第28話 看病回 前編

 次の日の朝、目を覚ました藍は真っ先に顔を洗い、着替えをすませる。少し前までは、休みの日はもうしばらくの間寝間着のままゆっくりすることもあったが、高校に入学してからそれは変わった。もっと正確に言うと、優斗をこの家に招いてから変わった。


 起きてすぐの洗っていない顔に、寝癖だらけの髪の毛。寝間着だって、寝ている間にあちこちシワがよっている。こんな格好、とても優斗には見せられない。

 と言うわけで、朝起きるとすぐに洗顔に髪のセット、更には着替えを済ませるのが藍の日課になっている。


 優斗もそんな藍の心情を察して、全ての用意が終わるまでの間、決して藍の部屋の押し入れから出ないでくれている。もっとも、彼はそれが年頃の女の子故の恥じらいとしか思っておらず、好きな相手だからこそ尚更恥ずかしいと言う根底にある想いには気づいていないようだが。


 ともかく、そんな朝の日課は休みの日であっても変わらない。例え両親が不在で、遅くまで寝ていても誰にも咎められる心配が無かったとしてもだ。

 今日もまた、着替えをすませた藍は、優斗の入っている押し入れに声を掛ける。本当はもっと時間を掛けてちゃんと準備したいとも思うが、あまり優斗を待たせるのも嫌だった。


「ユウくん、もう出てきてもいいよ」

「ああ。今いくよ」


 返事が返ってきたかと思うと、押し入れの扉を突き抜けて優斗が姿を現す。実態を持たない幽霊であるせいか、優斗にはいつ見ても、寝癖や服のシワ一つだって見当たらない。そもそも幽霊に眠る必要があるのかもよく分からないが、啓太が言うには生前の習慣がそうさせているらしい。


「おはようユウくん」

「おはよう藍」


 互いに朝の挨拶を交わす。ここまではいつもと変わらない風景だ。これから藍はリビングに行って朝食を取り、優斗はその間部屋で待機するのだが、今日は両親も夕方まで帰ってこないのだし、一緒にいてもいいだろう。


「朝ごはん、一緒に食べない?」

「いいのか?」

「うん。って言っても、簡単なものしかないけどね」


 昨夜藍が作ったスパゲッティとは違い、朝食はトーストと作り置きしていたサラダと言う簡素なものだ。だが食事と言うのは、やはり一人で食べるより他の誰かと一緒の方がずっといい。ましてやそれが優斗なら尚更だ。


 優斗を連れて、リビングに向かおうとする藍。だがその途中、クラリと大きく視界が揺れた。


「──っ」


 足元が振らついていることに気づき、壁に手をついて体勢を保つ。それを見た優斗が心配そうに側に寄るが、そこで何かに気づいたように言う。


「大丈夫?何だか顔が赤くなってない?」

「えっ、そう?」


 言われて頬に手を当ててみると、確かに少し熱いような気がする。洗面所の鏡で顔を見てみると、さっきは気づかなかったが、そこに写っていた自分の顔にはほんのりと赤みが刺していた。


「もしかして風邪か?昨日、髪をちゃんと乾かせなかっただろ」

「うーん、そうかも」


 実を言うと、ベッドから起き上がった時から、どこか気だるさや熱っぽさは感じていた。だけどその時はそれ以上に、髪の跳ね具合の方が気になっていた。何しろ乾ききってない状態のまま布団に入って一夜を過ごしたのだ。起きた時にはあっちこっちに飛び跳ねていて大変なことになっていた。もちろんこんなの優斗に見せるわけにはいかないと、大慌てでセットしたものだ。


 だけどこうして落ち着いてみると、確かにあちこちに不調を感じる。熱っぽいし、頭が重いし、節々の関節に鈍い痛みを感じる。


「病院、行った方がいいんじゃないのか?」


 優斗がそう提案するが、藍としては迷うところだ。


「うーん。でも、お父さんもお母さんも今いないし、しばらく安静にしておけばいいかな」


 少しきついくらいだから、そこまで大事にはならないだろう。そう思いながら、とりあえず藍は朝食の準備に取りかかる。本当に風邪を引いたなら、食べられるうちにしっかり食べておいた方がいい。

 だが用意をしている最中にもだんだんと辛さは増していき、テーブルにつく頃にははっきりと頭に痛みを感じるようになっていた。


「本当に大丈夫か?」

「きついかも…………」


 起きたばかりの頃よりも、明らかに調子が悪くなっている。この段階で、もはや風邪であるのはほぼ間違い無かった。何とかパンを一切れ頬張るが、味覚もおかしくなっているのか、口の中には変な味が広がっていく。もう一齧りしたところで、とうとう食べる手も止まってしまった。もったいないが、これ以上は食べられそうにない。


「熱、計ろうかな」


 病院に行くにしても、事前に体温がどれくらいか分かっておいた方がいいだろう。確か体温計は、隣の部屋に置いてあったはずだ。取りに行かないと、そうは思っても、頭が重いせいかなかなか席を立つことができなかった。


「俺が持ってこれたらいいんだけどな」


 優斗は申し訳なさそうに言うが、幽霊である彼はこの世の物には触れられないので仕方がない。


「多分、熱は結構あるんじゃないかと思う」


 ぐったりしながら呟くが、ちゃんとした数字が分からないとどうにも不安だ。

 仕方がない。重くなった体を起こしたその時、ふと優斗が藍の前へと立った。


「ユウくん?」


 いったいどうしたのだろうと思ったが、優斗ほ更に顔が藍に向かって真っ直ぐに顔を近づけてくる。藍の真正面、距離にして僅か数センチ。いつ触れてもおかしくない位置に、優斗の顔がある。


「──っ!」


 息を飲んだ次の瞬間、残っていたほんの僅かな差が埋められた。優斗の額が、藍のそれにピタリと触れる。いや、実際には優斗の体は藍をすり抜けるので触れていると言っていいのか分からないが、ともかく今、二人の額が重ね合った状態へとなっていた。


(ゆ、ユウくん!)


 ゼロになったその距離に思わず声を上げそうになって、だけどその口からは何の音も漏れる事はなかった。驚きのあまり、声の出し方を忘れた。さっきまで感じていた頭痛やだるささえも、全てが吹き飛んでしまっていた。


 だがそんな藍の心中などまるで知らないように優斗は言う。


「やっぱり、これじゃ熱はよく分からないか。幽霊になってから、熱いや冷たいが分かりにくくなってるからな」

「へっ……」


 密着していた額を離し、心配そうな顔をする優斗。それを見て出てきた声は、とても間の抜けたもののように聞こえた。

 そこで藍はようやく、優斗がおでこを当てることで熱を計ろうとしていたのだと気づく。


「けどやっぱりきつそうだし、病院には行かないにしても、寝ておいた方がいいんじゃないか?」

「や、やっぱりそうだよね。ちゃんと……休まないと……」


 なんとか返事をしながら、だけど頭の中ではさっき光景が離れないでいる。

 おでこをくっつけての熱の確認。もちろんそれだけでも取り乱すには十分な出来事だが、あまりに近かったあの距離はまるで……


(キスされるのかと思った)


 あの時、すぐ近くにある優斗の唇が目に入った。とても幽霊とは思えない、血色の良いそれを間近で見て、とっさにそんな事を思ってしまった。

 もちろん、冷静に考えればそんな事あるはずないとすぐにわかる。だが熱で思考が鈍っていたし、何よりあれだけ近くにいたと言う事実が、そんな当たり前の判断を完全にできなくしていた。


(私、なんて事を……)


 今さらになって、とんでもない事を考えていたんだと思い途端に恥ずかしくなってくる。カッと全身が熱くなり、まるでさっきまでよりもずっと熱を帯びているかのようだった。


「本当に大丈夫か?何だかまた顔が赤くなってるように見えるけど?」

「だ……大丈夫!」


 本当は全然大丈夫じゃないけど、もちろんこんな事優斗には言えない。

 とりあえず、体温計を持ってきて正確な熱を計ろう。抱いてしまった恥ずかしさを振りきるように無理やり思考を切り替え、隣の部屋に向かおうとする。だけど急に動いたせいか、体がそれについていかなかった。数歩進んだその時、この日何度目かわからない大きな頭痛が襲った。


「あっ──」

「藍っ」


 ふらつくのを藍を見て、駆け寄ってくる優斗。手を伸ばしながら近づいてくるその姿を見て、さっきの場面が頭をよぎる。キスをされるのではないかと誤解したあの場面が。


 ボンッ!


 まるで全身の血液が沸騰する音が聞こえたような気がした。果たしてそれが風邪によるものなのか、はたまた恥ずかしさが限界を超えたためなのかは分からない。

 はっきりしているのは、それをきっかけに藍の意識が急速に失われていったと言うことだ。


 目の前の景色がぼやけとかと思うと、だんだんとそれが真っ暗に変わっていく。


「藍?……藍、聞こえてる!?」


 視界の全てが黒く塗り潰されていく中、優斗の呼び掛ける声だけが耳へと届いていた。

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