第53話 伝えた言葉 1

 血が滴る右手をティッシュで押さえながら、啓太は保健室へと向かう。藍に見とれていたせいで、刃物を持っているのも忘れた結果起きてしまった怪我。我ながらはかばかしく、そして顔を覆いたくなるくらい恥ずかしい。

 もちろんそんなこと、藍には絶対に言えるわけがない。できることなら今は顔を合わせたくもない。だと言うのに、どうしてその当人が隣にいるのだろう?


「ごめんね。作業中に話しかけたりして」


 さっき教室でも言っていたことを、もう一度謝ってくる。彼女の中では自分が不用意に話しかけたのが悪いとなっているようで、こうして付き添いまでしてくれている。

 しかし、藍が原因というのはあながち間違いでもないのだが、啓太としてはどうにもいたたまれない。


「別にわざわざついてこなくてもいいんだぞ。元々俺がドジやっただけなんだからよ」


 切った時はビックリしたが、幸い傷はそこまで深くなく、わざわざ付き添われるような大げさなものじゃない。だがそうは言っても、もちろん藍はそれでは納得しなかった。

 そのまま二人して保健室まで向かい藍が戸を開けると、とたんに声が飛んできた。


「またなの?この時期は毎年怪我をする子が多いけど、今日は特に酷いわね」


 怪我をした啓太を見るなり悲鳴のようにそう言ったのは保険の先生だ。その言葉通り、中には同じように怪我をした何人かの生徒の姿があり、今も手当てをしている最中だ。


「あの、包帯貸してもらえたら、こっちは私がやりますけど」

「そう?それじゃ悪いけどお願いできる?」


 混雑した様子を見かねて藍が言うと、保険の先生は二つ返事で了承してはこちらに救急箱をよこしてくる。だがそれに慌てたのは啓太だ。


「待て、お前がやるのかよ」

「うん。包帯巻いて血を止めるだけだから私にもできると思ったんだけど、やっぱり先生の方が良かった?」

「いや、そういう訳じゃねえけど……」


 藍の言う通り、そう難しいことをやるわけではなく、啓太も別に嫌だと言いたい訳じゃない。ただ、藍にやってもらうのが少し恥ずかしいと思っただけだ。


「それじゃ、始めるから手出して」


 だか藍は、そんな啓太の心境になどまるで気づきもしない。なんの躊躇もなく右手を掴んで、血を拭き取ると、ガーゼを当てて手早く包帯を巻いていく。


「きつかったら言ってね」

「ああ……」


 そうは言っても、そんなものまるで気にならない。それよりも、もっと他の事で頭がいっぱいなっている。


(手、握られてる)


 しかしそれを気にしているもちろん啓太だけで、藍には全く動じた様子はない。

 当たり前かと心の中で呟く。藍にとってはただの手当てしているだけなのだから、変に意識するはずもない。だけどもし、その相手が自分でなく優斗なら、きっとそうはいかないだろう。

 そんなことを考えているうちに、気がついたらいつの間に藍の手は離れていた。


「終わったよ」

「おお、ありがとな」


 軽く指を曲げ伸ばしして感触を確かめる。巻かれた包帯は少しだけ窮屈に感じたが、わざわざ指摘するほどの事ではなかった。


「失礼しました」


 手当てが終わった以上長居は無用だ。二人して保健室をでて教室へと向かうが、その途中藍が再び啓太の手を見る。


「本当にごめんね」

「まだ言ってんのかよ」


 なおも心配するところを見ると、どうやら啓太の怪我には相当責任を感じているようだ。


「だって、明後日には文化祭本番じゃない。演奏、やりにくくなったりしない?」

「これくらいでどうにかなるほど繊細じゃねーよ」


 幸いなことに、ケガ自体はそんなに深いものではなかった。軽く包帯に触れるが、傷は浅く痛みなんて殆ど感じない。演奏にしたって、全く影響が出ない事は無いかもしれないが、藍に心配されるほどの事とは思わない。

 むしろそこまで責任を感じられては、申し訳ないとすら思ってしまう。


 なんとか話題を変えようとするが、そう話のネタや聞きたいことがあるわけでもない。

 あるとすればこれくらいだ。


「先輩といられるのも、明後日で最後か」


 その瞬間藍の足が止まり、びくりと体が揺れるのが見えた。

 それを見て少しの間言葉に詰まるが、そんな迷いを振り切るように尋ねる。


「先輩には言うのかよ?その……好きだってこと」


 これは何も、話題を変えるためだけに聞いたのではない。最後の時を前にして、胸に秘めた想いをどうするのか、ずっと前からそれは気になっていた。

 ただ今まではハッキリ聞くことはできなかった。例えどんな答えが返ってきたとしても、それが自分にとって面白いものだとは思えなかったから。


 だけど残された時間がほとんど無くなってしまった今何も知らないでいることに段々と焦りを感じていた。知ったところでなにができるというわけてはないが、それでも、藍がいったいどうするつもりなのか聞かずにはいられなかった。


 じっと、藍が口を開くその時を待つ。少しの沈黙の後、その時はやって来た。


「迷ってる。って言うより、言うのが怖い」


 そう言った藍の手は、いつの間にか微かに震えていた。


「本当はね、何度も言おうって思ってた。でもそのたびに、断られたらどうしよう、困らせたらどうしようって思って、結局まだ何も伝えられてない。情けないよね」

「……そんなことねえよ」


 好きだからこそ、失敗したときのことを思うと怖くて何もできない。その気持ちが啓太にはよくわかる。なぜなら自分自身がそうだ。ずっと藍のことが好きなのに、そばにいるだけでそれ以上のことは何もやっていない。


「じゃあ、このまま何も言わずに終わるつもりなのかよ?」


 尋ねながら、どんな答えを望んでいるのか分からなかった。

 いや、できることならこのまま告白なんてやめてほしい。例え優斗がどんな答えを出したとしても、自分の好きなやつが他の男に告白するなんて、想像するのも嫌だ。

 だけどもし仮に優斗が藍の気持ちを受け入れたとしても、もう少しで別れる身だ。だから例え藍が告白しようとしまいと、優斗がどんな答えを出したとしても、啓太のこれからが大きく変わることはない。

 なのにどうして、こんなにも胸がザワつくのだろう?


「ありがとね、心配してくれて」


 藍はそんな啓太の心情なんてまるで気づかない。ただ純粋に心配してくれていると思って疑わず、それが罪悪感を募らせていく。

 本当ならそんなことを言われる資格はないのに。胸に渦巻く嫉妬心なんて、きっと藍は思いもしないだろう。だから平気でこうして胸のうちをさらけ出す。


「ユウくんにとって私は妹だから、いきなり好きだって言われてもきっと困る。もしかしたら、最後の最後で、すっごく気まずくなるかもしれない。それなら、やっぱり何も伝えないの方がいいのかも」


 寂しげに語りながら肩を竦める藍を見て、やるせない気持ちになる。こんな風に怖がって沈んでいる姿なんて見たくない。

 だけど背中を押したいとも思わなかった。頑張れや、やってみろなんて、自分の気持ちに嘘をついて応援するなんて、例え建前でもできなかった。

 むしろ自分が言いたいのはその真逆のことだった。諦めろと、そんな想い忘れてしまえと言ってやりたい。


 けどそんなこともちろん言えない。言えないはずだった。なのに……


「何も言わないつもりなら、諦めるつもりならよ……いっそ、俺と付き合わねえか?」

「えっ?」


 時が止まったような気がした。藍はまるで言葉を失ったかのように、驚きながら目を見開いてこっちを見ている。

 いや、驚いているのは啓太も同じだ。口にするその瞬間まで、気持ちを伝えようなんて気は全くなかったと言うのに。今だって、どうしてこんなことを言ってしまったのか、自分のことなのに分からない。


「えっと……それってどういう意味?」


 狼狽した様子で目を泳がせながら聞いてくる藍。それを見て、今ならまだごまかせるのではと思った。かなり無理があるが、相手が藍ならいけるかもしれないと。

 だけど同時に、この期に及んで逃げ腰な自分が情けなく思えた。冷静に損得だけを考えると、藍が優斗のことを思っている今告白したところでいいことはなにもない……はずだ。

 なのになぜだろう。同じように弱気になっている藍を見たからか、どうせ叶わないと思って逃げようとする自分が、どうしようもなく嫌になった。

 だから、ためらいを降りきり、告げる。


「どういう意味って、この状況だとひとつしかねーだろ」


 緊張や怖さと共に告げた言葉。だが不思議なくらいに躊躇いや後悔はなかった。

 とたんに藍は顔を真っ赤にして、今までにも増して激しく取り乱す?


「えっ、でも……ごめん、なんだか私、すっごい勘違いしてると思うから……」

「なんだよ、勘違いって」

「それは……」


 いくらなんでも分かるだろう。なのになかなか事態を飲み込めないでいる藍を見て、苛立ちが募る。どうせ後戻りできないのなら、もう一度はっきり言ってやろう。


「俺は藤崎のことが好きで、付き合いたいと思ってる。なにか、思ってたことと違いがあったか?」

「………………ない」


 よりいっそう赤くなった顔から、か細い声で返事が届いた。

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