし自分の作った曲が表題曲になる感動と興奮は、譲れるわけがない。
天井をボーッと見つめて、届きもしないのに手を伸ばす。
絶対に表題曲を取りにいくぞと、俺はその手のを強く握った。
嫁の推しメン=俺 御手洗 一貴 @toilet_ittaka
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