「やさしい雨でありますように」
冷たい。
その世界は冷たくて、いつだって私は終わりにおびえていた。
「外さないで、お願い」
キスの合間に、黒い眼鏡の縁に触れた彼の手を止める。
かちゃっ。
私の赤いフレームと彼のものがぶつかり、音をたてた。
正直、邪魔だ。
きっと彼もそう思っているだろうけど、私の目を見た後に彼の手は私の首の後ろに回された。
「梨花……」
切ない声で呼ばれる名前が好き。低い声も、唇の動きも好き。
ベッドになだれ込んで、何度もキスを繰り返す。
「好きよ。善隆」
名前を呼ばれたことが合図みたいに私は彼に愛の言葉を囁いた。
「嬉しい」
彼は決して私を好きだと言わない。それは彼なりのけじめで優しさ。
なんて残酷な優しさ。
心の中でため息をつくけれど、私は何度も気持ちを伝えてしまう。消えてなくならないように。
ホテルのベッドは無駄に広くて、だけどやわらかくはなくて、清潔感のあるシーツはむしろわざとらしい。
装飾の無駄に派手な壁紙や、中途半端なライトのせいかべたべたに甘い香りが体中にまとわりついてくる気がした。
「善隆、時間だいじょうぶなの?」
唇を離して、覆いかぶさっている善隆に問いかける。
平日の夜、仕事終わり会うことが多いからこうして土日に連絡がくるのはめずらしかった。
クセのようにちらりと腕時計を見た彼は微笑む。
「今日は子供連れて実家行っているから。大丈夫だよ」
「そう」
互い手を絡めると、ひんやりとしたシルバーリングの感触があった。
誓いの証は重く冷たい。
ざーっと強い雨の音が外で響いている。この部屋には窓がないのに、どこから聞こえているのだろうか。
会うときはなぜだかいつも雨だ。世界が私たちのことを拒んでいるみたい。
「今日は一晩中一緒にいられるね」
嬉しい。
心から嬉しいという笑顔をつくる。彼といるときによくつく嘘。彼が騙されているのかそのフリをしているのかはわからない。
「久しぶりだ」
「うん」
彼のあたたかい唇が、私の首筋にあてられる。
「……っ」
くすぐったくて、横を向いた。
部屋の片隅に置かれた花瓶が突如視界に入ってくる。咲いている花は真っ白なチューリップ。
一本だけのそれは、こんな部屋に不釣り合いに凛として見えた。
泣きたい気持ちがこみ上げて、隠すようにばっと眼鏡を外した。
「外さないんじゃなかったの?」
ふふっと楽しそうに私の腰あたりをまさぐる彼の首元に両腕を回し身体を引き寄せた。
「やっぱり、いらない」
「変なの」
また笑うと、おかしそうに自分の眼鏡もベッドサイドのテーブルに置いた。
髪を撫でられると落ち着く。
眼鏡を外せば、次にかけるときに現実に戻される気がしていた。けれど、クリアに見える世界は私には残酷すぎる。
白いチューリップの花言葉は「失恋」。
分かっている。最初からこの恋に終わりがあることなんて。
どうして彼と出会ったのが、奥さんよりもあとだったのだろうか。
雨はまだ降り続く。
どうか、どうか私たちのことを世界から隠してください。そんな優しい雨でありますように。
「好き」
ぼやけた視界には、彼だけがはっきりとうつっていた。
自分で思ったよりも泣きそうな声を塞ぐように、善隆はまたキスをしてくれた。
碧 仁芭ゆづ @yudu_
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