第3話「報復」

 都内某所、丸山家。


 暗い部屋の中で一人、男は枯れるまで涙を流し続けていた。息子の写真を胸に抱きながら。

 そんな姿を、友人は見ていることしかできなかった。


 かける言葉など、見つかるはずもなかった。

丸山勇は、息子が生前使っていた自室にこもり、食事も喉を通らなかった。

 丸山家のリビングで、丸山の幼馴染であり親友でもある神崎かんざきは、頭を抱えていた。

神崎浩司かんざきこうじ、丸山と同じ会社に勤める平凡なサラリーマン。いつも丸山の家で一緒に飲む仲だが、今日はとてもそんな気分にはなれなかった。


 ついさっき、警察から丸山の一人息子、丸山勇気まるやまゆうきが殺されたと告げられた。

 昨日から丸山勇気は自宅に帰っておらず、警察に行方を捜して欲しいと連絡していたが、まさか亡くなっていたという報告が入るとは、想像できるはずもなかった。


 殺されたのは昨日の深夜らしく、今日の昼間、遺体の身元が判明したようだ。

 当然丸山は早退し、身元を確認するために警察へ向かった。

 そして今、神崎が仕事を終えて丸山家を訪ねてみると、この有様だった。


 丸山は一向に部屋から出ようとしない。

 だが、それは無理もない。息子が死んだと聞いて、妻はそのまま倒れてしまい、今は病院にいる。息子の死だけでも辛いというのに、彼には不幸が連続している。そんな丸山に、神崎は声がかけられなかった。


 神崎にも息子が一人いる。丸山勇気のちょうど一個下、もし自分だったらと思うと、余計に無理な話だ。

 自分が丸山の立場だったら、どんな言葉も欲しくない、同情も優しさも、凶器だ。

神崎は何も言わずに丸山家を後にした。


 それから時は経ち、丸山勇気を殺した少年たちの裁判に判決が下された。

 結果は無罪。

 そのあまりにも不条理な結果に、法廷はざわめき、裁判官への罵声まで溢れた。

 傍聴席にいた丸山はショックのあまり固まってしまった。息子を殺した殺人鬼に法の裁きが、鉄槌が下ると、信じていたのに。

神崎は思わず立ち上がった。


「証拠不十分で無罪って! そんなのおかしいだろ!」

「静粛に、あまり大きな声を出すようでしたら退廷していただきますよ」


 裁判官の声は、生を感じられないほどに冷たかった。

 神崎は両拳を握りしめながら、渋々席に着いた。


 その後のことは、よく覚えていなかった。裁判官が何か言っていたが、何も聞こえなかった。いや、聞こえてはいた。だが、それは神崎の脳では処理しきれないほどに、訳のわからない言葉ばかりだった。


 帰り際、丸山の妻が待っている病院へ向かうため、タクシーに乗った二人だったが、その表情は曇ったままだった。

 妻になんて言ったらいいだろう、丸山はそのことばかり考えていた。


 ショックで体調を悪くした妻に、これ以上の仕打ちはない。悪化させてしまうかもしれない、そんな悪い未来ばかりが、丸山の脳裏をよぎった。


 神崎は、そんな丸山の身を案じたが、彼にはどうすることもできなかった。

 病院に着くと、丸山は一人で病室へ向かい、神崎は一人一階のロビーで待っていた。自分のような部外者が一緒に付いていけるはずもない、だが、もしもの時のために行き帰りだけは同行した。丸山は精神的にも相当厳しい状態で、いつバカな真似をするかわからなかったからだ。

 待っている間、神崎の不安が消えることはなく、そんな自分に苛立ちを覚える。


 神崎は立ち上がると、一旦外に出て喫煙所へと足を向けた。とりあえず一服しよう、そうすれば少しは気が紛れる。

 だが、不運なことにその時タバコを持っていなかった。胸ポケットやズボンの後ろも手で弄ってみるが、やはりない。

 神崎は思わず舌を鳴らした。


「……ほら、一本吸えよ」


 その時、不意に背後からかけられた声に神崎は目を剥いた。

 その声の主を彼は知っていた。

 振り向くと、丸山が右手でタバコを差し出していた。その表情は何か肩の荷が降りたかのように、妙にスッキリしていた。


「あ、ありがとう。てかお前、カミさんは」

「伝えてきたよ。そしたらまた気を失って、特に話とかはなかった。まだしばらくは病院の世話になりそうだ」

「そ、そうか。てか、お前は大丈夫なのかよ」

「え……何が?」

「何がって、悔しくねーのか? 息子を殺した連中が、揃って証拠不十分で無罪だぞ? あんなのどう考えてもおかしいだろ。勇気くんをリンチした動画だって撮ってて、ホームレスを殴るところも目撃されてるんだぞ」


 神崎は溜め込んでいた不満を丸山にぶつけた。


「それな、自分でもよくわからないんだ。最初は怒りが湧いてきたんだけど、今はそれより疑問に思えてきたんだ」

「ぎ、疑問?」

「ああ、どうして犯罪者を守る法があるのか、法ってなんなんだろうって」

「そりゃ、公平にするためだろうが。今回は明らかにあのガキ共が犯人だろうけど、普段なら証拠を出しやって議論するんだろ。間違いがあったら困るからじゃねーのか?」

「神崎……そりゃ建前、方便さ」


 虚ろな表情を浮かべる丸山。神崎は首を傾げ、眉をひそめた。


「な、何が言いてーんだよ」

「要するにさ、法が悪だって決めたらそいつは悪になる。この世はそうやってできてる。そう思っただけさ」


 神崎は胸騒ぎがした。丸山が、この後何かしでかしてしまうんじゃないかという未来、最悪の結末が。


「例の高校生三人を弁護した弁護士先生、名前何だっけ?」

「おい、そんなこと聞いてどうするんだよ。まさかとは思うが、や、やっちまう気じゃねーだろうな」

「何だよそれ。俺がそんなバカなことする奴だと思うか? 確証もないのに無理だよ」

「なら、いいけど。悪いが俺は知らねーぞ、向こうの弁護士が誰だったかも忘れたし」


 神崎の中では、不安がまだ完全には解消されていなかった。口ではこう言っているが、本当はもう自分がどうなってもいい、そのためなら何だってできる。そう、たとえそれが、人を殺すことであっても。そんな意思が、丸山から伝わってきた。


「悪い神崎、俺先に帰るよ。ちょっと寄りたいところがあるんだ」

「え? あ、そうか。わかったよ」


 まだ吸い終えてないタバコを灰皿に捨て、丸山は病院を後にした。

 この時間は、丸山にとっての人生の分岐点だった。神崎がもう少し強く止めていれば、もっと別の言葉をかけてやれれば、未来は変わったかもしれない。


 次の日、丸山は会社をやめた。










 裁判の日から十日後。


 深夜、ホームレスリンチ事件があった例の公園にて、旬は怨嗟の篭った声で叫んだ。


「ふざけんじゃねぇよッ! おいおいおいおいおいおいッ! どういうことなんだぁ? こりゃぁよぉ! あぁ?」


 旬は隣にいた根本の胸ぐらを掴み上げ、理不尽な怒りをぶつける。


「誰もいねぇじゃねぇかよぉ! 今日はせっかく楽しみにしてた野球の時間だってのにッ! こりゃどういうことなんだぁ?」


 苛立ちを抑えきれず、旬は根本を砂場に突き飛ばし、手に待っていた金属バットを投げ捨てた。カランカラン、という金属と金属の接触音が公園に響き渡る。どうやら公園の遊具か何かに接触したらしい。だが、旬はそんなこと気にも留めなかった。楽しみにしていたプレゼントのオモチャを誕生日に目の前で没収されたような気分だった。


「おいおい、暗いんだから捨てんなよ。見つけるの面倒だろーが」


 仲間の一人、岩田がため息混じりに言った。

 その公園にはろくに街灯もないため、深夜は非常に暗い。


 旬が捨てたバットは随分使い古されており、先端はベコベコに凹んでいた。ボール以外の固い何かをバットで殴ったりしない限り、できないであろう打痕。


「た、多分、前回俺らがやりすぎたから、連中寝床を変えたんだろ。でもどうせ、そう遠くには行けないだろうしさ、それっぽい場所探せばいるんじゃねーか?」

「ならてめぇが探してこいよ」


 旬は威圧するような鋭い眼光を放つ。根本は思わず目を逸らした。


「落ち着けって、それに俺らこないだ結構危なかったじゃねーか。今日はやめとこうぜ、また警察来たら今度こそさすがにやべーだろ」


 岩田が宥めようとするが、旬は聞く耳を持たなかった。激しく舌を鳴らし、ゴミ箱を蹴り飛ばす。


「とりあえずほらタバコ、これで機嫌直せよ」


 奪い取るように受け取り、無言で吸い始める旬。


「なぁ、だったらまたその辺の誰かで遊ぼうぜ。遅いけど探せばいるだろ」


 時刻は深夜一時。普通はもう就寝する時間だが、都内ならば一定数起きている人間はいる。ホームレスの代わりに通行人をリンチしようと言うのだ。

 そんな発想が軽々しく出てしまうほどに、彼らの精神は歪んでいる。もう手遅れだった。脳は焼かれ、崩壊していた。


「そういやぁ、あの日もおっさんボコる前に遊んでたっけか。名前もう忘れたけどよぉ」

「あいつもしょぼかったよなー、すーぐ壊れたちまって。もっと頑丈なおもちゃが欲しいもんだぜ」


 つい先日、特に理由もなく殺した少年を笑い話にして語る彼らは、他者からどう見えただろうか。

 外見だけなら少し突っ張った少年達だが、その行動や言動は、まさに悪魔のそれだった。彼らを人として見るのは、常人には難しいかもしれない。正常な人ほど、彼らが歪に映る。


「今、何と言った」


 暗闇の中、どこからか声が聞こえた。

 少年たちは声のする方に首を向けるが、闇に埋もれた視界の中に、その主の姿を認知することは不可能だった。


「あ? 誰だ?」


 旬がタバコをその場に落とし、足で踏みにじりながら言った。


「お前が、殺した……」


 その声は野太く、誰が聞いても男だとわかるものだった。

 男は数分前に旬が投げ捨てた金属バットを拾い上げ、それを引きずりながら一歩一歩ゆっくりと近づいていく。少年たちは、その歩幅が自分たちの寿命になるとは、その時夢にも思わなかった。それを悟ったのは、自身の死が確定した瞬間だった。


 男が最後の一歩を踏み込んだ瞬間、振り上げられた金属バットが、旬の頭部を叩き割った。

 肉片が飛び散り、少年たちの悲鳴が深夜の公園に轟くいた。


 殺意のバットは止まることなく、少年たちを襲った。一人、また一人、頭部が吹き飛ばされ、足が、腕が潰された。


 もう動かなくなった肉片を、男はひたすら殴った。抑えきれない殺意の衝動に包まれ、悪魔を殺したその男は、自身もまたその返り血で悪魔へと変わっていく様を体感した。


 無残な死体をしばらく眺めてた後、男は荒い息のまま、警察へと向かった。

 次の朝、丸山勇の逮捕が報道された。





 某日、裁判所前。


 神崎は裁判所の前でうなだれていた。

 傍聴席に行く気力すら、彼には湧いてこなかった。


 今日、丸山勇の罪状が決定する。

 深夜の公園で未成年の少年三人を殺した罪、軽くて無期懲役、重くて死刑。


 動機は息子を殺されたことへの復讐。丸山は密かに独断で事件を調べ、息子を殺した少年たち三人の名前を知り、例のホームレスリンチ事件のあった公園で待ち伏せていた。


 そして聞いてしまった、息子のことを悔いてすらいない少年たちの非道な言葉を。

 その時、衝動的に殺してしまい、我に返った丸山は警察に自首した。


 神崎は思う、もし自分がもっと強く止めていれば、何か支えになれていれば、丸山は仇討ち殺人など行わなかったのではないか。

 後悔してもしきれない。友人なのに、幼馴染なのに、彼を救うことができなかった。

 そんな自分が裁判の傍聴席など、とてもじゃないが座れない。

 ならこの場所に来る必要などないが、神崎は家でじっとしている方が無理だった。

 弁護士は若いが腕が立つと聞いている。しかし、たとえ減刑できたとしても丸山の罪は消えない。


 しかも今回は竹村の息子が殺されたことでメディアも相当大きく動いており、国家への強い圧力もあるらしい。

 それでも神崎は祈り続けていた。丸山は仇討ち殺人、自首、情状酌量の余地があるはずだと。


 だが、そんな神崎の想いは届かず、この日、丸山勇に死刑判決が下った。


 そして事件から一年後、死刑権が誕生した。



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