第6話「弁護士」

 須藤龍之介は、幼い頃から正義感溢れる少年だった。


 悪事や犯罪に対して正面から立ち向かう強い勇気を持ち、それを決して許さない。

 だが、その考えは次第に変化していった。

 小学生を卒業する頃、彼は警察官や検察官になるのが夢だったが、それが絶対的な正義でないことを、たまたまテレビで流れたていたあるニュースで知ることとなる。


 痴漢冤罪。


 サラリーマンの男性が朝の通勤電車で、女子高生から痴漢されたと訴えられ、そのまま逮捕された事件である。


 しかし、十年以上経ってから新たな証拠が見つかり、何度も行われた裁判の末、男性は無罪を勝ち取った。


 この事件で、加害者男性が警察から受けた暴行に近い取り調べや、検察官や裁判官のいい加減なやり方が役者によって再現されたドラマは、須藤に大きな影響を及ぼし、何が正義なのかがわからなくなってしまった。


 そして、そのドキュメンタリーが放送されたすぐ後に、裁判の途中だった痴漢事件が異例の速さで有罪となり、テレビ局が我々の放送した映像で裁判官の心証を悪くしてしまったのが原因かもしれないと、加害者家族に謝罪するという事件が起きた。


 これは世間を揺るがし、裁判官は感情で有罪か無罪かを判断するのか、国に尻尾を振る犬が、幼稚な子供の喧嘩か、などの多数の罵声を浴びた。しかし、それでもこの裁判の結果が変わることはなかった。


 国が正義なのか、それとも悪なのか。そもそも正義と悪とはなんなのか、それは存在するものなのか。


 須藤の心は揺れ動いた。


 中学に上がってすぐ、校内である事件が起きた。


 生徒の一人が飛び降り自殺を図ったのだ。どうやらクラスでのいじめに耐えかね、自ら命を断とうとしたらしい。


 その生徒は意識不明で病院に運ばれたが、その後永遠にその目が開かれることはなかった。

 学年もクラスも違う須藤だったが、彼はこの件に首を突っ込み、いったい何が起きたのか、その全貌を知った。


 真実は、にわかには信じられないものだった。

 最初にいじめを行っていたのは、飛び降りた生徒自身だったのだ。彼はクラスの仲間とともに、一人の生徒に目をつけ、その生徒を執拗にいじめた。悪口、無視、暴力、時には金も要求し、万引きの手伝いまでさせられていたらしい。


 だが、時とともにその状態は変化していった。罪の意識に耐えられず、仲間は全員いじめをやめ、いじめていた生徒に謝罪をし、今までのお金も返却して和解していた。


 それだけいじめはエスカレートし、これ以上続けば警察沙汰にするぞと、いじめられていた生徒が立ち上がったのが発端だった。


 しかし、それは思わぬ方向へと未来を変えた。いじめられていた生徒は、いじめの主犯格に、今までの暴力や悪質ないたずらを、そのまま本人にやり返したのだ。


 そして、加害者だったはずのその生徒は、校舎の屋上から身を投げた。


 須藤は人間の凶悪性を、残虐性を知った。それだけ恐ろしいことが平気でできてしまうほど、人間とは腐っているということに。


 そこに正義や悪など、もはや存在しなかった。

 あるのは人間個人が有する価値観だけ。


 自身が悪だと思ったものに対し、人間は容赦がなかった。己が絶対的な正義であり、そのためなら何をしても構わない。それが善悪の全てだった。


 相手が悪なら、正義は何をしても許される。そんなことは当然ありえない。けれど、それが人間の本性なのだと、須藤は知ってしまった。

 それ以来、須藤は正義も悪も、全ては自分が決めるのだと、歪んだ固定概念を有するようになった。


 須藤は、それらを自らの手で決めることができる職業。有罪だあろうと、大犯罪者であろうと、己の価値観で歪めることができる弁護士という職を目指すことにしたのだった。






 須藤龍之介、二十八歳の春。


 彼は夢見た弁護士という職業に就くことを叶え、若手敏腕弁護士としてその名声を轟かせていた。

 どんな悪人であろうと、彼の手にかかれば無罪になれると言われるほどに、ある意味の悪名を響かせながら、彼は成長していった。


「先生! 今日の裁判も見事でした!  最後まで証拠を温存していたなんて、まるでバトル漫画みたいな熱い展開で、隣にいた私の方がハラハラドキドキでしたよ!」

「そんな、ったく君はいつもいちいち大袈裟だな。別に大したことないよ。向こうの検察官もとっておきは隠し持ってるだろうから、あえてそれを粉砕する証拠を残していただけさ。運が良かったんだよ」


 目を輝かせながら、須藤の弁護を褒めちぎる助手の新米弁護士、木崎江利香きさきえりかに対し、謙遜した態度で答える須藤。実は内心、自分の弁護に驕っていた。


 優秀さ故か、そこには圧倒的自身がそこにはあった。他人からはナルシストにしか見えないため、その分敵も多い。

 だが、彼のその能力に心酔する者もそれなりにいる。木崎もその一人である。


「……それで、この後のスケジュールは?」

「えーっとですね、この後は午後から東央銀行の頭取と新たに取り入れた防犯システムと例の巨大金庫のチェックですね。夕方からは小鳥遊専務と企業業務についての対談と夕食です」

「いや待って、それ富山先生のスケジュールだよね? 僕、企業方面は専門じゃないんだが?」

「わわわっ! し……失礼しましたっ!」


 顔を紅潮させ、慌てて手帳を入れ替える木崎。須藤はため息をこぼした。


「先生は三十分ほど後に、ある事件の弁護でご依頼が一つ来ています。どうも殺人事件みたいです」

「そっか。ありがとう、それじゃあ木崎は富山先生の方を手伝ってくれ。こっちは一人で事足りる」

「了解です!」


 木崎はピシッと綺麗な敬礼をして事務所を後にした。

 須藤が所属する富山とやま法律事務所は、年配の富山弁護士と、若手の須藤と木崎で回しており、特に企業方面を富山弁護士が行い、須藤は刑事事件を担当している。


 そして今日も、いつものように殺人事件の弁護をしてほしいという依頼が事務所に届いていた。


 須藤にとっては日常茶飯事なため、特に気にすることではなかったが、依頼人が来る前に今世間で話題になっている殺人事件の記事やニュースは一通りチェックしておく。


 この手の情報収集は基礎の基礎だ。

新聞に目を通すと、大きな見出しで騒がれている事件が一つあった。


 深夜の公園で起きた殺人事件、これだけならどこにでもありそうだが、被害者はなんと全員が未成年で、それもつい先日ホームレスリンチ事件と高校生連続殺人事件で警察に一度逮捕されていた。逮捕時は顔や名前などが報道されなかったが、今回は逆に被害者となり、顔と名前が公開され、事件の重要参考人だったことも発覚した。


 これだけでも驚くべきことだったが、それ以上にこの事件が大きく騒がれているのは、犯人が被害者の少年たちによって殺された高校生の父親で、全ては息子の復讐だったということだ。

 世間では通称「仇討ち殺人あだうちさつじん」として、犯人の男を賞賛する声や、因果応報だと被害者を蔑む声まで上がり、犯人の男の処遇について騒がれていた。


 この時代に仇討ち殺人、まるで漫画やドラマの中のようだ。


 犯人は丸山勇。ニュースや新聞では顔が公開されているが、とても三人もの人間を殺すようには見えない。


 復讐という狂気によって、魔物へとその姿を変貌させてしまったらしい。


 詳しい事件内容はまだわからないが、もしこの事件の弁護だとしたら、減刑を勝ち取るだけでも相当苦しいかもしれない。


 息子を殺した連中への「仇討ち殺人」と言えば聞こえはいいが、これは未成年の少年三人を殺害した巨悪事件だ。


 当然、被害者の少年たちには家族がいる。息子の悪業は知らずとも、親にしてみれば愛して育てた大事な息子だ。それを「仇討ち殺人」として、まるで正義の行いかのように殺されて、ただ黙っているとは思えない。それに、被害者はやはり未成年、可能性は薄くても、更生の余地があったかもしれないのだ。それを私刑で済ましてはならない。


 この裁判では、被害者が更生できたかどうか、そこが非常に重要になってくるだろう。自分なら、そこをどう乗り切るか、須藤は頭の中でシュミレーションしていく。


 まだ、須藤がこの弁護を引き受けると決まったわけでも、依頼がこの事件とも限らないのだが、わざわざ今ちょうど名前が売れている自分のところに来るのだから、その可能性は十分に高かった。


 しかし、通常通りこの事件の裁判が進めば、恐らく丸山勇は死刑になるだろう。


 未成年の少年を三人も殺したのだ、当然死をもって償う他ない。罪を軽くできたとしても、良くて無期懲役。それ以上は無理だ。


 正直、須藤はこの事件に興味があった。自分だったら、丸山をどう救えるだろう。

 須藤は中学生の頃、未成年の少年たちが持つ狂気を目の当たりにしている。


 更生の余地、そんなものでこの事件は許されるのだろうか。


 あの時、屋上から身を投げた生徒の親は、加害者生徒に対して退学を訴えたが、元々飛び降りた生徒がいじめの主犯格だったこともあり、その生徒の親もそれ以上強くは言えなかった。


 彼らは今、普通に平穏な生活をしている。特に何か償いをしたわけでもなければ、墓参りにすら行っていない。彼らにとってあれは、単なる悪への正義の鉄槌、正当な裁きだったのだ。この事件の被害者三人や、丸山も、自身の行いが正義だと感じていたのなら、そこに変化を求めることはできるのだろうか。


 人は、自らの持つ固定概念を簡単には覆せない。それは、自身の人生を否定することにも繋がるからだ。


 だが、それでは無意味だ。それでは、裁判は単に、とりあえず有罪、とりあえず無罪、有罪ならとりあえず死刑、とりあえず無期懲役。そんなことを、特に考えず、悩まず、適当に決める場所に過ぎないのではないだろうか。


 嫌な記憶が蘇り、須藤は顔をしかめた。


 中学時代に知ってしまった子供ながらの狂気。それが何より胸糞悪かった。

 頭をくしゃくしゃとかきながら、難しい顔でタバコを吸いだす。

 普段は喫煙所や外の階段で吸うが、今は誰もいないため、依頼人が来るまでの間ならいいだろうと、事務所内に煙を充満させた。


 ヤニ補給し、気持ちを落ち着かせたところで、窓を開けて軽く換気した。


 須藤は昔のことを思い出すのが嫌だった。正義感に溢れていた頃の自分が、たまらなく嫌いだったからだ。


 この世に善悪などない。須藤は絶望していた、己の正義が、時には悪にもなることに。

 だから善悪に対して疎い民衆や、国が嫌いだった。


 弁護士とは、国に刃向かう職業だ。

 彼にとって弁護とは、国に一矢報いる行為であり、決して人助けなどではなかった。

そこに救済の気持ちなどいらない。必要なのは、己の善悪をのみだ。


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