第9話「民衆」
某日、渋谷ハチ公前。
女は片手にペン、もう片方に手帳を持ち、ポケットにはレコーダーを忍ばせ、今日も何やら歩く人をジロジロ見ながら品定めする。
そして一人の若い男に目をつけた。男は派手な黄色のニット帽をかぶり、後ろからは僅かにはみ出した赤い髪が確認できる。虹色に反射するサングラスをかけ、唇にはチェーン、耳や舌にもキラリと光るピアスをつけた、昔ながらのストリートギャングを彷彿とさせる風貌だ。
常人なら、声をかけることすら戸惑うほどだろう。
だが、明らかにか弱いであろうその女は、物怖じすることなく男に近寄った。
「すみません、少しお話し聞かせていただけますか?」
「あぁ? んだよてめぇ」
「申し遅れました。私、しがない物書きの
女はそう言って名刺を差し出した。黒くて長い髪を後ろでポニーテールにし、どこにでもありそうなレディスーツに身を包んだ二十代半ばくらいと思われる女性。顔立ちは万人が美人だと口を揃えて言うだろうと容易に想像できるほどに整い、血筋が日本人であることがよくわかる。
「んなこたぁどうでもいいんだよ! 何の用かって聞いてんだ!」
「ですから、お話しの方をですね聞かせてもらえないかなと、例の死刑権について」
赤髪の態度な恫喝に近かったが、三木はその程度では全く動じず、むしろそれ以上に身を寄せ付ける。
流石の赤髪も、自分の明らかな威嚇にも怯まない三木に少々不気味さを覚え、同時に面倒にもなったため、仕方なく素直に答えた。
「あー、死刑権ってあれだろ? 死刑囚を死刑にするかどうか俺らが票入れて決めるってやつ」
「そうです。お兄さんは見た感じまだ二十歳前後でいらっしゃいますよね? 今ちょうどそのくらいの年齢の人物に話を伺っているんです。もちろん話は記事にしたいと思っているので、その辺の許可もいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「別にそんくらいならいいけどよぉ、特に何も感じてねーぞ。俺は適当に早く終わればいいとしか思ってねーしよ」
三木は軽くメモを取った後、ポケットから取り出したレコーダーのスイッチを入れ、赤髪に向けた。
「では、死刑にする。の方に投票するということですか?」
「まあ、そうなるな。たしかこれ、裁判やり直すんだろ? その後でまた死刑になって投票とかだりぃからよ。それに、この変な制度がなきゃいずれ死刑になってた野郎だ、なら別に殺されてもそれが普通だろ?」
赤髪は見かけによらず、割と真面目に自分の意見を言った。三木はレコーダーを一度オフにすると、再び手帳に何か書き始めた。
「これは中々貴重なご意見をいただけました。かなり割り切って考えていらっしゃるようですね。実は三十分ほど前に、あなたと近い年齢の若干突っ張った少年からも話を聞いたのですが、ここまでしっかり自分の意見は提示していただけませんでした。インタビューにお答えいただき、ありがとうございました!」
三木は深々と頭を下げ、最後に記事にしていいかどうかだけ訊き、赤髪は特に断る理由もなかったためこれを了承した。
人は見かけで判断してはいけないと言うが、まさにその通りである。赤髪は最初こそ態度は悪かったが、素直さはしっかり持ち合わせていた。
三木には、そういう人間から素を引き出す力が幼い頃から備わっていた。
三木は、埼玉県のとある田舎町で生まれた。
一時間に少なくて一本、多くて二本しかない私鉄を利用するのが嫌で、自転車で通える地元の中学や高校に進学するが、いつかはこんな町とおさらばしたいと常々思っていた。
しかし、特にやりたいこともなく、学生時代はただただ無駄に年月を過ごすだけの日々が続き、高校三年になる頃までは、地元での就職を考えていた。
それでもよかったが、やはり都会で食べていきたいという願望があった。だが、彼女には何の才能もなかった、ある一点を除いては。
「みきちー、お昼一緒に食べよ」
「うん。屋上行こっか」
その日もいつものように友人と校舎の屋上で昼食を取っていた。彼女の未来を大きく変えたのは、友人のある一言だった。
「ねぇ、ちいたんは卒業後何するの? 地元は出る?」
「えー、わかんなーい。まだ何も決めてないし。みきちーもまだっしょ?」
三木の友人、
「もう二学期だよ? そんなんで大丈夫なの?」
時期は九月中旬、既に大学に進学が決まっている者もいる中、滝本と三木は自身の将来に関して未だ決めかねていた。
「みきちーはいいよ、だって才能あるもん。そっちの道に進めば絶対上手くいくし。けどあたしは何もないからさー」
「ちょっと待ってよ、私だってちいたんと同じで何もないって、才能も夢も」
「うっそ、みきちー自覚なかったの?」
滝本は目を見開き、不思議そうに三木を凝視する。
「……自覚って、なんの?」
「だってみきちーってさ、人を素直にさせる力があるじゃん。みきちーって肝が座ってるというか、堂々としてるというか、誰に対しても自分の素を見せてくれるんだもん。あたしもだけど、そうするとこっちも素直になっちゃうんだよね。だからさ、そういうのが活かせる仕事に就くのがいいんじゃないかなって、あたしは思うけど」
「ひ、人の素を引き出す才能、ってこと?」
「そうそう! 検察官とか弁護士とか向いてそうじゃない? 目指してみなよ!」
「無理だって、私の成績が酷いのはちいたんだって知ってるでしょ」
「あー、たしかそうだったね」
「ちょ、そこまで言ったならなんかフォローの一言くらいちょーだいよー」
「にははは、ごめんごめん」
「ったく、やっぱダメじゃん。才能あってもそれを活かすにはやっぱ勉強しなきゃだし。特に目指すものなかった私が今更、もう遅いって」
三木は特に卑屈になりやすい性格ではなかったが、今はギリギリの時期ということもあり、妙に落ち込んでしまう。元々自分に自信があるタイプではない、変に期待が生まれた分、喪失感もまた大きかったらしい。
「んなことないって、例えばほら、インタビュアーとか! 色んな人に話聞いたり記事にしたりしてさ、そういうので活かせないかな?」
滝本は励ますように新たな選択肢を推薦する。だが、突然言われても三木がそれをやりたくなるというわけでもなかった。感じるのは底知れぬ不安と恐怖。そして、本当にそうなのだろうかという、疑念。
「まあでも、決めるのはみきちーであって、あたしじゃないから。最後は自分で決めるべきだと思うよ。ただ、みきちーずっと言ってたでしょ、この町から出たいって、都会で暮らして行きたいって」
「そうだけど、急に言われても困るよ。そんなに色々。だって、今まで何もなかったんだよ? やりたいことなんて。それに、私が出てっちゃったら、ちいたんとお別れすることになっちゃうし」
三木は目に涙を込めながら、体を丸めて膝の前で腕を組んだ。
「んもぉ、そんな顔でそんなこと言われたら好きになっちゃうじゃんかー。みきちーってば可愛いなぁ! もう!」
その姿にときめいたのか、滝本は三木を優しく抱き寄せ、頭を数回撫でた。
「ちょ、やめてってばちいたん! 恥ずかしいよぉ」
「うるさい、この性悪女め、あたしを誑かそうとしおって! ちょっと我慢しろ!」
「えー、そんな、誑かすなんて大袈裟な」
「いやいやいや、みきちーは自分の魅力に気づいてないんだよ。この鈍感女! そりゃあたしだって寂しいよ。みきちーとは、これからもずっと一緒に居たかったんだから」
「な、ならやっぱり……私はこのまま」
「でもねみきちー、あたしはみきちーが妥協して未来を決めてほしくないし、あたしや地元に流されてほしくもない。ちゃんと自分の意思で、自分の進みたいところに行ってほしいの。みきちーが都会に憧れてるなら、絶対そっちを選ぶべき。だってほら、もし嫌になっても、あたしはみきちーを拒んだりしないよ。いつでも帰ってきていいんだから。ならさ、チャレンジしてみるのも悪くないんじゃない?」
滝本は三木にとって欠けてはならない存在だった。それは当然、滝本からしても同じ。だが、人は何かを得る時、別の何かを失う。今がまさにそれなんじゃないだろうかと、三木は思った。
親友を取れば、今まで通り、何事もなく楽しく平和に暮らせるだろう。
しかし、それでは何も始まらない。自分は本当はどうしたいのか、三木はまだ理解できずにいたのだ。
「これからさ、一緒に考えみようよ。みきちーのやりたいこと。私も協力するからさ!」
「うん、ありがとう。ちいたん」
自然と滝本に身を寄せる三木。二人は以前から屋上だけでなく、公然の場でも手を繋いだり腕を組んだりしているため、周りからは百合なのではと密かに囁かれている。実は、容姿がそこまで悪くなく、むしろ上玉の二人に今まで男の影がないのも、その噂のせいだったりするが、本人たちはそのことを知らない。
その日の放課後、三木と滝本は帰宅する前に書店に寄っていた。
実は滝本は小説を読むことが大好きで、普段から家や学校で読みふけっている。好きなジャンルは特にないが、強いて言えばノンフィクションの社会派小説。ペンの力でこの世の悪や秘密を告発していくものだ。
「ちいたん、今日は何買うの?」
「
シンプルなタイトルだが、内容がいまいち伝わってこない。正義の怪盗が悪から宝石を奪い取るという感じにしても、『略奪』だけではその言葉がストーリーの鍵を握るだとか、意味を言い換えると実は何かあるだとか、色々予想がついてしまう。
「ちいたんは小説家にはならないの?」
「え? あー、うーん、それはないかなぁ、あたしって読み専だし」
「そうなんだ。そんなに読んでるなら書けそうな気がするけどね、ちいたんにも」
「いやいや無理だよ。あたし文才ないし、それよりもみきちーの方がこういうの得意そうな気がするけどなぁ」
「え! そ、そんなこと、だって小説なんて有名なのしか読んだことないし」
「わかんないよぉ、書いてみたら割と才能発揮しちゃったりして! みきちーが作家になったら、あたしが作品を宣伝してあげるよ! なんかこれ良くない?」
ないない、と愛想笑いしながら胸の前で手を振る三木。卑屈な人間ではないが、あまり自信がないため、それが特に将来への意欲に繋がることもなかった。
三木も、滝本が冗談で言っているだけだと思っており、そこから本気で目指すなんて馬鹿らしいとまで感じていた。
変にのせられて、小説家などという不安定で将来性のない職業は、ギャンブルや綱渡りと何一つ変わらない。非常に危険だ。
なることさえ難しく、そのうえで出した本が売れなければその後は絶望的。
たとえ才能があったとしても、世の読者のニーズや流行を理解していなければ作品は売れない。まだ就活中のフリーターの方がましなレベルだろう。
もし仮に目指すとしても、それは就職して収入を得ながらか、大学に通いながらの間だけ、無職の状態でそんな夢見がちなことは当然言ってられない。
大学に行く予定がない三木からしてみれば、残った時間は半年だけ、就職しても続けるというのであれば話は別だが、今のところそこまでのやる気はなかった。
「あーあー、読んでみたいなぁ、みきちーの書いた小説。絶対面白いはずだよ。色々な人から話を聞いてさ、それを全て小説のネタに活かせば、みきちーの才能も相まって完璧じゃないかな?」
「そ、そうかなぁ?」
三木の中ではまだ不安が残る。それに、小説家になったからといってこの田舎から出ることにはならない。別にどこだろうと小説は書けるだろうし、むしろ一人暮らしを始める方が生活的に困難だ。
「そうだよ! 自信なくても一回書いてみたら? もしかしたら光る何かが見つかるかもよ! やらないよりやってみるだよ!」
「はいはい、わかったよ。今度軽く書いてみるね」
「そうこなくっちゃ! さてと、本買ってそろそろ帰ろっか」
結局、滝本の熱意に押されてしまった三木。
三木に少しでも意欲が湧いたことが嬉しかったのか、滝本はニコニコと子供のように可愛いらしい笑みを浮かべ、気分良くステップを踏みながらレジへと向かった。
好みの本を購入し、家路につく二人。時刻はまだ五時前だが、秋の陽気が漂い、西に傾いた太陽が、町をオレンジ色に照らしていた。
「もう秋だねぇ」
「そだねー、ちょっと寒くなってきたかも。昼間は暑いけど」
「わかる! それすっごいわかるよみきちー! あたしが一番嫌なやつ。服装とかちょっと間違えるとめっちゃ暑いのと寒いので死にそうになるよね」
「上着とか持ってないといつのまにか暗くなっててやばいもんね」
そんな何気ない話をしながら、二人はいつものように帰宅した。
「ただいまー!」
だが、そんな平穏はいつまでも続かなかった。
事が起きたのは九月の終わり、もう十月を一週間後に控えていた頃。
滝本千尋が、死亡した。
下校途中、居眠り運転のトラックに轢かれ、救急車も間に合わなかった。
三木と別れた直後、彼女の目の前で、亡くなった。
滝本と親友以上の関係だった三木は、ショックでそれからしばらく学校を休んだ。
彼女がいない学園生活など、三木には考えられなかった。
完全に不登校となってしまい、元々酷かった成績はさらに落ちていった。
このままでは留年となり、卒業は無理だろうと誰もが思った。
そんなある日、三木にとっての転機が訪れた。
「青蘭、あなたにお客さんよ」
母親に呼ばれて玄関に向かった三木は、そこに立っていた意外な人物に目を剥いた。
「お久しぶりね、青蘭ちゃん」
「ちぃたんの、お母さん」
そこにいたのは滝本千尋の母親だった。手には小さな包みを大事そうに持っている。
「どうしたんですか? 突然」
「青蘭ちゃん、来週誕生日でしょ。千尋ってば、事故の日の前からプレゼント用意してたみたいで、それを届けに来たの」
「嘘、そんな前から」
滝本の母親は小包みを三木に渡すと、一礼してその場を後にした。
自室に戻り、滝本が生前に残したプレゼントの中身を確認する三木。
包みの中にはリボンで装飾を加えられた紙袋が入っており、開ける前からだいたいの中身が想像できた。
上からの形ではっきりわかるそれは、間違いなく何かの本、それも小説好きの滝本からのプレゼントならば、十中八九小説だろう。
だが、プレゼントの内容は予想とは少し違っていた。
本なのは間違いないが、それは小説とは異なるものだった。
「こ、これって」
本のタイトルは単純で簡潔、『小説家になるためには』というわかりやすいもの。
どうやら滝本は三木が思っていた以上に、三木の持つ才能を信じていたらしい。それほどまでに三木の書いた小説が読みたかったのかもしれない。
気づけば、涙がポロポロと溢れ、床に敷いてあるカーペットを濡らしていた。三木にはわからなかった。頬を伝う滂沱の涙の正体が。どうして今になって、こんなにも止まらなく流れてきているのか。
滝本が事故死した日も、三木の目は枯れきっており、涙の一粒も流れなかったというのに。
そしてわかった。
これは悲しみではなく、嬉しさの涙なのだと。
まだ、滝本の意思がこの世に残っていたことに対する歓喜なのだと。
三木は心の底から嬉しかった。部屋に立てかけてある姿見には、滝本を失ってから抜け殻のようになっていた昔の自分は、既にもうそこにはなく、生きる希望に満ち溢れた少女の姿があった。
三木の新たなる目標、小説家への道がこの時始まった。
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