読書と回転について
@Ytomi
読書と回転について
サクラはベッドの上へ座布団を持ち出して座りのよさそうな所で気楽に胡坐をかいていたが、やがて手に持っている端末を放り出すと、ごろりと横になった。体勢を移すとシーツの擦れる音が濃淡ある紺の波となって沈む。部屋の外はまだ薄暗く、そろそろ学校へ行こうかと頭を上げると、家の前を通過した車の音でカーテンに赤茶色の紋様が動いた。
拡張葉―Machine Augmented Lobeを脳に埋め込んでから2年ほどが経ち、色聴と呼ばれる現象にも慣れてきたように思う。拡張葉が、クラウドへの直感的なアクセスを可能にするだけではなく、人工的な共感覚を引き起こし、語学から数学まで、新たな体系の習得を根本的に変化させることが発表されてから、成人前の埋め込みは加速度的に普及した。いまや、2000時間の学習が必要といわれた外国語も、1週間ほどの「慣れ」によって母語同様に用いることができる。情報・数学の領域では、埋め込んだ10代の研究者が数秒間隔で最新の論文を発表し、研究機関はそれらの解釈に追われているようだ。
もちろん教育システムも改革を余儀なくされ、おおよその学校は拡張葉を埋め込むことが出来ない人のものとなったが、サクラは両親の勧めもあり、埋め込んだ今も学校に通っていた。毎日通うわけではないが、今日みたいな日は学校に行くのも悪くはないだろう。
サクラが教室に到着すると、トモヨが一人で木椅子に座っていた。指定女子高等学校SA-10nは、多くの高校が閉校を余儀なくされるなか、埋め込んだ学生のみを対象としたカリキュラムで生徒を集める数少ない学校である。しかし、皮肉にもその結果として授業と呼ぶべきものはなくなり、緩やかな学生同士の交流を目的とするという建前のもと、時間を持て余した女学生の溜まり場となっている。生徒の登校はまばらで、いまも二人を除いて校内に生徒はいない。
「今日は人が少ないね。学内にふたりっていうのは初めて。」
「サクラが来なければ、あと2,3分で帰るところだったよ。」
トモヨは手元の本から顔を上げ、安心感を与えるように意図された表情でサクラに微笑みかける。その目はサクラよりも複雑な世界を見ているのだろう。幼いころから拡張葉を埋め込んでいたこともあり、導入しているプラグインの数も多いらしい。だから彼女は、自分の手元へ向けられる視線から、その疑問を理解し、返答することができる。
「確かに、紙媒体は珍しいけれど、あなたも読書はするでしょ?」
「テクストをわざわざ視覚から取り入れるのが、まどろっこしく感じることもあるかな。」サクラは素直に答えた。
「読書は、言語を通した記憶の再構築だと思ってる。確かに、拡張葉の埋め込みによって計算量は爆発的に速くなったけれども、同時に、クラウド上のあらゆる記憶をたどって、テクストに結びつけることができるようにもなった。膨大な記憶を統合するには、拡張葉をもってしても時間を要するみたいね。拡張葉も、読書の速さだけは変えることが出来なかったって言えるかも。」
そういったきり、トモヨは沈黙する。おそらく、サクラが返答に窮している様子を察知し、そのうえでどの表現を選ぶのか待ってくれているのだろう。サクラは居心地の悪さを感じ、静かな廊下へと視線を逸らす。
「あー、たえず視界を拡大しながらも有機的な組織を失わない壮大な洞察力の支配下に、その材料をおくことができるのである。っていうの?」結局サクラは、クラウドのサジェストに従って発話する。2世紀以上前のテクストのようだ。
「やっぱりサクラは拡張葉の使い方が下手ね。」トモヨは笑いながら続ける。「確かに、新たな知識を得るための読書という言説が陳腐化したいま、自らの思想体系への併合を重んじた語り口は、見直されるべきでしょうね。ある本を読むという経験そのものがクラウド上にあり、簡便にトレースできるのならば、なぜそうしないのかと問うこともできるかもしれない。」
今日のトモヨは気分がよさそうだ。少なくとも、気分がよいとサクラが判断できるような外見を呈してくれている。淡い青色の正四面体が回転を続ける。
「情報を加算で考えるから難しいのよ。クラウドでは既に、一つの人格が欲することのできる情報の総量を超えた供給があるのだから、重要なのは、何を排するかということ。あらゆる記憶的イメージが並列される中で、一定範囲を自らの記憶として記述し、その外を排除する境界付けこそが、読書という経験を固有のものにするのだと思う。だから、あらゆる記憶を参照しながら、自らの体系を組み替えていく読書には、時間がかかるの。」
彼女の言葉から広がるパステル調の幾何学模様に視線を向けていると、知らぬ間に彼女はサクラの前に立っていた。
危機感を覚えたときにはもう遅い。トモヨが歌い始めると、サクラの視界はエキゾチックな多角形によって敷き詰められ、彩度が最大まで上がる。拡張葉がオーバーフローしたようだ。身長が高い彼女は、長い髪とともにサクラに近づいている。トモヨの瞳が、唇が、長い首が、どうしようもなくサクラの行動を制限する。サクラはもう逃げられないことを悟った。いや、逃げるなどと思いつかないまでに魅入ってしまった。「やっぱり下手ね。」トモヨの声は甘美に響き、その右手が頬に触れるのをサクラは恍惚の表情で待つことしかできない。
「サクラは可愛いのに隙だらけだから、遅かれ早かれこうなっていたと思う。私はあなたが好きだから、これ以上どうこうするつもりはないよ。ふたりっきりなのに、あまりに無防備だから、からかってみたくなっただけ。」トモヨのソプラノが響く教室で、彼女の意図だけが流れ込んでくる。Facial Controlすら導入していないサクラは、あっさりセキュリティーホールを見破られ、拡張葉をオーバーフローさせられてしまったようだ。一度触れられてしまえば、そこからさきはハンドトーク――触覚に起点をおいた情報の応酬が始まる。しかし、身体コントロール用プラグインをほとんどインストールしていないサクラは、トモヨの意図をただただ受け入れるしかない。
「折角だから、このままさっきの話の続きでもしようか。」
頬に触れるトモヨの右手が熱を帯び、五指がそれぞれ別の意識を持つかのように動き始めると、教室の窓が割れて突風が吹き込んでくるのを感じた。窓に空いた穴は徐々に広がり、教室の存在自体を曖昧なものに変えていく。木の床は若草の香る牧草地へと変わり、殺風景だった壁や黒板は失せ、それらの向こうに心地いい風の吹く青空が広がっていた。
草原は緩やかに起伏しながら、地平線まで続いている。木の一本も見当たらない、まっさらな草原である。いまはサクラとトモヨがふたり椅子に座っており、向かいには薄い円盤のついた無機質な機械と、白い長方形の幕がある。
「8ミリ映写機、見たことある?ここにあるものは、A.C.1971製造のエーストマン・コダック社KODASCOPE EIGHT-33をモデルにしている。主に家庭用8ミリフィルムの再生のために作られたもので、駆動はギアドライブ、手回しによる可変速調整が可能よ。」
「そんなことより、どうしてこんな乱暴なことをしたの?早く私の知覚を返して。」やっと自由に動けるようになったサクラが咎めても、トモヨは曖昧な笑顔を崩さない。苛立ちを増長させてもおかしくない笑みだが、結局サクラは憎めないと思ってしまう。とどのつまり、サクラにできることなどもうないのだ。
トモヨはおもむろに手元の本を開くと、ページの根本に指を添え、一枚一枚ページを破り始めた。破られたページは宙へ舞い上がり、陽の光に焦げたかのように黒く、小さくなっていく。
サクラの困惑などなかったかのように、トモヨは次々にページを破る。よく見ると、黒く小さくなったページは個々に寄り集まり、ひとつながりのフィルムを作っているようだ。
「手伝ってもらっていい?丁寧に破るだけだから。」
「うん。」
ふたりで肩を並べて本を破る。
トモヨはページを遡り、サクラはページを下る。中央から左右へ厚みを失っていく本は、柔らかい緑に沈んでいった。破られたページは、陽の光を透かして黒く小さく、先へ続いていく。
「そろそろ始めようかな。」全てのページを破り終えると、10mに膨らんだフィルムは自ら映写機に入り、映写機はそれを巻き取った。
「こっちへ来て。」
トモヨの手に導かれるまま、サクラは右手を映写機のハンドルにあてた。ハンドルを回す。滑らかに回転する円盤と、1/4回転ずつ動く円盤は互いにフィルムを巻き取り、レンズの向こうへと1コマ1コマを映し出す。ゆっくりと読んだ。1ページ読み終わるごとに、少しハンドルを回して次のページを表示する。青空には不似合いな白いスクリーンは、不揃いなページを写す。
主人公は閉ざされた部屋のなかでセーターを着ようとする。彼は手と頭を出すべき穴を見つけられず、ただセーターにくるまっている、そんな話だった。一度読み終えるとハンドルを逆に回し、もう一度初めから再生する。次は前よりも早く。草原が揺らぎ、男の部屋が見える。灰色の壁に囲まれた部屋は、サクラの部屋へと変化する。この感じをサクラは知っている。また巻き戻し、初めから、前より早く。白いカーテンが広がり、上空500mを飛ぶ気球へと視点が移る。巻き戻し、初めから、もっともっと早く。トモヨと一緒にハンドルを回す。彼女は笑いながら叫ぶ「読むために読むのよ!書くために書くのよ!」もっともっと早く早く!
流れる景色は流線型を描き、海も空も全てを通り過ぎた後、彼女は目を覚ます。一冊の本を読み破ったサクラは、目の前のトモヨに覆いかぶさった。
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