還る日の食卓には、君を並べておいて

希介

00 駅にて

 「お嬢さん」

 少女はびくりと肩を揺らした。その拍子に、つまんでいたファスナーのつまみが、ぽろりと指の間からこぼれる。くすんだ金色のそれは、大きな革のボストンバッグのものだ。もとは母の物であった鞄の、どこか古めかしい形を気に入った少女が、何度も強請ねだってやっと譲ってもらったものだった。使い込んだ革特有の深いあんず色をした表面は、味気ない白色灯のかさついた光さえしっとりとした艶に変えている。

 それはさて置き、現在少女は駅のプラットフォームのベンチに座っている。時間は午前二時。 春寒はるさむの冷たい風が少女の癖毛がちのおかっぱ髪をわずかに揺らしたが、その手も視線も凍り付いたように鞄に固定されたままである。

「お嬢さん」

 空耳ではなかった。足元に置いた鞄から、少女はさっと顔を上げて隣のベンチを見た。彼女がここに座った時には、つまり、ほんの十分ほど前には誰もいなかったはずのそこには、男が一人座って居る。

 いつ現れたのだろうか、足音などしただろうか。少女は思い出そうとしたが、人が座った覚えはやはりなかった。忽然こつぜんと出現したその男は顔だけをこちらに向けて、ぎらつく三白眼でまっすぐ少女を見据えている。

「……は、い」

「お名前を御伺いしても?」

「え」

  男の風貌は少女が答えを躊躇ためらうに十分な異様さだった。何しろ、全身隙なく黒ずくめなのである。質のよさそうなウールの襟高なコートも、スラックスも、よく手入れされている革靴も、両手にはめた革の手袋も、露出している顔以外のすべてが真っ黒だ。そしてその顔だが、これは服とは対照的に病的に青白い。年の頃は三十路前半といったところか。顔色は悪いが肌にしわはあまり無く、髪も艶々と黒い。前髪をきっちりと横に流し、その下の異様に薄い眉が、目つきの悪さを助長している。

「あの……」

 嗚呼、失礼、と呟いた男がおもむろに立ち上がったので、少女は反射的に身を引いた。大きい。 180センチくらいはありそうだ。えっ、とか、あのっ、とか言いながら狼狽える少女の様子に気づかぬ様子で、その男は隣のベンチから少女が座っているベンチに移動してきた。歩数にして二歩。ぴしりとした姿勢のまま腰から屈んで少女の顔を覗き込んだ男は、「座っても?」と尋ねながら目で少女の隣を示した。もはや聞かないで欲しかった。怖すぎて断れないのだから。「どうぞ」と応えながら、逃げる機会を失ったことを悟った少女は、男が座る瞬間に座面が少しきしんだことに少し安堵した。彼には質量がある。よもやこの男、死神か幽霊のたぐいかと、ありえない妄想を少女に抱かせる程、不気味な雰囲気だったのだ。

「こちらから名乗るのが礼儀でしたね。私は無悪さかなし糸彦いとひこと申します。どうぞお見知りおきを。糸彦とは変わった名だとお思いでしょうが、私これでも人並みに両親がいまして、わが両親も息子に何とも儚げな名をつけたものだと自分自身疑問に思っているところです。どういう由来があるのかは終ぞ聞いたことはありません。尋ねたところで、あまり上等ないわれは期待できない気もします。かといって綱彦つなひこなどとつけられましても、今となってみれば完全なる名前負けとなりましょうから……」

 案外よくしゃべる。少女は一瞬面喰めんくらったが、話す間に彼の目線が線路の方へと逸れたのを幸いと、改めてまじまじとこの男を観察した。

 糸彦と名乗るその男、内容はともかく滔々とうとうと話す様子は知的さを漂わせ、学者とかそういった類の雰囲気を感じる。また、親しげに話しかけてくる一方で、この男の無表情さは人懐こさなど微塵も感じさせなかった。吊りあがった目尻と、肉の薄い唇はわずかに赤みがさしているが、顔色と相まって不気味さが増している。細身の体は異様に姿勢よく、長い脚は直角に地面に、細長い手もきちんとももの辺りに指を揃えて置かれている。ピンと伸びた背中は背もたれから15センチ以上は離れていた。柔らかい雰囲気とは無縁の人間のようだ。

 不意に糸彦の目が少女をとらえ、まともに目が合った彼女はこっそりと息を呑む。今しがたさやから抜いたばかりの刀に似た、凄絶な雰囲気を持った男だ。

「それで、お嬢さんのお名前は」

 再びの問いに、少女は小さな赤い唇の端を引いて、つばを飲み込んだ。

「……八ツ島やつしま紫土しど、ですが」

「シド!」

 紫土と名乗った少女は糸彦の勢いに驚き、びくりと身を引いた。もしかして彼は今、ぱっと目を輝かせたのかもしれない。しかし、どう見てもぎらりと三白眼が光ったとしか表現できない。更に彼は心なしかこちらに身を乗り出している。

「素敵なお名前です。あぁ、正に名は体を表すようだ。私のような人間には、あなたのお名前はとても魅力的です」

「はぁ」

「失礼ですがご実家はお寺か何かでしょうか」

「いえ、あの、普通の家です」

 ほう、とあごに手を当てて二、三度ゆっくりと頷くと、糸彦は思い出したように言った。

「それでシドは、ここで何を?」

 二人の間を冷たい風が吹いていった。確かに、ここは真夜中のもの寂しいホームである。二人以外には人の気配はない。白色灯に照らされているのに何だか仄暗い気がする、まったく十八歳の少女には似つかわしくない場所なのである。そうでなくとも、紫土は見た目が歳よりも幼い。芥子からし色の厚手のカーディガンに、深緑のAラインワンピースと服装もどちらかといえば少女趣味だ。疑問を抱かれるのも、仕方がない。

「家を出てきました。これから夜行急行に乗ります」

「ふむ、家出ですか。私も経験がありますよ、あれはいいものです」

 さして驚きもせず、糸彦は相槌をうった。三日かけて固めた、すぐには家には戻らぬという決心が、他人によって家出というありきたりな言葉になったとたん、少し恥ずかしくなった紫土は青白い顔から目をそらして、乱れてもいないカーディガンの裾を、そっと引っ張った。

「あの、家出というか、いえ、そうなんですけれども……きちんと両親とは行き先も話してきましたから、家出というには語弊があるというか」

「おもしろい、いや、理解ある親御さんだ。可愛い子にはなんとやらというやつですね。どこまで行かれるのですか?」

越洲こしのしままで」

 言った直後、こんなにも怪しい男にすんなり行き先を教えてしまったことに気付き、頬をこわばらせる。この男、存外人を喋らせるのが上手い。

「おや、これは偶然。私も越洲まで、同じ夜行に乗っていくのですよ。ここへは人に会うために来ましてね。用が済んだので家に帰るのです」

「……そうなんですか」

 本当だろうか。紫土が拍子抜けする程に、飄々ひょうひょうとしている糸彦からは何の感情も読み取れない。これは一体何なのだろうか。列車を待つ行きずりの人間同士の気まぐれな意味のない会話なのだろうか。それとも何か紫土が窺い知れない思惑がこの男にはあるのだろうか。今のところ糸彦には、見た目以外で不審な点はないように思うが、妙にそわそわするのは、虫の知らせとかいうやつのなのでは。

 紫土にとっては居心地の悪い間が流れ、黒いメリージェーンのつま先を意味なくぱたりと鳴らす。列車来るのはまだ先だ。

 ふと、糸彦が思いついたように口を開いた。

「向こうに着いたら、どうするおつもりですか? 到着予定時刻は早朝ですが、どこかあてはおありですか。駅の周辺は思いの外さびれていますよ」

「え、そうなんですか? 私、あまり何も考えずに来てしまって」

 紫土が驚いて糸彦の顔を見た、が、次の瞬間また身を引いた。もしかして彼は今、思わず噴き出してしまったという体で笑ったのかもしれない。しかし、どう見ても間違いなく彼の笑みの擬音語は、にたり、であり、場の空気は冷えていく一方だ。目はもちろん笑っていない。紫土は首筋に寒気を覚え、5分程前にボストンバッグから取り出そうとしていたストールを思い出した。

「意外と無鉄砲なのですね。いや失礼、あなたは育ちがよさそうだ。そうだ、よかったら、シドが都合のいい時間まで私の家に寄って行きませんか。朝食とお茶を御馳走しますよ」

「え」

「明日は丁度仕事がありません。シドがよければ、私の秘蔵レシピで作るマンデルントルテでも。いかがでしょう?」

「……」

 糸彦は何食わぬ凶相で、こちらを窺っている。

 一方で紫土は大いに混乱して言葉を失くした。まずお世辞にも人好きがするとは言い難い風体のこの男が、行きずりのしかも女性を自宅に誘ったことに驚いた。それも、笑顔に使用するべき表情筋をどれひとつ動かさずに。そしてマンデルントルテなどというおよそ彼にそぐわない甘い菓子の名がでるとは。しかも今彼は「私の秘蔵レシピ」と言わなかったか?

 これがこの男の誘拐の手口なのか、はたまたただの親切心か、もしくは見た目に反してひどく人懐っこい質を持ってしまったかわいそうな人なのか。誘拐だとすると回りくどすぎるような気もするし、気に入った人間を親切を兼ねて自宅に招くやり方としては特におかしな流れでもなかったようにも思う。

 嗚呼、深夜の駅で出会った見知らぬ怪しい男と二人きりだなんて。その事実だけで希望6割、不安4割で構成されていた紫土の家出は、今や不安3割、困惑3割、後悔4割である。あまつさえその男の家について行くなど、普通ならどう考えても最悪の結果しか思い浮かばない。普通ならば。だがこの男、普通ではない。つまりは安全。いや待て、そういうことではないはず。

 めまぐるしく思考する紫土の眼は完全に泳いでおり、糸彦は黙ってそんな彼女をじっと眺めている。糸彦の眼は穏やかとは言い難い光を宿していたが、恐らく悪気はないのだろう。そして、悪気はないのだろうなんて考えてしまっている時点で、紫土の答えは既に決まっているようなものだった。

 おそるおそる視線を合わせれば、不吉さの塊のようなその男は控えめに答えを促した。

「さて、いかがでしょう」


 これが、この世とあの世の出会いであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

還る日の食卓には、君を並べておいて 希介 @maresuke240

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ