「カフェラテのきみ」
「紫希はいつもカフェラテだね」
白いカップをソーサーに戻した少女に男は微笑みを向ける。
まるで小さな子供を見るような視線だ。
その視線はおそらく正解なのだろう。少女・紫希は【少女】と形容するにふさわしいように見える。
だぼっとしたパーカーに、スキニージーンは細い脚が際立つ。長い黒髪がまっすぐおろされていた。
しかし少女の表情は大人びている。
静かなカフェ。二つしかないテーブル席で、木の机を挟んで少女と向かい合う浩輔は、ブラックコーヒーをゆっくりと喉に流し込みながら彼女を見た。
男はスーツの上着を脱いで、白のワイシャツ。そのシャツはアイロンがきちんとかけられていてピンと伸びていた。
机の上の左手薬指には銀色のリングが光る。
四十を目前に控えた男は、この少女といる時はまるで自分が幼く未熟な年齢だと錯覚させられた。
自分たちはどういう関係に見えるのだろうか、と思案しては少しだけ面白い気持ちになって笑みを深めた。
「コーヒーは苦手だもの」
「そうだったね。君は苦いものも、辛いものも嫌いだった」
「だったじゃない。今も嫌い」
紫希の声色は幼く、何かを咎められた子供のようだ。
「そうだった」
「そんな変わらないことはどうだっていいよ。最近はどう?」
「どうって言われても普通だよ」
「普通じゃわからない。浩輔はいつもそうだよ」
はあ、と紫希は大きなため息をつく。
カフェの店員が洗ったカップを拭いている音が静かに空間に響く。
店内にもう一人いる男はただ本を読んでいた。その本をめくる音を好きだと少女は思っていた。だけどそれを口にはしない。
「変わりない。元気にやっているよ」
「奥さんとは?」
瞳を伏せた少女は心なしか拗ねた声を出す。
浩輔はそれをかわいいな、と思う。
自分のブラックコーヒーのカップを先ほどの彼女と同じようにソーサーに置く。
視界に入った黒い液体をおいしいと思いながら飲むようになったのは、実際のところ三十をこえてからだった。
「そういうところ、変わらないな。本当は聞きたくないくせに」
「そりゃ、良い気持ちなんてするはずないでしょう。好きな人の奥さんの話だなんて」
「俺が結婚するって言った時は泣いて喜んでいたくせに」
紫希はいじけた表情を見られたくない思いで、カフェラテのカップをもう一度掴んだ。
好きで、好きで、好きだった。
それは間違いない事実で、だけど自分と彼が結ばれることのないことを少女は痛いほど知っている。
子供じみた感情は何年たっても消えてくれることはない。
自分が一緒にするはずだった指輪を別の女に送ったこの男を、どこかで許してやれない自分を彼女は嫌いなのだ。
「その話する浩輔、嫌い」
「悪い悪い。知っている」
「子供っぽいところ、変わらないのは浩輔のほうじゃない」
「そう、かもな」
変わらない、と浩輔は頭の中で反芻する。
紫希はまだしも、俺が変わっていないというのはいかがなものだろうか、と。
少女の黒目がちらりと浩輔を見た。
もう中身のなくなったカフェラテを飲むふりをして、見ていることをあまり気づかれたくないらしい。
「ねえ、浩輔」
「うん?」
「最後におまじないをして」
【最後】という言葉に浩輔は腕時計を見る。
「まだ」
焦って否定しようとしたけれど、少女は首を小さく振った。
そんなことをされたのは、初めてのことで不安が急にせりあがってくる。
まるでもう会うことができないようだ。
そんなことないと焦る自分を男は落ち着かせるために机の上の手をこぶしに握る。
「そろそろ行く」
今度はかちゃりという音もさせずに、カップを置いた紫希は微笑む。
「だんだんね、思うようになるんだ」
「何を」
浩輔の問いに、少女は眉を下げた。
急にエアコンの聞いた店内を寒いと思う。カウンター席の奥からコーヒーの香りただよう。
わかっているでしょう、少女の表情はそう語っていた。
「私は浩輔と、もう違うんだって」
「そんなの」
「わかっていたよ。再会したときからわかっているつもりだった。でも、ほら、あの時はまだ浩輔も高校生だったし」
「……」
彼女から視線を逸らしたら、鏡に自分の姿がぼんやりとうつる。
浩輔はその年齢を重ねた自分を見て我に返った。
「来年が最後」
「来年?」
「今年じゃ、私は諦めがつくけれど浩輔がつかないでしょう。だから一年かけて諦めてきて」
紫希が死んだ時のことを思い出す。
高校二年の冬のことだ。めずらしく東京でふった大雪で歩道につっこんだ車にはねられて、即死だったとあとから聞いた。
その数時間前まで、もう少しで受験だと志望校の話をしては「俺と同じところには行けないだろ」なんていう浩輔に「勉強するもん」とふくれていたはずなのに。
最後に手を繋いだのはいつだったか。
最後にキスをしたのはいつだったか。
最後に名前を呼びあったのはいつだったか。
最近のはずなのに思い出そうとしても葬式の最中ずっと思い出せなくて、ただ遺影の紫希を彼は見つめた。
遺影の中のものではなく、彼の知っている笑顔で。
一年に一度だけ、命日の日に表れて紫希はなんでもない話をした。
そして数時間するとふっと去っていく。
消える瞬間は見ないでほしい、と困ったように笑って、まるで明日も会えるように手を振って別れるのだ。
その光景が浩輔は嫌いだ。
彼女が死んだ日に、教室で別れた時を思い出すから。
「ずっと、浩輔のためって言い訳をしてきたの。はじめて再開したとき、泣きながら抱きしめてくれた貴方に甘えていた。だけどもう、浩輔は私と会わなくても大丈夫で、私はもう思い出にしがみついていちゃいけなくなったんだ」
「どういうこと?」
あやうく男は泣きそうになった。
「私にね、生まれ変わる順番が来たの」
「!」
紫希は笑っていた。
「……来世は、俺と一緒にコーヒーが飲めるように生まれてこいよ」
本当は浩輔もどこかで気が付いていたのかもしれない。
彼はもう幼くなく、きっと彼女とこうして年に一度会えることに甘えずにも大丈夫だということに。
それでも彼は彼女のことがたしかに好きだった。
たしかに好きだった。この時間が。
「よけいなお世話。でも、ありがとう」
席を立つと少女は女性の笑みを見せて「浩輔さん、ごちそうさま」と言った。
二人は泣くかもしれないと同時に思い、しかし泣かなかった。
「紫希、俺と付き合わない?」
「……うん」
おまじないを口にする。
二人が付き合いだした日の言葉を言って、それで別れるのはこうして会うようになった時に少女が指定したおまじないだった。
来年もまた会えるようにのおまじない。
店を出た少女は前を向いて歩きだし、ブラックコーヒーを飲みほした男は指輪を外すと、一度だけ彼女が使っていたカップを撫でる。
一年後、彼女に何を伝えよう。
そうだ最後くらいは君の好きだったところでも手紙にしてみようか。
そして大丈夫、僕は今幸せで君といたときに幸せだったとわからせてやろう。
悲しさよりもあたたかいものを抱えて、男は指輪を薬指に戻した。
来年は「来世で」と言って別れよう。
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