短篇 太陽の輪郭
「なあに一人で黄昏てんの? ナナちゃん」
教え子の凪坂
「……テスト期間だよ、早く帰って勉強しなさい。凪坂さん」
「ならナナちゃんも、そんなしてないで、生徒たちに示しをつけてよ」
そう言って、歩來は僕の隣にやってきて、窓際にもたれ、今しがた買ったらしき紙パックのミルクティにストローを挿した。
こちらの言う事を聞く積もりはなし。猫のような少女だと、僕は常々思っている。
よく晴れた日だった。二階に位置する渡り廊下の窓からは、僅かに甘い初夏の風と、目を灼くほどの強烈な西陽が差し込んでいた。
特段大きくもないアルミサッシの窓枠は、僕と彼女でぴったりと埋まり、なんとも窮屈な絵面になった。
窓外からは、学生用の駐輪場と中庭が望めたが、今は生徒の姿もなく、なんとも殺風景なものだった。
「なんで、こんな面白くもない景色、眺めてたの? 珍しいじゃん」
一際に強い風が、渡り廊下を駆け抜けて、歩來の肩に掛かる黒髪をなびかせた。
背後の壁に掛かったコルクボードの上で、新入部員を募集する手書きのポスター達が、その風を受けてはためいていた。
「珍しいと言われると、ちょっと不思議な気分だな」僕は言った。
「こうやって、渡り廊下から窓の外を眺めるのが、十年来の癖だったから」
「十年?」歩來は僕の方に振り向いて、小首を傾げた。
「凪坂さんは知らなかったっけ、僕がこの高校の卒業生だったの」
「……知らなかった」
殆どの生徒は、来週に控える中間考査の準備のため下校していた。
渡り廊下には、僕と歩來以外に誰も居らず、夕刻を告げるチャイムの音だけが、無機的に白々しく、校内に響いていた。
「僕はね、凪坂さん。昔から、テスト期間中、渡り廊下から見えるこの景色が、ずっと不思議でならなかった。今の君と同じ十五歳だった頃から、ずっと」
歩來は浅く相槌を打ち、ストローの先を唇に当てたまま、僕と同じ景色を見ていた。
駐輪場に置き去りにされたブリヂストンの自転車の泥除けが、中庭に植わった
皆、静かに夜を待っていた。
「なぜ誰も居ないんだろう。野球部の掛け声、吹奏楽部の金管の音色、生徒のざわめき……何一つ聴こえないのは何故だろう。皆帰ってしまったのに、このチャイムは誰のために響いているんだろう、って」
「…………」
「この鳥羽森高校を卒業する時、十八歳の僕は、きっともうこの景色を二度と見ないと思った。でも、それからあっという間に六年が経って、二十四歳になった今の僕は、教師として鳥羽森高校に戻ってきて、六年前と全く同じこの場所で、また性懲りもなく、誰も居ない中庭を眺めている」
歩來は、何も言わず、僕の話に付き合ってくれていた。
「ここにはもう、当時の担任の先生も、同級生も……僕の知っている人は誰もいない。その代わりに、自分の知らない子どもたちが、自分がかつて着ていたのと同じ制服を着て、この廊下を歩いている。それが凄く不思議なんだ。まるで僕だけが、この学校という場所に、置いてけぼりにされてしまったような……そんな気がするんだ」
僕が口を噤むと、渡り廊下は再び静寂に包まれた。
駐輪場の木々の葉擦れ、巣に帰る鳥の鳴き声、自販機のモーターが回る音……いつもヒトの喧騒に掻き消えるそれらの音が、今は鮮明に聞き取れた。
歩來は、飲み終えたと思しきミルクティの紙パックを窓脇に置くと、僕に向かって両手を差し出してきた。
「はい。おいで、ナナちゃん」
「……なんの真似だい」
「ぎゅってしてあげる。寂しいんでしょ?」
「いらないよ」
「つれないなあ」
歩來は直ぐに引き下がり、こちらに広げていた右手の先を、窓外の太陽の方に差し向けた。
「ね、ね、ナナちゃん。太陽の輪郭って、本当に丸いのかな」
「今度はいきなり、なんの話だ?」
ピンと伸ばされた彼女の細い腕のラインが、真っ白なワイシャツの生地越しに透けていた。滑らかな爪先が水面のように西陽を跳ね返していた。細められた瞳は遥か彼方の恒星を見つめていた。長い睫毛の先に、夕焼けの光の粒が留まっていた。
「太陽は眩しいから、あの輪郭が本当に丸いかなんて、誰にも分からなくない?」
「近づき過ぎれば、翼を溶かされて地に堕ちてしまうからね」
「それはギリシアの神話でしょ」
「お、博識じゃないか、関心関心」
わざと大げさにそう褒めると、歩來は得意げに微笑んだ。
どうやら彼女は、僕のしみったれた雰囲気を払拭しようとして、そんな話題を振ってくれたものと見えた。
「まあ、そういう
「え~? ロマンがないなあ」紙パックをゴミ箱に入れ、歩來は言った。
「そんなんじゃ、女子高生にはモテないよ?」
「モテなくて結構。早く帰って勉強しなさい」
「中間の成績良かったら、デートしてくれる?」
「馬鹿言いなさんな」
そんな締まらないやりとりを経て、凪坂歩來は下校した。それから程なくして、僕も荷物を片付けて、職場を後にしたのだった。
…………
✳︎✳︎✳︎
土曜日。
常ならば、何かと身の回りの世話を焼いてくれる姪の
特段の予定はない。何時もの癖で六時半過ぎに目を覚まし、コーヒーを淹れて、簡単に朝食を済ませる。
布団を干し、洗濯機を回し、掃除機を掛け終えてもまだ、時計の針は九時半にさえ届いておらず……ベランダから、穏やかに晴れた雲ひとつない空を見上げていると、なんだか一人で自宅に籠っているのが勿体無く思え、僕は財布を手に取り外に出て、近所のパン屋でサンドイッチを買い求め、駅前行きのバスに乗り込み、図書館へ向かった。
鳥羽森図書館は、休日ということもあってか混んでいた。
残念ながら貸切のテーブルはなく、僕は書棚から文庫本を一冊手に取り、フロアを歩き周り、程なくして、四人掛けのテーブルに男性が一人だけ座っているのを見つけ、その
読書を始め三十分程が経った頃だろうか……ふと、隣の席が引かれる音を聞き、僕はちらりとそちらを見た。
果たして、隣に座ったのは高校生くらいの女の子だった。薄手のシャツの上に灰色のパーカーを羽織り、机の上に数学の参考書とノートを広げていて、丸っこい字で書かれた数式のお尻のところを、アルファゲルのシャーペンの先で突っついていた。俯いたその顔までは窺い知れなかったが、垂れた黒髪の隙間から、赤い眼鏡のフレームが見え隠れしていたのが印象的だった。
向かいの男が、こちらを恨めしげな目で見ている事から察するに、どうやら隣席の眼鏡の少女は、なかなかの美人のようである。そんな彼女が他ならぬ自分の隣に座ったというその事実に、僕は愚かにも、ちょっといい気分になってしまった。
……とは言え、たまたま隣に座っただけのその少女と、なにか特別なエピソードが生まれる訳もなく、僕はそのまま読書を再会した。それからひと時、腕時計を見ると、いつの間にか時刻は正午を回るところだったので、そろそろ昼飯にしようと思い立ち、文庫本に栞を挟み席を立った、その時だった。
「あ、ナナちゃん、お昼いくの? 一緒に行く」
そんな風に、僕は隣の少女に、そう声を掛けられた。
「えっ……!?」
反射的に振り向く。なんと眼鏡の少女の正体は、いつも学校で僕を揶揄ってくる厄介な女子生徒、凪坂歩來であったのだ。私服で眼鏡という、普段見慣れぬ姿の所為で、横目で見ただけで気付けなかったのは大きな失敗だった。
「こんにちは。珍しいね、ナナちゃんが図書館に来るの」
やられた、と思った。
歩來は隣を僕と知った上で、僕の隣の席を陣取ったのだ。
「じゃあね」
僕はそう言い残し、席を立ち、エントランスに向けて歩き出した。
歩來は当然のように付いてきた。
「ねーねーナナちゃん、帰るの? それともお昼?」
「その呼び方止めなさい。ちゃんと先生、と……」
「せんせー♥ せんせー♥」
「あっ、くそ」
手痛い失態に気が付けど、時既に遅し、歩來は我が意を得たりとばかりに、嬉しそうに僕の腕にひっついて、僕を先生と呼び始めた。
僕は唇を噛んだ。すべて歩來の思うつぼ、周囲の男性客が
人目を避けてエントランスを抜け、駐車場の自販機でコーヒーを買うと、裏手の庭の、手近なベンチに腰掛けて、手元の紙袋からパン屋で買ったサンドイッチを取り出した。
外は相変わらず晴れていた。柔らかな陽光が、街路樹の葉をきらきらと輝かせ、アスファルトの上に青緑色の影を落としていた。
近くにある公園の方から、子どもの笑う声が聞こえていた。
「いい天気だね、せんせー」
歩來はそう言って、当然のように僕の隣に陣取って、鞄から弁当とおぼしき小さな包みを取り出し、黒いタイツに包まれた膝の上に置いた。
「あー、せんせーまたあたしの脚見てる。やらしいんだ」
「茶化すな」
「まさかあたしがお弁当持って来てるなんて、意外だった?」
歩來はそう言いながら弁当箱の包みを解いた。小ぶりな箱の中には、なんとも色取り鮮やかな昼食が収まっていた。小さいハンバーグにはケチャップの小袋が添えられていて、赤いウインナーはタコさんで、卵焼きは見事な火加減で、レタスもトマトも瑞々しく、バランの角度も完璧だった。料理人の丁寧な仕事振りが窺えた。
「……あの、ごめんね? せんせーの分、ないの……良かったら、少し分けてあげようか?」
「あ、いやごめん、欲しがった訳じゃないんだ。凄く手が込んでて、少し驚いただけだよ」
「別にフツーだよ。お父さんが休みも仕事でお弁当が要るから、一緒に作った方が効率いいし」
「え、まさかこれ、凪坂さんが作ったの?」
「うん。うち、お母さんいないから」
そう言って、歩來はきちんと手を合わせ「いただきます」と呟いてから、箸を手に取った。
僕は先の失言を悔やみながらコーヒーのプルタブを開け、今この時、この可愛らしい弁当をどこかのオフィスで広げている、彼女の父親の姿に想いを馳せた。
…………
✳︎✳︎✳︎
「せんせーは、図書館良く来るの? 見かけるのは今日が初めてだったけど、慣れてる人じゃないと、この裏庭は使わないよね」
食後、水筒のお茶を片手に、歩來は僕にそんな話題を持ち掛けた。
「ここには随分久しぶりに来たよ。高校時代には、よく来てたけどね」
ここ鳥羽森図書館は文化ホールと隣接している事もあり、敷地も広く、市営のものとしては中々の規模で、金が無くあまり本が買えなかった学生時代は、姉に弁当を作って貰い、自転車で通いつめたものだった。
「へえ、せんせーは文学少年だったんだ」
「なんか、そうやって言われるとむず痒いな……」
「会ってみたかったなぁ、高校生の頃のせんせー。可愛かったんだろうな」
「何の面白味もない、ただの根暗な男子だったよ」
歩來はくすくすと笑って、水筒のお茶をカップに注ぎ、一口飲んだ。オレンジ色の水筒は塗装が少し剥げていた。
その姿は、普段の歩來が教室で見せる、華やかでアイドル然とした立ち振る舞いとは全く異なるもので……僕は狐につままれた様な心持ちで、その姿をぼんやりと見ていた。
「せんせーがあと九年遅く生まれてくれたら、こうやって毎週、図書館デート出来たのにね?」
おまけとばかりにそんな事を言ってくる。
「……それは無いだろうなぁ」
風に流れる雲の子どもを眺めながら、僕はそう返した。
もし僕が、二十四歳の教師ではなく、十五歳の同級生として、この凪坂歩來という少女と出会っていたならどうだったろう――僕は考えたが、想像の先にあるイメージは、別の席の可愛いクラスメイトに声を掛けられず、文庫本に顔を埋めまごまごするばかりの自分の姿で――彼女の言う『図書館デート』というやつは、きっと永遠に実現しなかったに違いない。
「でも、今日は、せんせーがせんせーで良かったなぁって、思うよ」
「うん? どういう事?」
そう訊ねると、歩來は妙に口籠もり、恐る恐るといった形でこちらを見上げてきた。
「あ、あのねぇ……? せんせーにちょーっと、教えて欲しい問題があるんだ、けど、ね?」
「何だよ、そんなのもちろん、教えて……って、これ」
おずおずと差し出された黄色い帯の参考書には、二次関数だの図形の性質だの確率だの……そんな文言ばかりが並んでいた。
「数学の問題じゃないか! 流石にそれは出来ないよ」僕はつい声を荒げた。
「うー」歩來は顔を俯け、静かに唸った。
自分でも、国語教師である僕にそれは、まずい頼み事だったのは分かっているようだった。
「C組の数学の担当は、確か央郷先生だろ、ちゃんと彼に聞きなさい」
「や」即答だった。
「あの先生脂っこいんだもん、たまにやらしい目でこっち見てくるし……」
「あー……」
それは擁護できないなと、僕は思った。C組担当のその教諭は、確かにそういう――女子生徒にも女性教員にも全く好印象を与えていない――タイプだった。
「数学得意な子とかも、周りにいなくて……」
先程の自分の失言もあって、僕が頭を掻き対応に困っていると、
「あ、じゃぁ、お礼! お礼する! 教えてくれたらちゅーしたげる」
「なっ! やめなさい、はしたない!」
何を血迷ったか、歩來がそんな事を言い出した。
ちゅー、の形にすぼまった、彼女の形の良い唇が、こちらにずいと寄ってきた。
「うれしくない? JKのちゅー、うれしくない? あ、分かった脚だ、脚がいいんでしょ、脚をどうすればいいの? きょうタイツだけど大丈夫? ていうかタイツの方が良い? ちゅー?」
「う、うう、れしくない、あ、こらやめろ、ホ」
歩來の少しだけ汗ばんだ手のひらが、自分の手の甲にピタリと張り付いていた。
「わ、分かった、分かったよ教える! 教えるから、とにかく離れてくれっ」
「うへへ、ありがとー」
「……くれぐれも、ここだけの秘密だぞ」
「もち、私とせんせーのだけの秘密ね」
そんな、とても人様にお見せ出来ないすったもんだがあった末、僕は歩來に押し負かされる格好で、彼女に数学を教えることと相成った。他の教師や生徒には呉々も内緒だと念押しすると、彼女は一際いい笑顔で、気前良く頷くのだった。
…………
✳︎✳︎✳︎
「ね、せんせー。大学ってさ、何をするところなの?」
歩來にそんな事を訊かれたのは、夕方六時過ぎ、図書館からの帰路を、二人で歩いていた時の事である。
「難しい質問ばかりだな、君は」僕は答えた。
「難しいの?」
「難しいよ。大学が何をすべきところなのか……その答えは、人によって異なるから」
歩道には、僕と歩來の足音だけが響いていた。
西の住宅街の家々の窓に、明かりが灯り始めていた。その屋根の稜線に沿って、朱色に輝く雲が音もなく
薄水色に暮れゆく空に、白く光る月が浮かんでいた。
皆、静かに夜を待っていた。
「せんせーは、他の大人みたいな事、言わないの?」
「他の大人みたいって……例えばどんな?」
「『大学は自由で楽しい、就職にも有利、高卒と大卒では、社会人になった後に貰えるお金が全然違う』とか……そういうこと」
「言わないよ。そういう言葉が君に届かなかったからこそ、君は同じ質問を僕にしてるんだろ」
五時過ぎには図書館を出た僕たちだったが、如何せん歩來のスピードがあまりにも遅く――遅いというか、彼女は筋金入りの寄り道好きで、散歩中の犬がいれば駆け寄っていくし、ハンバーガーチェーンを見れば無意識に足を向けるし、コンビニの前を通れば僕にお菓子をねだってくるしで――駅前に至る道程は随分な時間を要していた。
「将来の夢なんて言われても、そんなの、わかんない」歩來は言った。
「やりたいことなんてない。趣味って言う趣味もない。中学はバスケやってたけど、それを一生やっていこうなんて思わない。勉強は……英語と日本史が少し得意だけど、そんなに好きってわけでもない」
降り始めの雨のように、歩來は
「この間ね、学校で、いろんな職業が書かれた本を貰ったの。でもそんなの、幾ら読んでも、なんにも見えてこなかった。……でも、あと半年で、みんな文系か理系かを決めなくちゃいけなくて、二年後には、どんな学部に進学するかを決めなくちゃいけなくて、そのまた三年後には、どんな職業に就くかを決めなくちゃいけない……あたしには、それが出来る気がしない」
いつもの溌剌さや、猫のように気儘な態度は鳴りを潜め、声は、彼女の唇から零れ落ちるたび、足音に紛れていった。
「あたし、ね。……自分が何だったのか分からないまま、何かになってしまうのが、ちょっとだけ……怖い」
一台の車が、側の車道を通り抜けた。
車は暴力的な速度で夜の住宅街を駆け抜けて、歩來の灰色のパーカーの裾を僅かに揺らし、すぐに見えなくなってしまった。
「……もし僕が、経験豊かで優秀な教師だったなら、今ここで、君を勇気付けたり、的確なアドバイスをしてあげられたのにね」
「優秀な教師なんて、要らない」
駄駄を捏ねる子どものように、歩來は僕にそう返した。
「せんせーは、どういう風に進路を決めたの?」
「凪坂さんほど深くは考えなかった。本が好きだったから文系に進んだ。そして、後輩に勉強を教えた時、教え方が上手いと褒められたのが嬉しくて……そんな簡単な動機で、僕は教育学部に進学して教師になった。ただ、それだけだよ」
「他の進路とか、職業とか、悩まなかったの?」
「悩んだけど、それ以外の答えは出なかった。そのうちにタイムリミットが来て、僕は受験して、幸いにも合格して、大学生になった」
タクシー会社の待合所の角を曲がると、視界に駅前のロータリーが見えてきた。
歩來の自宅は、そこから徒歩数十秒のところにあるマンションの一室だという事だった。
都合一時間以上を要した帰路が、もうじき終わろうとしていた。
「大学を出て一人暮らしを始めて、色んな自由を経験した。何か面白そうな講義を取って、他所の学部に行ってみたり、アルバイトをしてお金を稼いで、友達と泊まりがけで旅行に出掛けたり、初めてお酒を飲んでみたり、一人で趣味やゲームにのめり込んだり、ただ何もせず部屋でごろごろしたり……何をやっても、誰にも何も言われなかった」
「自由で楽しいから、取り敢えず大学に行ったほうが良いってこと?」
歩來を見ると、彼女は少し非難めいた目で僕の事を見上げていた。
「いいや。ただ、そういう孤独な自由に触れて、はじめて見えてくるものもあると、僕は思うよ。自分は何が好きなのか、何が嫌いなのか、どういう生き方を良しと思うか、他者とは何が違うのか……自分がどういう生き物なのか」
「…………」
「子どもの頃には分からなかった、今でも朧げにしか分からない、言うなれば……自分の輪郭みたいなものが、ね」
気が付けば、僕たちは歩道に二人立ち止まり、互いに顔を見合わせていた。
駅のほうから、電車の発車を告げる電子音声が聞こえていた。
「進学しようとも就職しようとも構わないさ。君がこれからの高校生活で選んだ道なら、それがどんなものでも応援するよ。だから」
「……だから?」
「だから、今この生活を、自分らしく過ごしてみたら良いんじゃないかな。悩む事も考える事も大切だけど、たまには自分に正直になって遊ぶ事も必要だよ。そういう時間を積み重ねた先に、誇れる未来がきっとあるから」
歩來は顔を俯け、何かを思案するかのように押し黙っていた。
それから数秒後、彼女は意を決したように顔を上げ、こんな事を言い出した。
「ねー、ねー、せんせー」
「うん?」
「来週の中間で、あたしが三十位以内に入ったら、あたしとデートしてくれる?」
また何を馬鹿なことを――
足早に過ぎ行く車のヘッドライトが、歩道に佇む歩來の輪郭をひときわ強く照らし出した。
切り揃えられた前髪、きめ細やかな白い頬、紅を知らぬ唇、あどけない微笑み、赤いフレームの眼鏡の奥で、こちらを見据え微かに揺れる大きな瞳――だがそれらは、車が通り過ぎると、瞬く間に夜との境目を曖昧にした。
少しの排気の匂いを残して、世界は再び、街灯と月明かりだけになった。
「……総合で三十位以内に入れたら、その時は真面目に考えるよ」
「あのね、あたしね? デート行くなら、せんせーのお家が良い」
「そりゃ流石にダメに決まってるじゃないか……」
僕は歩來から顔を背け、駅に向かって足早に歩き出した。
後ろから付いてくる小さな足音が小走りになっていたのは分かっていたが、それに歩調を合わせてやる気はどうにも起きなかった。
…………
✳︎✳︎✳︎
「あー、また一人で黄昏てる」
教え子の凪坂歩來にそう声を掛けられたのは、夕方五時過ぎ、僕が、勤め先である公立鳥羽森高校の渡り廊下で、窓から外の景色を眺めていた時の事である。
歩來はそこが自分の定位置だとでも言うように、手慣れた所作で僕の隣に陣取って、ストローの刺さったお気に入りのミルクティを窓際に置いた。
「……飽きないな、君も」
「せんせーはあたしに飽きちゃった?」
「妙な言い方はやめなさい」
中間考査が終わると、校内は再び放課後のざわめきを取り戻した。
野球部の掛け声はグラウンドから、吹奏楽部の金管の音色は中庭から……校内のありとあらゆる場所から、生徒や教師達の織りなす喧騒が響いていた。
歩來は、丁度一週間前にそうしたように、窓の外に手を伸ばし、差し込む西陽に目を細めた。先週よりも少しだけ気温が上がっていた所為か、ワイシャツの袖は七分の丈に捲られていた。
「うーん……やっぱり、太陽の輪郭は分からないね」
「あまり見過ぎるなよ、目を悪くするから」
「ふふ、せんせー、お父さんみたい」
ふと、頬にひたりと温かな感触を覚え、僕は隣の方を見た。
当然と言えば当然だったが、触れていたのは歩來だった。右手の人差し指と中指で、僕の頬や髭の剃り際を、何度も何度もなぞっていた。何がそんなに面白いのか……僕が睨め付けても、彼女は一向にそれを止めようとしなかった。
「……何だよ」
「べっつにー? 触ればちょっとは見えるかなって、そう思っただけ」
「は、はぁ……?」
歩來は西陽からも僕からもその手を
図書館で見せた穏やかな笑みとも、夜道で見せたか細い笑みともどこか異なる、捉え難く変幻し、猫のように身勝手で……
「この間は、ありがとね」歩來は僕の耳元に口を寄せ、囁くようにそう言った。
「また教えてね。昔の事、未来の事、今の事、せんせーの、事」
そう言って、彼女は飲み掛けのそのミルクティを、おもむろに僕に押し付けた。
「これあげる。せんせーのお陰で、来週も、この渡り廊下が楽しみ」
そう言うと、彼女はこちらを振り返りもせず、教室棟の方へと駆けて行った。
僕は呆気に取られ、ただただ彼女の背の、白いワイシャツの生地が波打つのを見ていたが、差し込む西陽のあまりの眩しさに目を細めた瞬間、彼女の姿は、廊下を行き交う他の生徒や教師たちのシルエットに紛れ、見えなくなってしまった。
「……どうしろって言うんだよ、これ」
紙パックを手にしたまま、僕はやる方なしに溜息をつき、すぐ側の掲示板に目を向けた。
今は何も貼られていないそこには、中間テストの採点が終わる来週、成績上位者が張り出される予定になっている。
幾年も続く化石のようなその行事は、多くの生徒に
この鳥羽森高校に再び、太陽の季節がやってくる。
《太陽の輪郭 了》
女子高生の姪がなんか僕のママになろうとしてくる話 nyone @nyone
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