還る日の食卓には、君を並べておいて
希介
00 駅にて
「お嬢さん」
少女はびくりと肩を揺らした。その拍子に、つまんでいたファスナーのつまみが、ぽろりと指の間からこぼれる。くすんだ金色のそれは、大きな革のボストンバッグのものだ。もとは母の物であった鞄の、どこか古めかしい形を気に入った少女が、何度も
それはさて置き、現在少女は駅のプラットフォームのベンチに座っている。時間は午前二時。
「お嬢さん」
空耳ではなかった。足元に置いた鞄から、少女はさっと顔を上げて隣のベンチを見た。彼女がここに座った時には、つまり、ほんの十分ほど前には誰もいなかったはずのそこには、男が一人座って居る。
いつ現れたのだろうか、足音などしただろうか。少女は思い出そうとしたが、人が座った覚えはやはりなかった。
「……は、い」
「お名前を御伺いしても?」
「え」
男の風貌は少女が答えを
「あの……」
嗚呼、失礼、と呟いた男が
「こちらから名乗るのが礼儀でしたね。私は
案外よくしゃべる。少女は一瞬
糸彦と名乗るその男、内容はともかく
不意に糸彦の目が少女を
「それで、お嬢さんのお名前は」
再びの問いに、少女は小さな赤い唇の端を引いて、つばを飲み込んだ。
「……
「シド!」
紫土と名乗った少女は糸彦の勢いに驚き、びくりと身を引いた。もしかして彼は今、ぱっと目を輝かせたのかもしれない。しかし、どう見てもぎらりと三白眼が光ったとしか表現できない。更に彼は心なしかこちらに身を乗り出している。
「素敵なお名前です。あぁ、正に名は体を表すようだ。私のような人間には、あなたのお名前はとても魅力的です」
「はぁ」
「失礼ですがご実家はお寺か何かでしょうか」
「いえ、あの、普通の家です」
ほう、とあごに手を当てて二、三度ゆっくりと頷くと、糸彦は思い出したように言った。
「それでシドは、ここで何を?」
二人の間を冷たい風が吹いていった。確かに、ここは真夜中のもの寂しいホームである。二人以外には人の気配はない。白色灯に照らされているのに何だか仄暗い気がする、まったく十八歳の少女には似つかわしくない場所なのである。そうでなくとも、紫土は見た目が歳よりも幼い。
「家を出てきました。これから夜行急行に乗ります」
「ふむ、家出ですか。私も経験がありますよ、あれはいいものです」
さして驚きもせず、糸彦は相槌をうった。三日かけて固めた、すぐには家には戻らぬという決心が、他人によって家出というありきたりな言葉になったとたん、少し恥ずかしくなった紫土は青白い顔から目をそらして、乱れてもいないカーディガンの裾を、そっと引っ張った。
「あの、家出というか、いえ、そうなんですけれども……きちんと両親とは行き先も話してきましたから、家出というには語弊があるというか」
「おもしろい、いや、理解ある親御さんだ。可愛い子にはなんとやらというやつですね。どこまで行かれるのですか?」
「
言った直後、こんなにも怪しい男にすんなり行き先を教えてしまったことに気付き、頬をこわばらせる。この男、存外人を喋らせるのが上手い。
「おや、これは偶然。私も越洲まで、同じ夜行に乗っていくのですよ。ここへは人に会うために来ましてね。用が済んだので家に帰るのです」
「……そうなんですか」
本当だろうか。紫土が拍子抜けする程に、
紫土にとっては居心地の悪い間が流れ、黒いメリージェーンのつま先を意味なくぱたりと鳴らす。列車来るのはまだ先だ。
ふと、糸彦が思いついたように口を開いた。
「向こうに着いたら、どうするおつもりですか? 到着予定時刻は早朝ですが、どこかあてはおありですか。駅の周辺は思いの外さびれていますよ」
「え、そうなんですか? 私、あまり何も考えずに来てしまって」
紫土が驚いて糸彦の顔を見た、が、次の瞬間また身を引いた。もしかして彼は今、思わず噴き出してしまったという体で笑ったのかもしれない。しかし、どう見ても間違いなく彼の笑みの擬音語は、にたり、であり、場の空気は冷えていく一方だ。目はもちろん笑っていない。紫土は首筋に寒気を覚え、5分程前にボストンバッグから取り出そうとしていたストールを思い出した。
「意外と無鉄砲なのですね。いや失礼、あなたは育ちがよさそうだ。そうだ、よかったら、シドが都合のいい時間まで私の家に寄って行きませんか。朝食とお茶を御馳走しますよ」
「え」
「明日は丁度仕事がありません。シドがよければ、私の秘蔵レシピで作るマンデルントルテでも。いかがでしょう?」
「……」
糸彦は何食わぬ凶相で、こちらを窺っている。
一方で紫土は大いに混乱して言葉を失くした。まずお世辞にも人好きがするとは言い難い風体のこの男が、行きずりのしかも女性を自宅に誘ったことに驚いた。それも、笑顔に使用するべき表情筋をどれひとつ動かさずに。そしてマンデルントルテなどという
これがこの男の誘拐の手口なのか、はたまたただの親切心か、もしくは見た目に反してひどく人懐っこい質を持ってしまったかわいそうな人なのか。誘拐だとすると回りくどすぎるような気もするし、気に入った人間を親切を兼ねて自宅に招くやり方としては特におかしな流れでもなかったようにも思う。
嗚呼、深夜の駅で出会った見知らぬ怪しい男と二人きりだなんて。その事実だけで希望6割、不安4割で構成されていた紫土の家出は、今や不安3割、困惑3割、後悔4割である。あまつさえその男の家について行くなど、普通ならどう考えても最悪の結果しか思い浮かばない。普通ならば。だがこの男、普通ではない。つまりは安全。いや待て、そういうことではないはず。
めまぐるしく思考する紫土の眼は完全に泳いでおり、糸彦は黙ってそんな彼女をじっと眺めている。糸彦の眼は穏やかとは言い難い光を宿していたが、恐らく悪気はないのだろう。そして、悪気はないのだろうなんて考えてしまっている時点で、紫土の答えは既に決まっているようなものだった。
おそるおそる視線を合わせれば、不吉さの塊のようなその男は控えめに答えを促した。
「さて、いかがでしょう」
これが、この世とあの世の出会いであった。
還る日の食卓には、君を並べておいて 希介 @maresuke240
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