第7話「法」
それから一時間ほど経ったが、依頼人は一向に姿を見せない。
須藤はイライラしてタバコを吸っていたが、ついにはそれも尽きてしまい、ヤニが足りなくてさらに苛立つ。
木崎は三十分で依頼人が来ると行っていたが、遅れてくるという連絡するなかった。
もう来ないんじゃないか、そう思った瞬間、コンコン、と入り口のドアをノックする音が事務所内に響いた。
ソファに座って貧乏ゆすりしていた須藤は、バッと起き上がって、すぐさま崩れた襟やネクタイを整えた。
ドアを開けて出迎えると、そこにはヨレヨレのコートを着た中年男性が立っていた。
「初めまして、神崎浩司です。遅れてしまい申し訳ありません。あ、今日はその、ある男を弁護してほしく、お願いしに参ったしだいです」
男は深々と頭を下げる。緊張しているのか、その態度は妙に堅苦しい。
「須藤龍之介です。お待ちしていました。どうぞ、お入りください。中で詳しい話をお聞きしましょう」
須藤は神崎を招き入れ、温かいお茶を淹れる。
神崎はそのお茶を一口だけ飲む。
「それで、弁護してほしい男とは?」
「先生もご存知でしょう、例の公園で起きた少年殺しを」
「はい。存じ上げてます」
それどころか、さっきまでその事件についてのニュースや記事に目を通していた。須藤の予想は見事的中したのだ。やはり、弁護の依頼は丸山勇に対してのことらしい。
神崎は膝の上で拳を強く握りしめる。
「私は犯人の丸山勇と親友でして、丸山がどうしてこんなバカなことをしたのかも、全て知っています。彼は息子の仇討ちで少年らを殺したんです。必ず、減刑の余地があるはずです!」
神崎は早口で声を張り上げる。その態度から、必死さが嫌でも伝わってきた。親友というだけでここまでするのか、と須藤は丸山の人柄や人徳というものに深い関心を寄せる。それ故に、彼が人を殺してしまうほどに追い詰められていたのだと、改めて理解する。
「神崎さん、お気持ちはわかりますが、減刑は非常に困難かと思われます」
「なっ! ど、どうして! せ、先生はこれまでも難易度の高い裁判で無罪を勝ち取ってきたじゃありませんか!」
「はい。自分で言うのもなんですが、私にはそれだけの力があります。しかし、今回ばかりは勝手が違う。減刑と無罪は根本的に裁判のやり方が変わります。無実の人間を無罪にすることは、私には容易なことですが、罪を犯した人間を、それも死刑になりかねない罪を、軽くするのは全く別です。特に、この事件で殺された竹村旬は、あの大物政治家の息子です。外からの圧力も相当なものでしょう。向こうは何がなんでも極刑を望むはずです。減刑は非現実的かつ絶望的かと」
須藤が淡々とこの裁判の複雑性から、その難易度について語る。この事件で最も厄介なのは、竹村旬が殺されたことだろう。
警察や裁判所にも、既に上から強い圧力がかかり、仇討ち殺人だろうがなんだろうが、丸山勇を死刑にする。それは目に見えて明らかだ。事実、マスコミ各社もそのような動きを見せている。もしこの裁判で減刑を勝ち取ろうとするなら、まずは被害者の少年たちによる連続殺人事件と、ホームレスリンチ事件を確実なものにする必要があった。
「丸山に殺された三人は、死んで当然の人間なんですよ。私は勇気くん裁判の時、丸山と一緒に傍聴席で見ていました。あれだけの証拠がありながら、法は彼らを許した。これは天罰です。丸山がやらなくても、いずれは誰かが天罰を下したはずです」
「神崎さん。感情では法は動きません。それはただ、天罰などというものを理由に人を殺しているだけです。どんな理由があろうとも、人を殺してはならない、それがこの国のルールです。理由があって殺すのも、無差別に人を殺すのも、結果は同じなんです。同じ人殺しなんです。まあ、弁護は引き受けますが、あまり吉報は期待しないでください」
「えっ! べ、弁護を引き受けてくださるんですか?」
「はい。難しいかもしれませんが、私も神崎さんとお気持ちは同じです。私も彼を救いたい。非現実的ではありますが、できる限りのことはしましょう」
「ありがとうございます! 本当に、丸山をどうかお願いいたします!」
神崎は須藤の手を取り、涙を込めた目で何度も感謝の言葉を述べた。
「勘違いされては困ります。あくまでも善処するというだけです。元々マイナススタートだということを忘れないでくださいね」
「わかってます。ですが、ここに来る前にも何人かの弁護士に相談したんですが、全て断られてしまっていたので。まさか、先生のような優秀な弁護士に引き受けてもらえるなんて、感激です!」
気持ちの悪いほどにオーバーな態度で、机に額がつきそうなくらい頭を深々と下げる神崎。裁判の結果によって、この男が豹変しないだろうかと、須藤は心中穏やかではなかった。
神崎が事務所を後にすると、須藤は一人残り、事件の記事や資料を集めていた。
須藤には、心の底からこれだけは譲れないという言葉がある。
弁護士は正義の味方ではない。
須藤の中の弁護士とは、あくまでも法廷で有罪と無罪を決めるだけの存在であり、そこには正義など存在しない。
だから、これは須藤がそうしたいからであり、別に丸山のことを気にかけたわけでもなく、神崎に同情したわけでもない。
ただ、須藤がこの事件で彼を弁護したいと個人的に思っただけだ。
弁護士とは己の価値観と正義で真実を歪める職業である。ならば、この絶望的な状況であろうとも、須藤の思い描く正義が実現する可能性は少なからず存在する。
神崎には職務上の手前、あのような言い方になってしまったが、内心では須藤もこの事件の確定した結果を塗り替えたい、そう感じていた。
だが、やはりそれは不可能に近かった。
須藤はまず、この事件では欠かすことのできない存在、竹村旬の父、
自身の息子が殺され、今までの息子の悪事までもが露呈し、その穴埋めに走り周っている彼だったが、何故か須藤の願いを聞き入れ、会ってもらえることとなった。
ホテルのロビーで待っていると、竹村は大量の黒服の男たちを盾にし、肉壁に身を隠しながら歩いてきた。
顔に大きな傷と痣を持ち、それをサングラスで隠した大男。肩幅が広く角刈りで、政治家というよりヤクザのような風貌。テレビなどで何度か見たことは会ったが、実際にその姿を目にすると、少し身が引けてしまう。これはもはや人間の持つ本能のようなものだろう。
「須藤さん。初めまして、竹村竜矢です」
「初めまして竹村さん。須藤龍之介です。この度、丸山勇の弁護を担当することになりました。今日はそのことで、少々お話が」
「我が最愛の息子を殺した男の弁護を引き受けるというのに、よくのこのこと私の前に来ることができましたね」
「たしかに、あなたから見たら私は敵同然ですが、竹村さんも私に話があるんじゃないですか?」
須藤は臆することなく、逆に訊き返した。恐怖は尋常ではないほど感じだが、それ以上に好奇心が優っていた。
「さすがは敏腕弁護士先生だ。君、私の側につきなさい。いくら貰っているかは知らんが、私はその倍は出す。いや、望む額を払ってやることだってできる。そして君は法廷で証明してくれたまえ、丸山勇が行ったのは仇討ち殺人などではなく、酔った勢いで衝動的に息子と息子の友人を殺したのだと」
予想通り、竹村は須藤を買収しにかかった。それに関しては想定の範囲内だった。この男ならば、必ずそうするだろう。発言や行動は既に読めていた。
「丸山勇は息子さんをあなたの息子、竹村旬とその仲間に殺され、その復讐によって殺害した。この事実を塗り替えろと?」
「事実ではない。旬は素行こそ悪かったが、人を殺したりする人間ではない。そもそも、もうその事件は警察が解決しているはずだ。裁判でも息子たちは無実だと証明されている」
「苦しいですね。彼らは黒ですよ。息子さんを信じたい気持ちはわかりますが、現に殺された日も、あの公園にホームレスをリンチしに向かい、持っていた金属バットで殺されている。いくら金を積もうとも、この事件の真実を捻じ曲げるのはあなたでも難しいはずです。というよりも、あなたは息子さんを信用しているのではなく、息子さんの尻拭いをしていた自分に火の粉が飛んでくるのを恐れているだけなのではないですか?」
顎を突き出し、見下した姿勢で煽った須藤の言葉は、竹村を激昂させるには十分だった。
竹村は机に思い切り手をつき、勢いよく立ち上がる。サングラスを軽く頭の上にずらし、須藤の顔の目の前で、鋭い眼光を放った。
「……先生。そりゃあどういう意味だ?」
「言葉通りの意味ですが。あなたには少々難しすぎたようですね。すみません、いつもなら優秀な検事や裁判官を相手にしているので、それより下等な相手に理解させるのは得意ではないもので」
須藤はここぞとばかりに竹村を煽る。竹村は顔を赤くし、今にも殴りかかってきそうなほどだった。
恐怖を押し殺し、精一杯のポーカーフェイスでその眼光を受け止め、ピクリとも動じなかった。
「弁護士先生、私が誰だかわかっていってるのか?」
「わかっていますよ。息子の尻拭いと今回の裁判に時間とお金を取られ、精一杯イキがってはいるものの、既に力を失いかけている木偶政治家。あなたはまるで自分が法に守られていると思っているようですが、それは逆ですよ。あなたは自身を殺そうとする法を、どうにか搔い潜っているだけの小動物です」
もはやこれは対談ではなく、単なる悪口の言い合いだった。須藤は弁護士でありながら、無意味に暴言を吐き、竹村を怒らせている。
「ですので、ここからが本題です。これ以上無駄に消耗して明日に響くより、今は身を引いた方が利口だと思いますよ。知っていること、話していただけないでしょうか」
「……わ、私は何も知らん。知っていたとして、須藤弁護士に話すことなど何もない」
「そうですか。私はてっきり、あなたは息子さんの罪を知っていながら、息子を守るためという歪んだ正義で真実を隠蔽してきたのではないかと思いましたが、私の思い違いでしたか」
竹村は露骨に目をそらした。少なからず心当たりはあるようだったが、それ以上聞き出すことは不可能だろうと、須藤は悟った。
「わかりました。では私の名刺を置いていきます。気が向いたらいつでも伺いますので、それではまた後ほど、恐らく法廷でお会いしましょう」
須藤が捨て台詞を残してロビーから退散すると、竹村は机に置かれた名刺を睨み付け、それをビリビリに破り捨てた。
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