静寂

藤枝伊織

第1話

 私が屈んだ瞬間、何かが落ちた音がした。

 カコン、と固いものが床に落ちたのだと思った。しかし、辺りを見回しても何も落ちてはいなかった。

 私はそれについて考えるのをやめ、白いネクタイを首からはずして投げ捨てた。あとで、妻になんと言われるかはわかりきっている。それでも私はそれを所定の場所へと片付ける気にはなれなかったのだ。

 今日は友人の結婚式だった。

 花嫁は、学生時代私と大恋愛をした、一つ年下の後輩だった。その頃、私は完全に彼女に夢中だった。なんの皮肉だろうか。結婚は考えられない、そう言って私の元から去った彼女は終に私の友人と結婚することになったのだ。

 私は、学生結婚が嫌なのなら、いつまでだって待つと言った。彼女は、結婚が嫌なのだといった。

 彼女は奔放な女だった。私と付き合いながらも、よく他の男と食事に行っていた。私の妻はとても純情で潔癖な女であるため、今は浮気の心配はない。しかし、彼女は、男と出かけるのは浮気ではないと言い張っていた。彼らは仲のいい友達だとも。友達同士で、あんなに官能的なキスをしているのは見たことがなかったが。それでも私は彼女を愛していた。彼女も彼女なりに私を愛していると自信を持って言えた。愛していると先に言ったのは彼女だった。私が彼女に焦がれ始めてから一年近くが経って、やっと私の思いは叶った。

 彼女と付き合って二ヶ月後には、彼女は男と共にいなくては生きていけないのだとわかった。常に、アクセサリーに身を包むように、男からの賛辞に身を浸していなくてはならないのだろう。考えてみればはじめて彼女に会った時も、男と一緒だった。学校内ですれ違っただけだが、彼女の髪が歩くたびに揺れ、芳香にも似た体臭を放っていた。そのときから私は彼女しか見えなくなった。次に会った時には前とは違う背の低い男を連れていた。彼女は男の好みがないらしかった。彼女が連れていた男達には、外見上は一切似たところなんてなかったのだ。ときにはモデルのような背の高い男を、ときにはものすごく醜い男を、彼女は連れて歩いていた。彼らに共通しているのは、誰もが彼女を愛しているということだった。彼女は皆から愛されていた。彼女はそこにいるだけで、ひとりでに輝いていた。彼女こそは媚薬そのもの。驚くことに、女友達も沢山いた。男も女も、皆、彼女の魅力にあっけなく陥落した。

 その頃の彼女を思い出すだけで、胸を嗅がすような情熱に溺れそうになる。はじめて彼女と共にした夜を忘れはしない。忘れることなどできはしない。

 ある日、彼女が私の元へ来た。そのとき、すでに彼女はウィスキーで酔っていた。理由を聞き出すと、友人の一人が交通事故で亡くなったということだった。涙ながらに彼女はそのことを話し、そして、

 私に愛を告げた。

 私は、自分が信じられなかった。私ほど幸福な男はこの世にいないと思った。

 涙を溜めた瞳が、私だけを映した。

 私はそれを、はじめて彼女を見た瞬間から、長いこと望んでいたのだ。体中の血液が沸騰しそうなくらい熱かった。

 彼女はその唇で激しく私を欲し、私はそれに応えた。彼女が漏らしたかすかな喘ぎさえも記憶している。彼女は、甘い吐息で私への愛を叫んだ。どれほどの男にその言葉を吐いたのかなぞ気にならなかった。彼女はその時、確実に私だけを求めていた。

 誰でもない、私を。

 かつて、彼女は他の男にキスをしたその唇で私への愛を語っていた。そして、今日は私の友人への生涯の愛を誓ってしまった。もう、どんなに焦がれても彼女の愛は私に戻ってこないのだ。今日の彼女は輝いていた。かつて、私達が共に過ごしたどの夜よりも、喜びに満ちていた。私達はあんなにも愛し合っていたのに。私は今でも彼女を愛しているのに。彼女が新郎を見つめるその眼差しに、私は一瞬たりとも映っていなかった。私は、決して彼女以外を愛したことはない。彼女はもう、むかしの彼女ではなかった。彼女は、たった一人を愛するなんてできない女だった。彼女は、皆に愛され、全ての男――もちろん私も含め――を愛していた。

「あなた」

 妻の声がした。

「帰っていらしたの」

 妻だ。彼女ではない。なぜ、私の傍にいるのに彼女ではない女なのだ。妻は茶髪。彼女は違う。まばゆいばかりの金だ。なぜ、この女は金髪ではないのだ。

 カコン。とまた、何かが落ちた音がした。しばし視線を床に彷徨わせた。そして、顔をあげた。

 女が心配そうに私のことを見ていた。

 誰だ。

 彼女ではない。

「お前は、誰だ」

 そう言って私は女に掴みかかった。女は悲鳴を上げた。彼女なら、こういう時きっと笑うだろう。楽しげに、楽しげに。

「誰だ」

「やめて、あなた。どうしたの」

 あなた。彼女はそんな風に呼んだことはなかった。常に、誰のことも彼女は名前で呼んだ。ファーストネームを、あのキスしたくなる厚みのある口で、愛撫するかのように呼んだ。

 カコン。

 何かが、落ちた。何が。

 私は、何故こんな所にいる。彼女はどこだ。

 彼女はいつだって、私の隣にいた。彼女は。

何かが抜け落ちていった。今は、何時だ。私には何もかもがわからない。私は。私は。

 何かが欠落していく。私の時間か。現在か。記憶か。

 何かが。

 カコン。

 静かに、その音だけが響いた。

 私には、もう何が何だかわからなかった。

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静寂 藤枝伊織 @fujieda106

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