事顕森の女王

赤井夏

事顕森の女王

 鎖掛の丘にぽつんと佇む輪嵌村に、ウェンペという娘がおりました。ウェンペは出来の悪い娘でした。何をしても上の空で、てんで仕事が手につかず、いつも親に叱られておりました。しかしそんなことはどこ吹く風か、娘は相変わらずぼうっとしておりました。そんなわけですから、ある朝とうとう娘は家を追い出されてしまいました。ですがウェンペは焦燥するどころか、むしろ毎日の仕事から解き放たれ、自由を手にしたことに喜びました。

 ウェンペは意気揚々と村を出て、丘の北方にある事顕森へ向かいました。ウェンペはいつも隙を見つけては事顕森に入り浸っておりました。彼女は森の中にいるときだけは、嫌なことも全て忘れることができたのです。だから事顕森はウェンペの唯一の心の拠り所でした。そんな大好きな森に毎日いられると思うと、ウェンペは嬉しくてたまりませんでした。鼻歌なんかを歌いながら、今までにないような軽い足取りでぐんぐんと森の奥へと進んでいきました。森の木々や生き物も、森を愛してくれる娘のことが大好きでした。だから娘が家出をしたと知った森は喜び、ウェンペを森に住まわせてやることにしました。

 森は総出でウェンペを歓迎しました。橅木はツルでウェンペを引っ張り上げ、自分の頭に乗せて美しい景色を見せてやりましたし、ツツジは蜜を吸わせてやりましたし、夜は虫や鳥の歌を聞きながら柏の葉の布団で眠ったのでした。おかげでウェンペの森での生活はなんの不都合もなく、むしろ快適なくらいでした。ウェンペは幸せな事顕森での毎日を過ごしました。

 しかし森の娘として過ごしていくうちに、ウェンペはだんだんと高慢になってゆきました。動物たちのための木の実を残らず食べてしまったり、森の奥の泉を独り占めしようと水鳥を追い払ったり、自分の目の前を通りかかった野うさぎに何癖をつけていじめたりなど、まるで森の女王のような振る舞いをし始めました。そしてとうとう人を殺めることすらいとわなくなってしまいました。

 それは夏が終わりかけ、秋が顔を出し始めてきたある日のことでした。ウェンペはいつものように山刀を振り回し、バッサバッサと草を刈り払いながら森を我が物顔で闊歩しておりました。すると、泉のほうでコーンコーンという高い音が聞こえました。ウェンペが木陰から覗くと、泉のほとりで木こりが杉の木に斧を入れているところでした。ウェンペは自分の森によそ者が立ち入るのが大嫌いでした。いつもなら木々のざわめきで脅したり、蜂の大群をけしかけたりして追い払うのですが、その日のウェンペは運悪く虫のいどころが悪かったのです。ウェンペはそっと木こりの後ろに忍び寄り、目一杯斧を振り上げたのを見計らった途端、山刀で木こりの胸を貫いてしまいました。木こりは目を見開きながらばたりと仰向けに倒れました。ウェンペはその顔がおかしくて、キャッキャと大笑いしました。

「アハハ、なんて間抜けな顔をしているんだい。こんなあほ面、私の森にふさわしくない。そら木偶の坊ども、出てこぉ。お前の飯だ。とっとと処分しておしまい」

 ウェンペがパンパンと両手を叩くと、岩のように大きな体をしたヒグマの家族が草葉の陰から飛び出してきました。ヒグマらは木こりの死体をクンクンと嗅ぐと、いっぺんに食らいついて、あっという間に平らげてしまいました。

「ふぅ片付いた片付いた。そらいつまでいるんだい。お前らの生臭さが服にこびりつくじゃないか。とっととどっかいっておしまい」とウェンペが言うと、ヒグマの家族は大慌て逃げ帰ってゆきました。

 こんな調子ですから、森の木々や生き物たちはみんな娘に不満を積もらせてゆきました。だからある秋の夜、ウェンペが寝静まった後、生き物たちは森の泉のほとりで秘密裏の会合を開きました。

「もう我慢なんねぇあの娘。何様だと思ってやがるんだ」

 ヒグマの親父が吠えました。

「そうだそうだ」

 サクラタケの一団が木陰で囃し立てました。それに対し頷くようにイチョウの木と楢の木が揺らめきました。

「隣の杉の夫はあの女に切り殺されて薪にされて火にくべられました。いつ私も同じ目にあうかと怖くて仕方がありません」

 杉の木がガタガタと震えながら言いました。

「私の妻は矢を打たれて、皮を剥がれて服にされました。とても悔しいです」

 狐が涙ながらに言いました。

「そういやあいつ、リスを焼いて食っていたのを見たぞ。間違いねぇ」

 ヨタカが木の枝に止まりながら言いました。すると、いよいよ栗の木がイガをボタボタと落としながら憤りました。

「もうたくさんだ! あの女を殺しちまおう。口に実りたてのイガをいっぱいに詰め込んでやる。神さんだってきっと俺らの苦しさを分かってくれぁ。構うこたぁねぇぞ。なぁ皆」

「そうだそうだ」とサクラタケの一団が木陰で騒ぎました。

「女王を殺せ」と木々が何度も繰り返しました。

「よっしゃ満場一致だな。あとは酋長どん次第だな。あんたはどうお思いで?」

 ヒグマが見上げた先には、年のとった賢そうなシマフクロウがおりました。シマフクロウはカッと目を見開いて首を傾げたり、ぐりんと真後ろを向いたりと何やら思案しておりましたが、やがて口を開きました。

「ほう、やはり考えたが、殺生はいかんのう。追っ払うだけにしなさい」

「どうしてだ、あんなもん死んだって誰が胸を痛めるか」

 ヒグマは納得いかない様子で叫びました。

「少なくともわしは悲しむのう。おっと何もそう構えるでない。女王の死に対してではない。皆があやつと同じになってしまうことにだ」

「それはどういう意味でしょう」

 橅の木が聞きました。

「つまり皆は邪魔者の娘を殺して森に安泰を取り戻したいということだな?」

 フクロウの問いに、森の志士たちがいっぺんに頷きました。

「邪魔者は殺す。ほう、どこかで誰かがそんなことを口癖のように言っておったのを聞いたことがあるぞ。それも皆が一様に嫌っている誰かにな」

 フクロウはホッホと笑いました。皆は何も答えられませんでした。

「憎しみで自分の心を汚すように、血で皆の森を汚してはならぬ。心の汚れはいつでも落とせるが、森の汚れは生涯つきまとうだろう。だからわしは殺生に手は貸せんし、許容はできんのう」

 フクロウは静かに言いました。皆の意志は固まりました。

 翌朝、計画が実行されました。まず手始めに、栗の木が寝ているウェンペの顔にたくさんのイガを落としました。たまらずウェンペは飛び起きて悲鳴をあげ、粗相をしでかしたと思った栗の木を斬り倒そうと斧を取ろうとした右手に、大きなウシガエルが飛び乗りました。ウェンペはカエルが大の苦手で、叫びながら右手を振り払いました。そんなところに蜂の大群が襲いかかりました。ウェンペは大慌てで茂みの中に隠れました。しかし、そこにはヒグマの家族が待ち構えていました。ヒグマの家族はゴウゴウと雷のように恐ろしい鳴き声をあげながら逃げる娘を追いかけました。その間にも木々は身がちぎれそうなほど体を揺らしてざわめいております。そしてとうとう娘を泉まで追い詰め、最後にハシボソガラスが目の前で羽ばたき、ウェンペを泉に突き落としました。

「この裏切り者どもめ! お前たち全員を処刑してやる!」

 ウェンペが泉の中でもがきながら吠えました。しかし、動物たちは黙して語らず、哀れな娘を見つめております。そして娘は、遠く橅木の枝に泊まりながら目を細めてこちらを見ているシマフクロウを見つけました。この暴動は森の生き物全員の意志なのだと気づいたそのとき、とうとうウェンペは観念しました。ウェンペは泉の向こう岸まで泳ぎ森の北方に抜け出てゆきました。しばらくは口惜しそうに何度も何度も後ろを振り向いておりましたが、やがて諦めて遠く北の地へと姿を消しました。傍若無人の女王がいなくなった事顕森には久方ぶりの安泰が訪れました。森の仲間たちは祝いの宴会を三日三晩続けました。

 やがて冬になりました。木々は葉を散らし、動物たちは姿を消し、昆虫は死に絶えました。春が訪れるまで森にはただ静けさが支配するのみです。

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