第69話 大好きだよ
夢のように幸せなこの瞬間。だけどそんな中で、一つだけ残念な事があった。残された時間だ。
「──ユウくん?」
不意に声を上げる藍の目には、優斗の体がまるで陽炎のように揺らいでいるのが見た。同時に、そこから急速に色が抜け落ちていくのが分かる。
優斗もまた、自らの体の変化をまじまじと見つめている。だがそこには、何が起こっているのかななどと言う疑問は一切無い。
「……どうやら、本当にもう時間が無いみたいだな」
「…………そうだね」
元々彼の体は、ついさっきまでいつ消えてもおかしくないくらいに薄れていた。成仏する直前だったと言うのは、どう見ても明らかだった。
藍が来た事で一度元に戻ってはいたが、それも一時的なものだったのだろう。
藍も驚きはしたものの、すぐに目の前の出来事を理解する。
「今度こそ、本当に成仏するんだね」
「ああ、そうだろうな」
学園祭、そのステージが終われば成仏する。ずっとそう信じて今までやって来た。こうなるのは分かっていた。受け入れてきた。
だからそこに寂しさはあっても、それは決して悲しさとは違うのだろう。
もっとも、そこに一欠片の不満も無いわけじゃない。
「こんな事なら、もっと早くに好きって言っておけば良かったな」
せっかく想いを確かめ合ったと言うのに、その直後にこれではあまりにも短すぎる。
すると優斗は、再び藍の頭に手を置き、ゆっくりと撫でる。
「そうだな。でも、消える前にちゃんと伝える事ができたんだ。それだけでも、俺にとっては夢のようだよ」
「…………うん」
ここに来るまでは、このまま何も言えずに終わってしまうのかと、不安でいっぱいだった。せめてこの気持ちだけでも伝えられたらと、必死だった。
それが今、きちんと告白して、しかも両想いになれた。それは、凄く凄く幸せな事だ。例え間も無く永遠の別れが訪れるとしても、そこには不満はあっても後悔はない。
「今の私とユウくんって、その……恋人って思っていいんだよね?」
「ああ、そうだな。俺にとって最初で最後の、そして最高の」
少し照れたように返す優斗の顔は、なんだかぼやけて見えた。それは、彼の体が薄れていっているだけじゃない。
いつの間にか、藍の目には再び涙が滲んでいた。この涙が別れによる切なさの為か、それとも想いが通じた喜びの為かは分からない。
だけど今にもこぼれ落ちそうなそれを、グッとこらえる。この最後の時、泣いて終わりと言う結末にはしたくなかった。
そんな藍を見て、優斗の口が動いた。
「ねえ、抱きしめていい?」
「えっ────ええっ!」
あまりに突然な言葉。驚いて、それまで込み上げていた涙も一瞬止まってしまった。
「えっと、何で?」
「そうしたいと思ったから。ってのじゃいけないかな?今の藍を見てると、無性にそうしたくなった」
「それは……」
すぐには返事ができないでいると、優斗は困ったような、残念そうな表情を見せる。
「だめ?」
「──っ。いいよ」
ほんの少しの間を置いて、今度はしっかりと頷いた。
元々嫌だった訳じゃなく、むしろその逆だ。戸惑いはしたものの、心の中は今にも舞い上がりそうになっている。
両手を下げて受け入れる体勢をとると、優斗の両腕が、藍の体をそっと包み込む。
「──んっ」
触れる事ができず、体温すら感じないはずの優斗の体。なのに、胸の奥が熱いくらいに熱を帯びる。ドキドキと、激しい音を立てている。
「なんだかドキドキする」
「ああ俺もだよ」
これまでの藍なら、きっとこんな気持ちになっているのは自分だけだと思っていただろう。だけど今なら分かる。密着しているすぐ隣で、優斗の顔また高揚していた。彼も、同じように緊張していながら、それでもその手は藍を包んだままだ。
「なあ、覚えているか?幽霊になった俺と、ここで会った時の事」
同じ体勢のまま、耳元で優斗が囁く。もちろん、藍の答えは決まっていた。
「そんなの、忘れるわけないじゃない」
初めて軽音部の部室を訪ねた後、この階段を通った。かつて優斗が亡くなったのがここだと気づいて、なんだか苦しくなった。
そんな時、彼は目の前に現れた。あの頃と変わらぬ姿で。
「俺、どうして自分が幽霊になったのか、ずっと不思議だった。そりゃ、やりたい事はたくさんあった。文化祭の事は無念だった。けど、どうして現れたのが今だったんだろうって。それで色々考えたけど、やっぱり藍に会いたかったからだって思うんだ」
それはただの推測で、だけと優斗の中では確信を持っているようだった。
けれど藍が思っていたのは、それとはまた少し違っていた。
「どうかな?私は、自分がユウくんを呼んだんじゃないかって思ってた。ここに来て、ユウくんの事を思って、そのせいで呼び寄せたんじゃないかって」
「もしそうなら、藍に感謝しないといけないな」
優斗が藍に会いたくて来たのか、それとも藍が優斗に会いたくてここに呼んだのか。本当ところは分からない。確かなのは、互いに強く会いたいと思っていたという事実だけだ。
でも二人にとっては、それで十分なのかもしれない。
しかしこんな風に話をしている時間も、もうあまり残されてはいなかった。
「…………もう、本当に終わりなんだな」
藍を包んでいた手をようやく離し、名残惜しそうに呟く。
こうしている間にもその姿は次第に薄れていき、もう目を凝らさないと分からないくらいになっていた。いよいよ、最後の瞬間が訪れたのだと改めて実感する。
「ねえ、ユウくん。最後に一つだけ、お願い聞いてくれる?」
「ああ、いいよ。何でも言って」
願いが何なのか、聞きもしないうちから返事が届く。元々藍が何かを頼むと、とても嬉しそうな顔をするのだが、今回は特にそれが強かった。
藍が最後に言う願い。例えそれが何であっても、彼の中には断るなんて選択は無いのだろう。
「それで、何をしてほしいんだ?」
藍の声に耳を傾けながら、じっと願いが告げられるのを待つ。
だけど藍は、すぐにはそれに答えなかって。
「えっと、実は……」
何かを言いかけて、だけどそれっきり次の言葉が出てこない。言いにくい事なのか、カッと顔を赤くし、いつまでも口をモゴモゴさせている。
「遠慮しないでよ。俺にできることなら、何だってするかさ」
前屈みになりながら顔を近づけ、次の言葉を促す優斗。そこには少しの焦りも含まれていた。
今や彼の体は、いつ消えてもおかしくない。だからそうなる前に、何としても最後の願いを聞いて叶えてやりたかった。
そんな優斗に向かって、ようやく藍は一言告げた。
「そのまま、動かないで」
「えっ?…………えっと、これでいいのか?」
言われた事の真意が分からなくて、思わず聞き返す。一応それに従って同じ体勢をとり続けてはいるものの、どうしてこんな事を言われているのかさっぱり分からない。
今の彼は、さっきまでと同じように上体を屈めながら、不思議そうな顔で覗き込むように藍を見つめていた。
その藍はと言うと、相変わらず顔を真っ赤に染めたまま、なんだか恥ずかしそうに俯いていた。
もしかしたら、まだ何か続きがあるのだろうか?そう思った時だった。
「うん。あと少しだけ、そのままでいて」
そんな言葉とともに、伏せられていた顔がようやくこちらを向く。同時に、それまで地についていた彼女のつま先が、僅かに浮いた。
そして──
「────えっ?」
優斗が息を飲んだのは、藍の唇が彼のそれへと触れた直後だった。
「い、いきなりで……ごめんね」
目を丸くしながら固まる優斗に向かって、イタズラっぽく笑うとする。だけどその表情はぎこちなくて、全く動揺が隠せていなかった。
そんな藍を見ながら、優斗の顔がフッと和らぐ。それから、とても幸せそうに微笑んだ。
「いいよ。藍の最後のお願いだからな」
その言葉が、最後の引き金になったのかもしれない。
今にも見えなくなりそうなくらいに透明になっていた優斗の体。それが、急に淡い光につまれた。
それはまるで、蝋燭が消える寸前に、一際大きな炎を上げているようにも思えた。
優斗が再び両手を広げ藍の体を包むと、藍もまた、それに応えるように優斗の背中に手を回す。
その手の中で、少しずづ彼の体が小さくなっていく。手が、足が、次々に小さな光の粒へと変わっていき、どこへともなく消えていく。
「ユウくん──ユウくん──」
せっかく堪えていた涙が、また溢れそうになる。必死でそれを止めながら、ただ彼の名前だけを呼ぶ。
サヨナラなんて、別れの言葉は言いたくなかった。行かないでなんて、引き留めるのも違うと思った。もはやかける言葉なんて見つからなくて、代わりに誰よりも大好きなその名を繰り返す。
そしてとうとう、最後の一粒も消える時、優斗の声が届いた。彼からの最後の言葉が。
「ありがとう、藍。ずっと──ずっとずっと、大好きだよ」
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