第25話 ごめん 2

 不毛とも言える言い争いを経て、二人はようやく落ち着けたような気がした。

 その次に藍がしたのは、電話をかけること。その相手は啓太だ。


「三島が言ってくれたんだ。ユウくんとちゃんと話せって」

「三島が?」


 それは、藍に話があると言って優斗を外させた時の話だ。


「うん。ユウくん、きっと色々気にしてるだろうから、それが嫌なら言いたいこと全部話せって言って、背中押してくれた」

「あいつ……」


 なんだか色々見透かされたみたいでくすぐったくて、だけとわざわざそんな気遣いをしてくれたのには素直に感謝しかなかった。


「三島にも、ずいぶん心配かけたんだな」

「ちゃんとお礼言わないと。おかげで仲直りできたって」


 スマホを取りだし、啓太のアドレスを確認する。これだけ親身になってくれたのだから、しっかり報告はしておきたかった。

 だけどいざ電話をしようとしたその時、異変に気付いた。


「えっ?」


 いったいどうしたと言うのか、なぜか体が思うように動かない。まるで全身の筋肉が固まったように硬直している。

 藍の様子がおかしいのには、優斗もすぐに気づく。


「どうかしたか?」

「ううん、なんでもない」


 そう答えはしたものの、依然として体の動きは悪いまま。だが優斗には客観的に見ている分、藍の身におこった異常はよりはっきりと確認できていた。


「手、震えてる」

「えっ?」


 言われて初めてきづく。さっきまでは普通にしていたはずなのに、いつの間にかその手は小刻みに震えていた。


「大丈夫か?気分は悪くないか?」


 心配そうに訪ねるが、急な変化に困惑するのは藍も同じ。その理由はすぐに分かった。


「なんだか、今ごろになって怖くなってきちゃった」


 いつの間にか、頭の中に壮介に襲われた時の記憶が蘇っていた。

 倒された事を思い出しては嫌悪感と気持ち悪さが溢れてきて、捕まれた腕には今も痕が残っているのではないかと錯覚してしまう。


 もう終わったことなのにどうして今更と思ったが、そんなのは簡単な事。ついさっきまでは、それを気にする余裕がなかっただけだ。


 優斗を傷つけたという後悔で頭が一杯になっていた藍には、他の事なんて考えていられなかった。だけど無事に言いたい事を言い、やりたい事を全て終えた今ずっと張りつめていた緊張の糸が切れた。そして同時に、改めて当時の記憶と恐怖が蘇ってきたのだ。


「もう大丈夫だってのに、変だよね。ごめんね心配かけて。でも大したことないから」


 優斗を安心させようと強がるが震えは一向に治まらず、それどころか気がつけば額からは冷や汗が流れ、心臓はバクバクと激しく高鳴っている。


(どうしよう。怖い)


 今の今まで意識の外に追いやっていたと言うのに、急にこんなにも怖がるなんておかしな話だ。そう思いながらも、依然として恐怖は静まる事なく、とうとう涙がこぼれそうになる。だけど寸でのところでそれをグッとこらえた。


 藍がまだ小学生だった頃は、優斗の前で泣くなんて何度もあった。主に啓太に意地悪をされた時、助けを求めるためにわんわん泣いた。

 だけど今、そんな姿を見られると思うと恥ずかしくてたまらない。過ぎた事をいつまでも怖がって泣くなんてみっともない。そう思って、必死に泣くのを我慢しようとする。


 だがその時、優斗がそっと抱きしめるように、藍の体を覆った。


「泣いたっていい。我慢しようとしなくていい。怖いなら苦しいなら、全部吐き出していいんだ」


 まるで心を見透かされたようなその言葉に息を呑む。顔を上げると、安心させるように微笑んだ優斗が見えて、とうとう溜め込んでいた涙が溢れてきた。


「――――っ!」


 声もなくボロボロと泣き崩れる藍を見て、今度は震える手にそっと自らの手を添えた。


 以前背中に回している手もそうだが、もちろん優斗は藍に触れる事も温もりを伝える事もできない。だけどその瞬間、なぜか胸の奥が暖かくなり、ほんの少しだけ恐怖が和らいだような気がした。


「ユウくん――」

「大丈夫。大丈夫だから――」


 こうする事で少しでも恐怖を取り除くことができたらと、優斗は何度も何度も声をかける。藍も既に余計な強がりは捨てていて、甘えるように優斗の元に体を傾けた。


「少しだけ、こうしてていい?」

「いいよ。藍の気がすむまで、いつまででも」


 一度拗れた関係や恥ずかしさが邪魔して素直になれなかったけど、本当はずっと前からこうしてほしかったような気がする。


「私を閉じ込めたのが先輩だって聞いて、凄く驚いた」

「――――うん」

「手を掴まれてとても……とても気持ち悪かった」

「――――うん」

「怖くて……不安で……嫌で……嫌で……嫌で……」

「――――うん」


 最悪な記憶をたどりながら、その時感じた想いを吐き出すように一つ一つ並べていく。だけど優斗が相槌を打つたびに、落ち着かせようと頭を撫でる度に、そんな恐怖や嫌悪感が振り払われていくような気がした。少しずつ、安らかな気持ちになっていくような気がした。

 ただひとつ残念なのは、実際には優斗に触れられないと言う事だ。もしそれができたら、きっと今以上の安らぎをくれると言うのに。






 だけど藍は知らない。こんな安らかな気持ちをくれる優斗が、穏やかな顔で笑う優斗が、本当はその内に激しい思いを抱いているというのを。


(どうして藍に触れられないんだろうな。それができたら今すぐ抱き締めて、涙も震えも止めてやるのに)


 触れられないのを残念に思うのは優斗も同じだった。いや、もしかするとこちらの方がより強くそう思っているかもしれない。

 涙をぬぐってやれない事が、温もりを与えてやれない事が、とてもとても悔しく感じた。


 それでも、ようやく藍が少しだけ笑顔を見せると、ただそれだけの事が嬉しくて満たされた気分になる。


(何だろうな、この気持ちは)


 ふと、胸の内にある奇妙な違和感に気づく。

 それは倉庫で藍を助けた時から、ずっと微かに抱いていた想いだった。


 藍が大事という想い。それだけを聞くと、これまでと何も変わらない気がする。だけどこの気持ちは、今までのものとは何かが違う気がした。


 穏やかで温かいものとは違う、激しく燃え上がるような熱い思い。壮介にはもちろん、他の誰にも藍に触れさせたくないと言う、身勝手とも取れる衝動。


 新たに生まれた感情に戸惑いながら、だけど結局それが何なのかは分からなかった。






 なぜなら答えにたどり着くより先に、優斗の意識は途切れたからだ。


 藍に手をかざしていたかと思うと視界が大きく揺れ、それっきり目の前が真っ暗になった。


「ユウくん!ユウくん!」


 必死に名を呼ぶ藍の叫びも、今の優斗には届かなかった。




           先輩の影 了


※次回からしばらく番外編をお送りします。

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