誓いの証。
タッチャン
誓いの証。
雨が降りしきる夜の中、彼はバス停で薄汚れたベンチに腰かけていた。
スーツはびしょ濡れで、今朝整えたであろう髪型も無惨な状態であった。
仕事が終わり、帰宅途中に突然の雨に襲われた。といったものではなかった。
彼は家を飛び出したのだ。傘も持たずに。
雨はまだ降り続いていた。
彼はアスファルトを見つめているのか、その間の空間を見つめているのか分からない視線だった。
長い時間がたち、バスが1台彼の元へ鬱陶しそうにやって来たが彼はそのバスに乗らなかった。
大きな鉄の塊は苛立ちの感情を音に見立てて彼の元を去っていく。
彼の目的はバスに乗る事では無い。
彼にはそんな事どうでもいいのだ。1時間に1本来るバスも、癇癪を起こした子供の様に泣きわめく雨も、薄汚れたベンチも、彼には関係なかった。
彼は左手の薬指に収まる小さな指輪を見つめた。
それを抜き取った。そして投げた。遠くへ。
雨はまだ降り続けていた。
彼はまた左手を見た。互いに夫婦になると誓った証を失った左手は、ひどく小さく見えた。
彼はその小さな手で頭を抱えた。
その様子は、指輪を投げた事を後悔しているのではなく、最愛の人から裏切られた苦悩が見えていた。
それからまた長い時間がたち、存在感をしっかりと出す長い箱は彼の元へ止まり、ドアが開く。
1人の女性が降りて来る。
彼女は言った。
「一緒に帰ろう。」
彼はその聞き慣れた声の持ち主へ視線を向けて、
「俺は帰らない。君とは終わりだ。」と言った。
彼女は言った。
「そんなに怒らないでよ。ね?帰ろう。」
彼女の声は雨の音にかき消されそうな程弱々しいものだった。
彼は言った。
「なんで裏切ったんだよ。なんでだ?」
「裏切って無いよ。」
「よく言うよ。部屋に居たあの男は誰だよ?」
「私の話を聞いてよ。」
彼は彼女から視線を外して目を閉じて、雨の音を聞いていた。それは不思議と心が鎮まるものだった。
「聞かなくても俺には分かるよ。あの男が誰かなんて
関係ない。分かってる事は君が浮気をした事、
それで充分だろ。ほんとびっくりしたよ。
ドアを開けたら嫁と知らない男が部屋の中にいるな
んてな。ドラマみたいな展開だな。」
雨はまだ降り続いていた。
彼女は彼の隣に座り、微笑み、そして言った。
「あのね、あの男の人は姉の新しい旦那さんだよ。
あの部屋に姉さんも居たんだよ。夫婦で来てて、
貴方の誕生日をサプライズで祝うつもりだったんだ
よ。」
彼の視線は雨と一緒に流れて行く。
「テーブルの上にケーキ置いてたの見えなかった?
変に誤解する癖は結婚する前から変わらないね。
ほら、早く帰ろう?みんな待ってるよ。」
彼は一言だけ小さな声で呟いた。
「ごめん…」
「慣れてるから気にして無いよ。それにね、
私、貴方の事がずっと好きだよ。知ってると思う
けど。浮気なんてしないよ。貴方もでしょ?」
彼は顔を赤らめて言う。
「うん。」
雨はまだ止みそうにない。
そして彼は彼女の優しい表情を見て思い出した。
「指輪…」
そう言って彼は薄汚れたベンチから立ち上り、雨が降りしきる中へ駆け出していく。
憎しみという感情と共に投げ出した小さな指輪を探す為に。
雨は止み始めていた。
誓いの証。 タッチャン @djp753
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